決断 -3
――その日は、清々しいほどの晴れだった。
旅が始まって、数日が過ぎたある日。
一行は、これまでと同じく朝早い時間に宿を出た。小規模な町を後にし、進む先は徐々に人気が減ってゆく。
長閑だ。小型の馬車がぎりぎりすれ違えるかといった幅の、簡易に舗装された道。両脇には背の低い草地が広がり、奥のほうには森が見える。くすんだ緑の中に黄色や枯れ色が混じり、素朴でありのまま、人の手を介さぬ天然のまだら模様を成している。
その日一度目の休憩を経て、再び出発し、しばらく走ったところだった。
何もない場所で、馬車は急に止まった。
どうしたんだろう、次の休憩を取るにはまだ早いのでは――そんなふうにシェリエンが思っていると。
リオレティウスは、おもむろに口を開いた。
「俺は、ここまでだ」
「…………え?」
話が見えず、シェリエンは隣に座る夫へと目を向ける。だが、視線は合わない。
彼は真っ直ぐ座して、馬車の進行方向を向いたままだ。先の一言を発したきり、口を閉ざしている。
説明を求めてティモンのほうを窺ってみても、同様に沈黙が返されただけ。
シェリエンはもう一度、彼の横顔に目を戻す。
得体の知れない焦りから、その瞬きの数を、一回、二回、と無意識に数えてしまう。
そうして、実際よりも長く感じられたであろう静寂が流れて――ようやく、彼は話し始めた。
「ガイレアの王が崩御した。少し前のことだ」
そこでやっと、リオレティウスはシェリエンを見た。一旦腰を浮かせて座る向きを変え、身体ごと彼女のほうを向く。
「あちらは、和平条約は存在しないものだと言ってきた。おそらく戦になる。だから……、お前は故郷へ帰るんだ」
「何を、言って……?」
いきなり告げられた端的な内容は現実感を伴わず、シェリエンにはまったく受け止められなかった。
しかしこれに構わずに、彼は続ける。
「もうしばらく進めば、ガイレアとの国境に出る。俺は目立つから、一緒に行けるのはここまでだ」
瞬きさえ忘れたのかと思われるほど、呆然と動けずにいる少女に向かって。
彼は毅然と説くように言った。
「――この婚姻は、初めから無かった。いいな」
彼は返事を待たず、立ち上がった。シェリエンの前を横切ってそのすぐ左側の扉を開け、外へと降りる。
入れ替わる形で、馬車の反対側の扉から家臣の女性騎士が乗車し、つい今まで彼の席だった場所に座った。
彼の口から聞いた言葉はまだ、頭の中で繋がっていなかった。けれど、追いかけなくては――弾かれたように、シェリエンは勢いよく立ち上がると彼の背を追って飛び出した。
ほとんど転げ落ちるかのように馬車を出てきた少女に気づき、リオレティウスは急いでその身体を抱き止めた。
彼女は必死に何かを訴えようと口を開くのだが、それは声にならなくて。
痛々しくも見えるその姿を前に、リオレティウスは思う。
頼むからそんな、悲痛に歪んだ表情をしないでくれ。望まぬ結婚だったはずだろう。
――言えなかった。故郷を忘れ、残りの人生はウレノスの王子妃として生きろなどとは、とても。
戦乱の世になれば、何の配慮もなく元ガイレアの姫を人前に出すというのは憚られる。彼女はまた、日陰でひっそりと生きてゆかねばならない。
それがいつまで続くかわからない。もしかすると、この先一生涯。
ずっと側についていられるならまだしも、自分は戦場に出るのだ。それも彼女の祖国を相手として。
この身がどうなるかもわからない。生きて還れぬ可能性だってある。
そんな状況で、隣にいてほしいなどとはとても――。
そうするうち、ついに彼女の叫びは声の形をとって現れはじめた。
「……嫌、嫌です。私は……っ」
――言うな。俺だって、本当は手離したくなんかない。言わないでくれ。
「私は、リオ様とずっと一緒に――」
――続く言葉ごと、口が塞がれた。
不意に遮られた視界に、シェリエンは何が起きたのか直ぐには理解ができず。
離れてからやっと気がつく。初めて知る熱と、唇に落ちた柔らかな感触に。
「……わかってくれ」
切に請うような響きが、彼の口から漏れる。
目を見張り、瞬間動きを止めた少女を、リオレティウスはひょいと抱き上げた。
躊躇いなしに彼女を馬車へと戻し入れ、手際よく扉を閉める。それから御者席に向かって、短く命じた。
「――出せ」
ハッと我に返り、今にも扉を開けて飛び出さんとするシェリエンを、ティモンと女性騎士が慌てて抑える。
シェリエンは彼ら二人に支えられながら、どうにか窓を開け、その身を乗り出す。
彼は真っ直ぐこちらを見ている。そして、言った。
「元気で」
馬車は遠慮がちに、ゆっくりと動き始めた。
「いや……」
絞り出した声は無情にも、開いた窓から風にさらわれる。
彼は微笑んでいた。いつもと変わらぬ温かな眼差しで。
――どうして。
馬車は少しずつ速度を増して、彼の姿は段々と、確実に小さくなってゆく。
そして遂には見えなくなって。
それでもなお、シェリエンは一心に窓の外を見つめていた。
何もない景色の中、ただ空の青だけが、その瞳に映る。
碧落。
冬を間近に控えた空は高く、どこまでも果てなく広く、遠い。
――いつも隣にあった青が、今はこんなに遠いのに。
涙の膜で覆われた視界には、一面、清々しいほど透き通った青色が滲む。
なのに、どうして――。




