幕引後:雪の日
完結後のちょっとした後日譚です。
ほのぼのと、他愛のない日常の風景になります。
――あ、雪……。
ウレノス王宮、王子妃私室にて。
外の様子に気づいたシェリエンは、窓辺に寄って空を仰いだ。今年初めての雪が、はらはらと身軽に舞い踊っている。
――なんだかすごく、久しぶりの光景みたい。
昨年の冬、彼女はここにはいなかった。初雪を目にしたのは、亡命ともいえる故国ガイレアへの旅の道中。
夫であった王子から、突如別れと和平の破綻を告げられ、これを受け止められないでいた折だ。
当時の彼女には、雪をゆっくり眺める余裕はなかった。寒いとか冷たいとか、そうした感覚もどこかへ行ってしまっていたように思う。
空を見て、巡る季節を感じる。そんな当たり前のことに、彼女は懐かしさを覚えた。
雪の日特有の静謐さ。そこへ、その空間を壊さぬ響きで扉を叩く音。
シェリエンが振り向くと、部屋の扉が開いてリオレティウスが現れた。時間ができたので妻の顔を見に、とのこと。
暫し考えてから、シェリエンは、では庭園に散歩をと提案する。彼は「寒いぞ」と少々驚いて、けれど反対の素振りなく快諾した。
二人は連れ立って庭園へと出かけてゆく。
夫は、妻が防寒着を重ねたのを入念に確認したのち、自らが纏う騎士服のマントで覆うように彼女の肩を抱いた。
一見するとくすんだ緑一色の庭園は、よく見ればささやかな色づきがあった。冬場に咲く花たちが、小さくとも惑わず上を向いている。
雪は気まぐれにちらついて止んでを繰り返し、傘を差すほどではない。
吐息を白くさせながら、二人は園内の小径をゆっくり歩く。ぴたりと離れず、身を寄せる理由になる寒さはむしろ好都合とでも言うように。
――再会を果たしたあと。
シェリエンはガイレア王宮にて輿入れの支度を調えてから、ウレノスへと出発した。ウレノス軍の面々は大部分が先に帰国していたが、リオレティウスと、他少数が残って護衛として同行した。
一行は途中、シェリエンの故郷の村に立ち寄った。
彼女の養親を訪問すると、夫となる王子は育ての親への感謝を述べ、結婚の許しを求める意で頭を下げた。
養親たちは唖然として固まったが、すぐに破顔し喜んでくれた。おじさんは隠れて涙ぐんでいた。おばさんは「旦那様、素敵ね」とシェリエンにこっそり耳打ちし、うふふと笑った。
こうしてシェリエンが再びウレノス王宮へ戻り、ひと月近くが経つ。
生活は、最初の婚姻のときとさほど変わらない。リオレティウスは相変わらず忙しくしていて、でも時間を見つけては日中も妻に会いに来る。ティモンや周りの侍女たちの対応は手厚い。
違いというなら――。
戻ってすぐ、ウレノス国王に謁見した。前回同様、王はごく僅かな時間のみシェリエンへと目を向け、そして言った。「歓迎する」と。
それから、保留になっていた妃教育を本格的に始めた。あとは、彼が従事する軍の訓練を時々見学させてもらう約束をして……
改めて思ってみれば、意外にも違いは多いかもしれない。ただ、日々は以前のとおり穏やかだ。
シェリエンが軍の訓練を見たいと頼んだのは、知りたいと思ったから。彼が身を挺して携わってきたものについて。
二度目の婚姻でウレノス王宮に戻り、初めて夫婦として寝室を共にした日。彼の傷痕を見た。先のガイレアとの戦で受けた傷。
これくらい何でもない、もう治っているから大丈夫だと彼は言ったけれど、思わずこぼれた涙が止まらなくなった。もし、例えば少しでも運が悪かったりしたら、失う可能性があったかもしれないと。
彼は、震える肩をしっかり抱きしめてくれて。そして「すまない」と一言、耳元で小さく口にした。
二国の関係は今のところ良好だ。しかし、国の軍機能が止まることはない。隣国とのこと以外も含め、粛々と有事への備えを続けている。
このまま彼を見送ることがなければいいと、シェリエンは思う。けれど――全部背負うと決めたのだ。見学の申し出は、目を背けないための、彼女の決意といってもよかった。
違いといえば、もう一つ。一度目の婚姻の記憶へと思考が向いていたシェリエンは、ふと思い出す。
前回ウレノスに嫁いですぐのとき、彼は言った。「お前は自分のことだけ、自分の幸せだけ考えろ」と。
突然に取り立てられ、望まぬ結婚を強いられた幼妻を気遣ってくれたのだろう。彼の庇護下で好き勝手生きてよいということ。当時のシェリエンにとって、ありがたすぎる話だった。
けれど後からよくよく考えてみれば、それは夫婦としての言葉ではない。夫婦としての関わりを、彼が一切望んでいないことの表れともとれた。
シェリエンの年齢のせいもあっただろうが、形だけの妻が好きとか嫌いとか、きっとそういうことではなく。彼は最初から、独りで生きるつもりだったから。
急にそんなことに気がついて――
「私は、リオ様にも幸せでいてほしいです」
静かに散歩を続けていた庭園の真ん中で。
彼女はつい、考えが纏まらないままに口走っていた。
脈絡なくこぼれた言葉に彼が目を丸くするので、シェリエンは慌てて説明する。
初めて会ったばかりの頃に言われたことを思い出したのだと。しかし今は、自分のことだけでは満足できないのだというようなことを、辿々しくも力を込めて訴えた。
少女の懸命な様子を、リオレティウスは話の最後まで見守って、おもむろに答える。
「確かにそんなことを言ったが、まあ今でも変わらないというか……。俺は、お前が幸せにいてくれればそれでいいんだが」
そのやわらかな返答に、シェリエンは受け流されたような気持ちになり。なんだか腑に落ちず、小首を傾げた。
けれども彼は構わずに微笑む。それから、何か心づいたように補足した。
「ああでも以前とは違って、お前がただ幸せなだけじゃなく、俺のそばで幸せでいてほしい。
……少し、欲張りになった」
不意に、雲間から青空がのぞいた。
冬にはめずらしい、澄んだ鮮やかな天色。
雪は不思議と微かに舞ったままで、“天気雪”とでも呼ぶものだろうか。
ふわりと落ちた花びらが、流れる水に身をまかせるかのごとく。
青の中に煌めいて、溶けゆく仄かな銀色。
時が止まったように、何も言わずとも二人で眺める。
目の前に広がった光景を綺麗だなと思いながら、なぜそう感じるのかをシェリエンは知っている。
――変わらないようでいて、変わってゆくこともあって。それらを分かち合いながら、明日もまた隣にいられる。
……けれどそれは同時に、いつか失うかもしれない痛みを引き受けることでもあると知った。
それでも、ずっと共に在りたいと願うことは――
想いの先に、迷いなく紡がれた少女の言葉。
どんな空より美しい青の瞳が、これをあたたかに見つめていた。




