邂逅 -2
迷いはなかった。
“戦いの功労者”とだけ伝えられていた人物がその人だと気がついたとき、というよりそんな付随的な情報はどうでもよく、少女は一目散に駆け出していた。
周りは見えず、声も聞こえず、ひたすらに彼だけを映して。広間の入り口から彼までの距離が遠く、もどかしいと思うくらい、一瞬でも早くそこへ辿り着きたかった。
青年は信じられないといった面持ちでその姿を見つめ、彼女が二人の距離の半分ほど来たところでようやく我に返る。
残りの数歩を大股で埋めると、彼は身を屈めて少女をしっかり抱きとめた。
隙間なく回された腕の中で、シェリエンは大きく息をついた。
目の前の体温と、匂いと、鼓動の音と。やっと届いたそれらを離したくなくて、彼の胸に一層深く顔を埋める。
駆けてくる彼女を目にした瞬間、リオレティウスは戸惑った。あんな、突き放すように別れたというのに。何故それでもなお真っ直ぐな想いを向けてくれる――。
しかし、この逡巡は意味をなさなかった。ひとたび触れてしまえば、もう離すことはできなかったから。
求められるがまま、彼はその小さな身体を強く抱きしめた。
他のことは何もかも忘れた様子である二人の、再会の抱擁は終わりがなく。
だいぶ待ったのち、新王となったアオリウスはディアーネと顔を見合わせる。
それから咳払いを一つ、遠慮がちにしてみせた。
「邪魔をするのは大変忍びないんだが……、ガイレア王として提案が」
リオレティウスはその言葉にハッとして顔を上げたが、少女を離すことはしなかった。一応抱擁という形は解きつつも、寄り添ったまま話を聴く。
そんな二人を気恥ずかしそうに見ながら、新王は続けた。
「もし君たちがよければ。婚姻による和平を結ぶというのはどうだろうか。政治の道具や人質といったものではなく、両国を繋ぐ者たちの婚姻として」
――まずは、二人で話がしたい。
新王アオリウスからの提案にそう返事をし、二人は王宮の一室へと移動した。
「……すまなかった。お前の話もきかず、黙って別れを決めた」
部屋に入るや否や、リオレティウスが先に口を開く。
室内にある椅子に腰を下ろすこともせず、二人は入ってすぐのところで立ったまま話し始めた。
「私は、後悔していました。迷惑をかけたくなくて、自分から何もきかなかったこと」
ある夜突然にウレノスの王宮を発ち、理由もわからず始まった旅。この旅のこともそうだし、それまでも。
彼の様子がどこかおかしいと気づいていながら、シェリエンはこれを問うことができなかった。
それに、離れてから思い返してみれば、自分は彼のことをあまりよく知らなかったのだとも気づいた。
大きくて頼れる存在だと思っていた彼は、ある日とても哀しい瞳をしていた。
「もっと知りたいです。リオ様が、何に悩んで、何を抱えているのか。王宮を出る少し前、妃教育のことを話したときもすごくかなしい顔をしていて……」
――哀しい? リオレティウスは、虚をつかれたように彼女を見返す。
妃教育のといえば、あのとき――彼女の言葉を聞いて、自分でも気づいていなかった、奥底に眠る記憶や感情が引っ張り出されたときだ。俺はそんな顔をしていたのか。
「俺は、自分の出生を憂いていないと話したことがあっただろう」
少女の頷きを認め、彼は続ける。
「それは嘘ではない。次期王としての役は兄に任せ、国のため武に生きるのは悪くない生き方だと。
だが一方で、この身はいつどうなっても構わないと思っていた。元々なかったはずの命だから。心の奥底では……自分がここにいてもいいのか、わからなかった」
シェリエンは眉を歪め、声を失った。
ここにいてもいいか――つまり、自分という存在がこの世に生まれてきてもよかったのか。
そんなこと、考えたこともなかった。
物心ついたときから母親しかおらず、王族の庶子である事実を伏せられていたシェリエンの環境は、普通の子どもとは違ったかもしれない。それでも、自分の存在意義を疑う余地なんてないくらい、母が愛情を注いでくれた。
思わず彼の手をとり、両手でぎゅっと包み込む。どうなってもいい命なんてあるわけがない。
リオレティウスは目を細め、自身の無骨な手に重ねられた、小さな両手を眺める。
それからもう一方の手を伸ばすと、少女の前髪あたりを優しく撫でた。
「お前が、逢えてよかったと言ってくれたから。俺はここにいてもいいのだと思えた。何も持たず生きてゆくつもりだったものを、求めたくなった。
しかし両国の関係が変わって、このままそばに置けばお前を傷つけると。初めから無かったことにしてしまえば、お前は故郷で幸せに暮らせると思ったんだ。俺さえ諦めれば。
……無かったことになど、できるはずもないのに」
彼の口から初めて聞く、様々な思い。シェリエンはこれを静かに噛みしめてゆく。
青い瞳はずっと穏やかで、けれど、最後に少しだけ揺れた。
「今和平が結ばれても、この先何が起こるかわからない。二国のことだけでなく、その他の外憂も含めて。俺はまた、戦いに出る可能性がある。そうしたことがお前を苦しめたり、お前をひとりにするかもしれない。
――それでも、俺の妻になってくれるか」
澄んだ青色が、シェリエンを見つめていた。
温かく、力強い。でもきっとそれだけじゃなくて。
彼が言う、これから先のことについて、シェリエンはその言葉を考える。もしもまた何かが起こったら。
戦いは正しいことだとは思わない。相手が自分の故国だろうがそうでなかろうが、起きてほしくない。この優しい人が誰かを傷つける、そして彼自身も危険に晒されるなどと、想像もしたくない。
けれど万一起こってしまったとしたら、彼は身を挺して、それに伴う痛みや苦しみを受け止めようとするのだろう。全部、一人で。
もしこの人と出逢わなかったら、誰かの身を案じて心が凍るような気持ちは知らなかった。
戦は悲しいものだと理解しつつも、直接関わることはなく村で安穏に暮らしていたのだと思う。
でももう、知ってしまったから。理屈なく、そばにいたいという想い。失うのが恐ろしいと思うほど、大切な温もり。
自分が傷つかないためだけに、無かったことにして一人で生きていくなんてできない。
二人でいるのが傷つくことになるというなら、それでも。この人と生きていきたい。彼が何かを負うのなら、私も――。
「私にも背負わせてください。リオ様の負っているものを、すべて」




