交錯 -1
夏。ウレノス王宮、第二王子の執務室にて。
手元の書類量を確認したリオレティウスは、これが済んだら少し時間を空けられるかと、無意識に算段をつけたところで。
――ああ、もうその必要はないのだった。そう気がついた。
先の戦にて傷を負い、意識を失ってから。次に野営地で目が覚めたときには、丸二日近くが過ぎていた。
『……生きてたか』
掠れた声でこぼすと、何らかの処置をしに来ていた軍医がまたもヒッと声を上げた。
神経質そうな中年男性、負傷時に駆けつけてきた者と同一人物だ。手にしたカルテには細かな字がびっしり書きつけられている。
『縁起でもないことを仰らないでください。複数箇所の骨折に出血もかなりありましたが、重要臓器を外れていたためお命に別状はございません』
まったくなんてことを仰るのかと、気ぜわしげな声を向けられる。
患者を心配してくれるのはありがたいことだが、この者は医師にしては感情が表に出過ぎではないか。少しずつ動き始めたリオレティウスの頭が、ぼんやりそんな思考をしていると。
『妃殿下も待ってらっしゃるでしょうから。……っと』
処置をしながらぶつぶつ小言を続けていた医師が、そこでハッと口をつぐんだ。“第二王子妃”の事情を思い出したからだろう。
目下の戦において敵であるガイレア出身の彼女は、情勢に心を痛めて王宮奥に引きこもっている――ことになっている。
シェリエンの亡命は極秘事項であり、無論この医師も真実は知らない。ただ、急に姿を現さなくなっても不審に思われないよう、まことしやかな噂を流してあった。気煩いに伏せって閉じこもっているのだと。
皆、腫れ物扱いのごとく彼女の話題には触れない。医師はこれを、うっかり口にしてしまってから気づいたようだ。
しかしここで謝罪を述べるのはかえって無礼だろうか、とでも悩んでいそうな相手への返答として、リオレティウスはぽつりと呟いた。
『……そうだな』
徐々に、人々はこの王子妃の存在を忘れてゆくのかもしれない。まるで初めから、彼女はここにいなかったとでも言うように。
リオレティウスは机上の書類を脇によけ、溜め息を吐きつつ椅子の背にもたれた。
会戦の日からもうすぐふた月。戦場で受けた傷はまだ完治には至らず、身体が軋んだが構わない。
最初は、小さな――それこそ、うさぎのような生き物を拾ってしまった心持ちだった。手元に置くつもりがなかったものを、どう扱えばよいかと。それが、いつしか。
彼女がいる生活には意外とすぐ慣れたのに、いない生活にはこんなにも、いつまでも慣れないものだろうか。
だが、これでよかったのだ。ただ元に戻るだけ。あの清らかな温もりを隣に置き、傷つける権利は、俺にはない――。
溜め息をもう一つ重ねたところで、部屋の扉が叩かれる。
入室を許せば、険しく眉根を寄せたティモンが現れた。
「殿下、重要なお話がございます」
ティモンが持ってきた話は、とある女性から届いた書簡についてだった。
「例の旅の途中で、予定外の宿泊があったと報告しておりましたが」
「……ああ」
リオレティウスの目元がぴくっと引き攣った。
例のといえば、彼女を故郷へと送った旅のことだ。ティモンの表情からして良い話であるはずがない。
「滞在先の女性に、何かあれば連絡するようにと私の名を伝えておりました。役職を伏せた個人への宛先ですが、大方察しはついていたかと。つい今しがた届いた手紙がこちらです」
うまく内容をぼかして、第三者に直ぐそれとわからないように書かれた暗号様の手紙。
中身は、少女の幸せを思って送り出した彼にとって、頭を抱えたくなるものだった。
――現ガイレア王であるシデリスに、シェリエンの存在を知られてしまった。王宮へと駆り出された彼女は対蛮族との戦いに向け、兵を鼓舞する役につくことを決めたと。
「申し訳もございません。ディアーネという人物について、きちんと調査をすべきでした」
手紙によると、送り主である女性自らが秘密を漏らしたのではないらしい。
だが、彼女の実の父親は現ガイレア王、夫はその側近だという。
この者たちと縁を切るつもりで、ディアーネは母方の伯父夫婦の家に身を寄せていた。そこで遭遇した旅の一行の姿は、どうやら夫に見られていたようだ、と。
読み終えた手紙の一点を見つめながら、リオレティウスは暫し言葉を失った。
ティモンの額の皺はさらに深まり、歪みを伴う。
「……この内容が事実かどうか、調査を」
ティモンに命を下した調査が終わるより早く、しばらく経って新たな情報が彼の元へと届いた。
それは、父王の部屋にて。定期的に、国王と王子たちの三人は集って政務等の話を共有しており、その場でのことだ。
ウレノス王家が各地に置いている諜報員からの報せによれば――ガイレアの兵たちの前に、一人の少女が姿を現した。
その素性は明らかではないが、彼女の髪はめずらしい銀色をしていると。




