決断 -2
馬車とそれに続く二頭の馬は、裏門を出て、王宮から離れてゆく。
車内はしんとしている。シェリエンの隣に座るリオレティウスも、向かいのティモンも、先ほどから一言も口をきいていない。
しばらくの間、着々と進みゆく馬車の振動に身を任せていたが――シェリエンは思い切って隣へ顔を向けると、夫の服の袖をちょんと引いた。
「あの、どこへ行くんですか」
彼は僅かな動作で振り向いて、静かに答えた。
「すまないが、今は話せない」
「…………」
為す術なしに、シェリエンは口をつぐんだ。
本音を言えば、不安でたまらない。でも問いただすことができないのは、迷惑をかけたくないから。
それ以上何か言葉を発する代わり、彼の袖をつまんだ手にきゅっと力がこもる。
これに気がついたリオレティウスは、掴まれた袖とは反対の手を伸ばすと、少女の手の上にそっと重ねた。
向かい側に座るティモンは、黙ってこの光景を見ていた。
結局行き先を告げられぬまま、旅の行程は数日に亘った。
出発の晩だけ、馬車は夜通し走った。その後は馬の補給や休憩を挟みつつ、夜は道中にある宿に滞在する。
馬に乗って伴走する家臣のうち一人は若い女性騎士で、護衛を兼ねてシェリエンの入浴に付き添ったり、衣類の洗濯に手を貸してくれたりした。
眠る際は、王宮にいるときと同様、リオレティウスと二人で同じ部屋を使った。
立ち寄る宿はどこも簡素で、うち一晩は、中でも一際小じんまりした宿に泊まることになった。
「……さすがに、狭いか」
眠りにつこうと並んでベッドに入ってみたところで、リオレティウスが困ったようにこぼした。
ベッドの大きさは、王宮のものとは比べるまでもなく、これまでの宿と比較すれば少々小さめ。二人でちょうどぴったりという感じだ。
余裕があるわけではないが、シェリエンからすれば狭いというほどではない。
「いえ……母とは、もっと狭いところで一緒に寝ていました」
母親が存命だった頃、住んでいた家には一応ベッドが二つあった。だが大抵いつも、彼女は母の寝床に潜り込んでいた。
その時のベッドはこれよりもさらに小さい、おそらく一人寝用のもの。
今思い返してみれば、絶対に窮屈だったはずなのに。母は毎晩笑って迎え入れてくれた。
脳裏に浮かんだ懐かしい笑顔に、シェリエンの顔は自然と綻んだ。
――この表情を、久しく見ていなかったな……。
人知れず野に咲く花のような、ささやかな笑み。
それを眺むうち、リオレティウスはつられて目を細めていた。
ややあって、彼が言った。
「聞かせてくれないか、母親の話を」
「……え?」
「いや、気が進まなければいいんだが……あまり聞いたことがなかったから。お前の母親のことも、故郷の暮らしについても」
彼は柔らかに微笑んでいた。
この唐突な旅が始まってから、一度も見ることのなかった彼の笑顔。
決して怒ったり機嫌が悪かったりというのではなく、普段どおりに接してくれるのだが。いつもと同じはずのそれはどこか淡々として、表情が緩むことはなかった。
やっと、心に幾らかの安らかさが戻ったような感じを覚えて。
シェリエンはぽつぽつと話し始めた。
母は綺麗な人で、とても優しかったこと。村では近隣の人たちと協力して、男性陣が外で働く間、洗濯や繕い物、幼い子の世話などをしたこと。夜は、燃料の節約のために明かりを落とした部屋の中、母と一緒に星を見るのが好きだったこと。
やはり喋るのは得意でないので、辿々しい説明となったのは間違いないが、彼は瞳を細めたままじっと聴いてくれた。
いつしか、ゆるやかな眠気がやってきて。シェリエンは彼に促されるまま、瞼を閉じる。
彼女が眠りに落ちるまでの様子を、リオレティウスは静かに見つめていた。
やがて、安らかな寝息が聞こえてくる。
これまで積極的に彼女から故郷の話を聞いてこなかったのは、もう戻れない場所について想起させることや、母親の死に配慮してだ。
だが、昔の思い出に自ずと顔を綻ばせる姿を見て、ふと聞いてみたいと思った。
確か彼女が母を亡くしてから、少なくとも五年は経っていたはず。きっと、哀しみよりも懐かしさが先に来るような時間の経ち方をしたのだろう。
それに、これで心置きなく――。彼女にとって故郷の記憶が好ましいものだと確信できた今、この選択は間違っていない。
外に吹く風を受けて、部屋の窓がかたっと音を立てた。
きちんと閉められているものの、王宮に比べれば粗末な作りの宿だ。すきま風か、冷気が伝ってくる。
季節は秋と冬の間。夜になれば外気の温度はかなり低くなる。
彼女はすっかり寝入っていたが、顎先までかぶった布団の端をぎゅっと握っている。――寒いのか。
リオレティウスは少し躊躇ってから、その華奢な身体を布団ごと抱き寄せた。
再び風が吹き付けて、窓をかたかたと揺らす。
先ほどより強い冷気に顔を顰めるようにしながら、けれど――今だけは、この風が止まなくていい。そんなふうにも彼は思った。




