おまけ:帰路の途中で
ありがたくもお声を頂いたので、ちょっとしたおまけを書きました。
本編ラストで再会した後、ガイレア→ウレノスへと帰る道中の出来事です。
(途中に入る回想の時系列は、第二章が始まる少し前です。)
――これは、さすがにまずいのでは……。
とある宿の一室。寝支度を終えて洗面室を出たところで、リオレティウスは立ち尽くしていた。
二国の動乱とその収束に際して。ガイレアの姫は再びウレノスの王子に嫁ぐこととなった。
彼らはガイレア王宮で準備を整えたのちに、共にウレノスへ向けて出発した。今夜はこの旅が始まって一日目の宿泊だ。
夕方、宿に到着したとき。リオレティウスに用意されていたのは、妻となる予定の少女と一緒の部屋だった。
旅中諸々の手配を請け負うソニアから、部屋の鍵を渡される。
「はい、お二人のお部屋の鍵です」
「……あれは、ソニアと同室ではないのか」
「? 以前の旅もずっとご夫婦一緒のお部屋でしたよね。あ、今回は一応お忍びではありますが、前回のように極秘ではないのでちゃんと貴賓室ですよ。広いし、お風呂もついてます」
ご用があれば呼んでくださいーと言い置いて、ソニアは軽やかに立ち去った。おそらく彼女は、主である王子の戸惑いになど一切気づいていない。
後に残された王子は、掌にのった鍵を見ながら小さく眉を顰めていた。
――いつまでも子どもではないのだ、そうはっきり認識したのはいつのことだったか。
たしか、彼女が嫁いできて二年と少しが過ぎた頃。毎年春夏に多いことだが、リオレティウスは公務でひと月近く王宮を空けた。軍事施設等の視察のためで、彼にとってはよくあることだ。
視察を終えて戻ると、王宮前には普段通り出迎え列が敷かれていた。軍の顔ぶれに家臣たち、そして最後尾には彼の妃であるシェリエン。
王子妃という立場を思えば一番前で堂々としていていいはずなのだが、彼女は毎度後方でちょこんと待っている。それでもここへ来たばかりの心細そうな様子に比べれば、だいぶ落ち着いているだろうか。
この少女の姿を認めると、リオレティウスは心が安らぐのだ。帰ってきたな、と。
婚姻を結んだ年、初めて彼女を出迎え列に見つけた際は、無意識に人前で抱きしめてしまったほど。帰城時の感慨など、それまで特に感じたことはなかったというのに。
けれどもこの日――二人が出会って三度目の初夏においては、彼が受けた感覚はいつもと異なるものだった。
――見ないうちに、少し背が伸びたか? いや、伸びたのは髪か?
家臣たちが作る列の間を進み、妻の前まで歩を進めたリオレティウスは、ふと思う。
今回王宮を空けていたのはひと月ほど。なんとなく彼女の雰囲気が違うように感じるのは、久しぶりに顔を合わせたからだろうか、と。
朗らかに丸みを帯びた午後の陽が、あたりを包んでいた。
少女の銀色の髪と睫毛は光を浴び、木漏れ日のように揺れ輝いて。出迎えの人たちの中、彼女の輪郭が浮かび上がって見えた。
淡い薄緑の両瞳は、帰城した夫のほうへ真っ直ぐに向けられている。透き通る白肌の上、頬と唇に紅が滲んでいるのは初夏らしい陽気のせいだろう。時折流れる風がこれを和らげはするが、体を動かせば汗ばむほどの気温だ。
以前と何が違うのかうまく説明はできない。けれどもこうしてひと月ぶりに、改めて対面する妻の姿はなんだか艶めいて――リオレティウスは、急に面映さを覚える。
「……リオ様?」
彼がハッと我に返ると、目の前ではシェリエンが小首を傾げていた。
出迎えの挨拶に対して夫が返事もせず、無言で動きを止めていたのだ。不思議に思ったに違いない。彼は慌てて答える。
「あ、ああ。今帰った」
そのまま何事もなかったかのように、妻に微笑みを返してみせた。一緒に王宮内へ入り、国王に視察の報告をしに行くからと言って、彼女と別れる。と、ここまでは毎度の流れだが。
足早に廊下を歩きながら、リオレティウスは小さく息を吐いた。
――あれはもう、子どもではないのか。
形のみの婚姻を結んでから二年と少し。シェリエンは十五、今年の秋が来れば十六歳だ。
視察に出る前、毎日顔を合わせていたときには気がつかなかった。いつの間にやら、彼女がだいぶ大人びてきていたことに。
それから、反省する。春先に、彼女を抱きしめて眠った。この国の春の風物詩である雷が鳴ったからだ。
怖いと縋ってくる彼女の背を撫でるのも恒例になり、いつまでも子どもだなと笑ったばかりだというのに。思い返せばよくそんなことができたと狼狽えるくらいには、先ほどの彼女は女性らしく見えた。
不用意に触れてしまわないよう注意しなければ、リオレティウスはそう気を引き締める。
冷静に考えてみると、夫婦という間柄の二人に何があったとて咎める者はないのだが。生真面目な彼の理性が、これを許さなかった。
