玉座の間にて -2
「弄ばれ、捨てられた」。その言葉を、シェリエンは反芻する。
嫁ぎ先を離れ、彼と別れることになり、結んだはずの和平はたち消え――自らの無力さを識った。
自分にもっと力があれば、何か少しでも役に立てたのか、今でも彼の隣にいられただろうかと、ふっとそんな考えが湧くこともあった。
何の役にも立てず故郷に帰されたこの状況を“捨てられた”と表すなら、そうなのかもしれない。……でも。
憶えている。一切の見返りなく、彼が優しくしてくれたこと。
涙が止まらぬ夜、宥めるように背を叩いてくれた。不安や恐怖に震える身体を、いつでもそっと抱きしめてくれた。特別でもない日常の出来事を、ただ微笑んで聞いてくれた。
触れたときの温度も匂いも鼓動の音も、身体を包む腕の力強さも、青空のような瞳の美しさも、離れる一瞬だけ感じた唇の熱でさえ。全部、残っている。
「……できません」
「何?」
「嘘は、言えません」
顔を上げ、少女はきっぱりと告げた。
それは、初めての反抗、と言ってもよかったかもしれない。彼女のこれまでの人生における。
幼い少女にとってそうするよりほかなかったと言えばそうなのだが、彼女はずっと、流されるばかりだった。
為す術もなく死せる母を涙と共に見送り、周りの支えでようやく立ち直ったかと思えば、次に待ち受けていたのは予期せぬ結婚。言われるままに従った。
平和のため皆のためなどと、どこかで聞き知った言葉で自らを慰め納得させて。本当は、心は追いついていなかったのに。抗う気なんて起きなかった。
けれど、流れ着いた先には、彼がいた。
求められたことを為すだけ、目立たないよう大人しく生きるだけの日々は、少しずつ変わっていった。
役に立ちたかった。来年も、その先も、この人の隣にいたいと思った。
結局自分には何もできなかったのかもしれない。
けれど――彼がそれを踏みにじるような人ではないことは、よくわかっている。これだけは曲げられない。
瞳に強い意志を宿した少女の返答。これを、シデリス卿は鼻でせせら笑った。
「口答えするか、小癪な。簡単なことだろう、自分を捨てた男を薄情だと罵ってやればいい」
それは惨めさを喚起し、動揺を誘うつもりの言葉だったのだろう。
しかし、少女の表情には寸分の変化もなく。シデリス卿の額には、ぴくっと縦筋が刻まれた。
「隣の王子とやらに随分可愛がられたようだな」
ねっとりと嘲るような視線がシェリエンに纏わりつく。
純粋に、周りをいい人ばかりに囲まれて育った彼女には、目の前の男の言う意味がわからなかった。僅かきょとんとし、遅れてぞくりと寒気を覚える。
理解できずとも、ひどく侮辱されているのは感じた。自分だけではなく、彼までもが。
沈黙が続く。
無垢に澄んだ白肌を青ざめさせながらも、少女は意志を曲げない。
しばらくの間、この動かぬ状況を見かねてか。場にいたもう一人の人物が、初めて口を開いた。
玉座から少し離れた位置で彼らのやり取りを見ていた、片眼鏡をかけた男性。その奥の瞳は黒に似た墨色。同じ色の髪は、顔の輪郭に沿って丁寧に切り整えられている。
「脈絡なくいきなりの話では、彼女も戸惑うでしょう。私から説明しても?」
シデリス卿は不満そうに鼻からふっと息を漏らし、豪奢な椅子の肘掛けに片腕で頬杖をついた。これを合図ととって、男性は話を始めた。
「我が国は今、南東から蛮族の侵略を受けています。その勢いは予想以上に強く、正直なところ、今後こちらの兵力が不足するといった事態も考えられます。
一部では、隣国ウレノスに頭を下げて助けを要請すべき、といった声も聞かれ始めている。しかし我々としてはそれは避けたい。そこであなたの出番ということです、姫」
シデリス卿の絡みつくような視線や声とは対照的に、その言葉はさらりと静かだった。
ごく自然に滑らかに、シェリエンの耳へと注がれていく。
「ウレノスの手など借りない。自国だけで対処すべきとの気運を高めるため、証言してほしいのです。隣国は和平の象徴である花嫁を捨てたと。
……もし今のまま隣国への意見の面で統率が取れず、兵の士気が上がらなくては、蛮族との戦いにも影響が出る。あなたが首を縦に振らなければ、それだけ被害が拡大する恐れがあるのですよ」
流れるような説明を、片眼鏡の男性は温度のない笑顔で締め括った。
そして、衝撃を受けたような面持ちの少女を横目に、この男は腹の内で思う。
――詭弁だ。少女の一言で士気を上げるなど一時的なものに過ぎず、限界がある。
だが、現王――隣国に頭を下げるなど以てのほか、蛮族への対処は自国だけで十分と高を括る――の考えを立てるため、彼女の利用を提言した。
運良くこれが力となって蛮族を撃退できれば大したものだし、うまくいかなかったとして――私にとっては最初から、こんな国などどうなっても構わない。
シェリエンは唇を噛みしめていた。
彼を貶めるような嘘はつけない。けれど、この命令を拒否すれば、多くの人が傷つくかもしれない――。
この少女の姿を、横に立つディアーネは身を切られる思いで見つめていた。
ある冬の日、偶然に彼女を見かけたときは目を疑った。
三年前、花嫁修行のひと時だけ女官として仕えた相手、隣国へ嫁いだ姫が何故ここに。まさか、二国の状況を鑑み、疎まれて帰されたのだろうか。そんな考えが一瞬ディアーネの頭にもよぎった。だがそれは、すぐに違うと気づく。
従者たちは家臣の枠を超え、心から彼女に寄り添っているように見えた。きっと、大切にされてきたのだろう。この亡命にも何か理由があって、彼女を思ってのことに違いないと。
少女はすっかり血の気を失い、今にも倒れそうなほど。細い指で拳をぎゅっと握りしめ、直面した問いに苦悩の表情を浮かべている。
どうにかしてやれないかと、一歩、せめてもの思いで彼女に近づき寄り添ったところで。
ディアーネははたと気がついた。そうだ、この銀色は。
「待ってください。兵たちの士気を上げるというだけなら、証言などなくても可能なはずです――彼女なら」




