泡沫
――元気で。
……母の声がする。
シェリエン、泣かないで。大丈夫。私はあなたのお父様のところへいくの。だから、心配しないで。
画面が切り替わるように、目の前の光景が移ろっていく。
『シェリエンちゃん、王宮の使いという人が来ているんだが……』
『其方にはガイレアの姫として、隣国ウレノスに嫁いでもらう』
『輿入れまでに学んでいただくのは主に、礼儀作法と語学です。本日は……』
『これが俺の妻か。小動物のようだな』
『この結婚が不本意ということではないからな。お前といるのは悪くない』
……わたしは、あなたにあえてよかった。
『この婚姻は、初めから無かった』
元気で――。
違う、あれは母じゃない。
――これは、夢? どこからが。どこまでが。
気がつくと、シェリエンの目線の先には知らない天井があった。少々年季が入って灰色にくすんだ、宿の天井。
――夢じゃなかった。全て。何もかも。
隣には、若い女性騎士が眠っている。彼と別れてから、護衛のため同室で寝てくれている人物だ。
薄いカーテンの向こうにうかがえる窓の外は、暗い。夜明けはまだやってこない。
尤もシェリエンにとっては、今が何時かというのはどうでもいいことかもしれなかった。感じないのだ、何も。
さらに数日の旅を重ねた一行は、無事国境を越えてガイレアに入っていた。
馬で伴走していた家臣の一人はリオレティウスと共に帰ったので、残るは女性騎士と御者、ティモンと、シェリエン。馬車一台、四人だけの小さな一団だ。
故郷の村は、もうすぐ近く。
二度と会えないと思っていた養親のおじさんおばさんや、近所の人たちと再び会えることを思えば、心にふっと小さな灯が点るような気にもなる。けれど次の瞬間にはもう、その儚い灯はたちまち掻き消えてしまう。
これと似たような感覚を、シェリエンは過去にも経験したことがあった。母を亡くしたときだ。
昨日まですぐそこにいた母が、今はいないということ。受け止めるのにはかなりの時間を要した。それでも、隣家に引き取られた彼女は、周りの支えを得ながら少しずつ生きる力を取り戻していった。
その後、図らず隣国へ嫁ぐといった出来事に見舞われながら、考える間もないままにどうにか生き抜いて――辿り着いた場所で、行く先を照らしたのは彼だった。
彼はシェリエンに、“来年”という概念を教えた。
母と見た星空の記憶は、彼と夜空を見上げた記憶と重なって。どちらも大切なものになった。
毎年夏、流星群を見られる機会でもある竜神詣り。
初めて参加した年は、見えず。昨年は、雲ひとつない紺碧の夜空の下、両手に抱えられそうだと感じるほどの星が降った。今年はまた、天候に恵まれず。
今思えば、星が見られるかどうかは大した問題ではなかった。ただ、並んで空を眺めることが――今年の夏も、“また来年”と彼は笑った。
この旅に際し、シェリエンの身の回りのことを補助してくれる女性騎士はソニアという名で、年齢は彼と同じ。明るく気さくな女性だ。
光の加減で赤のようにも輝く茶色の瞳に、同色の髪を後頭部の高い位置で一束にしている。身長は、女性の平均より少し高いくらい。一見細身に見えるが、騎士として鍛えられた身体はしなやかに引き締まっている。
ソニアの母は、幼き日の王子たちの乳母、何人かいるうちの一人だったという。つまり、彼とは幼馴染みのようなもの。男女の別により共に遊んだりしたのは五、六歳頃までらしいが、後に軍部で再会することに。
こんな状況でなければ、シェリエンは話を聞いてみたいと思ったかもしれない。彼の幼い頃や、軍務中の様子などについて。
だが実際のところは、旅が始まってすぐはそこまでの余裕がなかったし、彼と別れてからのことは言うまでもない。
ただ、思ってみれば――自分は、彼のことをあまりよく知らないのかも、少女の頭にはそんな考えだけが過ぎった。
毎日顔を合わせてはいたけれど、知るのはほんの一部分。何でもないことのように王子の責をこなして、いつでも“大丈夫だ”という言葉をくれて、頼りになって、隣にいれば安心感があって。
シェリエンが見てきたのは、そういう彼だ。
だから、旅に出る少し前、妃教育について話をした日。
初めて見る彼の、揺れる瞳に驚いた。大きな身体で、傷ついた獣みたいに心細そうな目をして。
見えていない部分には何があるのだろう――わからないながらも、彼を支えたいと。そう思って、手を握った。
けれど、その繋がりは不確かなものだったのかもしれない。初めから無かったことにできてしまうほどの――。
音もなく、少女の頬を涙が伝った。
涙は枯れないというそのことだけが、全ては夢ではなかったのだと証明する。