――あれは、望んで俺の妻になったわけではない。腕の中で安心しきっているのは親代わりとして懐いているからで、それを傷つけるようなことがあってはならない。
そうやって、過去の日の彼は固く決心したのだった。
しかし今。紆余曲折あり別れを経て再会したシェリエンは、十七歳になっている。そして、夫婦として共に生きようと気持ちを確かめ合った。手を離そうと腹を決めたときとは状況が違うのだ。
その彼女と同室で何事もなく夜を明かせというのは――なかなかに酷ではないか。
宿の部屋で寝支度を整えるにあたり、リオレティウスは洗面浴室の使用を先にシェリエンへと譲った。彼女が使用を済ませたあと、入れ替わりでそちらに向かう。
寝ていてくれと伝えたものの、支度を終えて出てきてみれば、彼女は部屋のソファーで同室者を待っていた。
宿の案内が書かれた紙片を手にし、時間つぶしに眺めていた様子だ。入浴後の髪は昼間よりしっとりした質感で、片方の肩にまとめて流されている。
ややあって、ソファーに座るシェリエンから、佇むリオレティウスへと不思議そうな視線が向けられた。これに耐えかねた彼は、躊躇いながらも隣へ腰を下ろす。
普段より離れた位置に座ってどこか決まりが悪そうにしていると、問いかけがあった。
「どうかしたのですか?」
「いや、しばらく会わない間にお前がまた大人びているから……少し、困っていた」
返答を聞いた少女の表情に、変化はない。二、三度瞬きが返されただけ。
どうやら伝わっていないようだ……と、彼は心中に複雑な思いを抱く。
一度目の婚姻で初めて寝室を訪れた夜は、毛を逆立たせた小動物のごとく怯えていたのに。一体いつの間にこれほど信用されたものか。
夏の日差しの下だろうが薄暗い寝室だろうが、こちらへと向けられる少女の瞳は純粋無垢で。それが愛おしくて仕方ないのだが、こんなときには僅かに憎らしくも思える。
つい、焦れるような心が漏れた。
リオレティウスは腕を伸ばすと、隣に座る小さな背を抱き寄せた。
なんの抵抗もなく、彼女はすとんと懐に収まる。白いうなじからはほのかに湯上がりを思わす、温みの残る香気がふわっと届く。
「いっそ、初めて会った日の夜みたいに震えていてくれたらいいんだが」
そう低い声でこぼしたところで、ようやく。
言葉の含む意味に気づいたか、少女は腕の中でほんの少し身体をこわばらせた。
しかしこれを受けて慌てたのは、どちらかといえばリオレティウスのほうだった。
「すまない、怖がらせた」
彼は腕をパッと解き、急いで身体を離そうとした。
けれど途端に、ついと引っ張られる感覚に気づく。見れば、彼のガウンの胸元あたりを少女がつまんで引きとめていた。
「リオ様は、怖くないです」
――息が止まるかの心地を覚えて。
暫しの間、リオレティウスはぴたりと静止した。
それから、もう抗いようもなかった。ほぼ反射的に少女の後頭部へ手をすべらせ、抱え込んで口づける。
彼女は逃げ出す気配なしに、腕の中にとどまっている。
あまりに自然に受け入れてくれるので、離れ難く――合間呼吸を継ぐように漏れる吐息が愛しく、それすら許さず塞いでしまいたくなる。
沈黙の中、聞こえるのは互いの息遣いのみ。
このまま遠慮なくいつまでも腕の中に閉じ込めていたい、そんな想いに傾きかける。
それでも――なんとか残った理性的思考が、彼の脳裏を巡った。
彼女はまだ、俺の妻ではない。帰って国王に正式な許可を得てからだ。まずはこの帰還の旅を無事に終えて、でないとけじめがつかない。そもそもこんな帰路の途中で、一時滞在するだけの宿で流されるままにというのは――
「駄目だ、こんなところでは」
振り切るように、彼は沈黙を遮った。
少女は急に発せられた声に驚いたのか、瞳を丸く見開く。けれどもその身は未だ、無防備に委ねたまま。
このまったく危機感のない生き物はどうしたものか……
そう胸の内でぼやきつつ、リオレティウスは片眉を八の字に歪めた。
他方で彼は、こうも思う。
しかしこんなもどかしさなど、取るに足らないことだ。――我慢ならいくらでもできる。
彼女が自分の隣にいたいと思ってくれるのならば、それだけでいい。
そして、笑っていてほしい。無理にではなく、彼女が笑いたいと思ったときに。子どもだと見ていたときも、そうではないと気づいてからも、変わらぬこと。
大人びてゆく彼女に戸惑ったり、心配なほどの無防備さに困らせられたり、心乱されることはこれまでも多々あれど、それすら含めて愛おしいのだから。我慢などこちらがすればいい。
……まあそうは言っても、今その自制が危うかったのは事実だ。だからできれば、せめて――
「せめて王宮に帰るまでは、俺のことをもっと警戒していてくれ」
そうして彼は、もう何度目になるかわからない困り笑顔を浮かべたのだった。




