日常の揺らぎ -2
それからしばらくの間、リオレティウスが寝室に戻るのは夜中過ぎといった日々が続いた。
一見変わらぬ日常が、微かに冷たく張り詰めたような空気を帯びている――そんな感覚に気がつきながらも、シェリエンは、何が起きたのかと問うことはできなかった。彼はあくまで普段と同様に振る舞っていたから。
先般ウレノスの王子たちが父王の部屋に呼び出されてから、半月ほどが経った頃。
彼らは再び王の部屋に集っていた。隣国より、正式な報せが届いたのだ。
相変わらず、王は表情ひとつ動かすことなく言った。
「ガイレアの新たな王は、前王の息子ではなく、レムス・シデリスという人物だそうだ」
隣国の使者から届いたところによれば、かねてより病の兆候があった前王は病没。国の理念に照らし新王として立ったのが、レムス・シデリスなる人物だ。
なお、このシデリス卿の即位は、本来後を継ぐと思われていた前王の息子も納得のうえ、だという。
脈々と血を継いできたウレノスとは異なり、ガイレアにおける王の絶対条件は“強きもの”であること。
はるか昔、ガイレアという国はいくつもの部族の連なりだった。これらを武力によってまとめあげた者が王となり、その後も一番強い者が王として立つようになった。
彼らは先代から強さを認められた者であったり、謀反により時の王を廃して次の座につく者もあった。つまり、血筋は関係ない。
ただ、近代的な国家の様相をなしてきた近年においては、子や親類が次王の座を継ぐことが多くなっていた。
ウレノス側の手の者による調べでは、シデリス卿は若い頃優れた武人であった。前王であるシェリエンの祖父と、双璧と評されていたらしい。
“強きもの”という点では、理に適っているのだろうが。年齢的には隠居の時期、わざわざ前王の息子を押し退けて、というのは些か不自然ではある。
ウレノス王も、その点への違和感は抱いている。
淡々と事実のみを述べているようで含みを持った王の言葉は、暗黙でありながら集められた王子たちにも伝わった。
――部屋に、静かな緊張が走る。
「それから、和平条約についてだが」
王はきわめて事務的に続けた。
「前王が勝手に結んだこと。ガイレアの政権がまったくの別物となった今、無効だとあちらは主張している」
「…………は?」
堪えきれず、声を上げたのはリオレティウスだ。
「それこそ勝手な……、では、和平の証として嫁いできたシェリエンの存在はどうなるのですか」
なんら態度を変えずに、王は返答する。
「あちらの言葉をそのまま伝えるなら、“そんな娘は知らない”、と」
ふと、刹那あたりが凍りついたかのような――尋常ではない気配を察した第一王子エドゥアルスは、隣をちらと窺った。
そして、思わずぎょっとする。
そこには見たことのない弟がいた。
一触即発、とでもいうものだろうか。
ぎり、と音が聞こえそうなほどに奥歯を噛み締めて。澄み渡っているはずの青の瞳は殺気に満ち、触れれば途端に誰彼構わず斬り捨てそうなほど。
その姿に少なからず動揺した兄王子とは違い、父王はあくまで冷静に告げた。
「安心しろ。あの娘を安易に殺したりはしない」
「当たり前だ……っ」
赤よりも高く燃える青の炎が、その瞳に宿ったかに見えた。相手が国王だろうが父親だろうが今にも飛びかかっていきそうな弟を、エドゥアルスは咄嗟にたしなめる。
「リオ、落ち着け、王の御前だ。……陛下、これでは話し合いは無理です。第二王子は一旦頭を冷やしたほうがよいかと」
王が頷いたのを認めると、エドゥアルスは未だ殺気立つ弟を促し、共に部屋を後にした。
その後、リオレティウスは自身の執務室に戻ったが、彼の怒りは収まらなかった。
書類の広がった机の上で、ひとり拳を握りしめる。
――ふざけるな。故郷で静かに暮らしていたものを身勝手に取り立て、姫に仕立て上げた挙句、知らないだと? あれの努力はどうなる。全て、無駄だったというのか――。
ガイレアの新政権が、先代が結んだ和平条約を無効としたいならば、シェリエンの身の上は都合が良い。
先代王の孫にあたりながら、庶子であった娘。従者や侍女を伴うことなく、単身で送られた姫。
本当に王の血を引くのかといった難癖ばかりか、そもそもそんな娘はいなかった、姫を送った事実はない、などと言い張ることすらできる。
実際、そう言ってきているのだ。
ウレノス王は冷静だ。先の言葉どおり、簡単に彼女を手にかけることはないだろう。そんなことをしてしまえばガイレア側は手のひらを返し、送った姫に危害を加えるとは何事だと訴えてくるはず。
とはいえ、この先彼女が心を痛めるのは目に見えている。
ガイレアが「条約は無効」と敢えて明言してきたということは、あちらはむしろ敵対を望んでいるとの意思表示。遅かれ早かれ、また戦が起こる。
嫁ぎ先の生活にやっと慣れたところで、婚家であるこの国は彼女の故郷と戦うことになるのだ。
それも、和平のため文字どおり身を捧げた彼女について、祖国には“知らない”と一蹴されたうえで。
暫し無言で自らの握り拳を見つめたあと、彼はその日の執務に戻った。
けれどもその瞳に宿った怒り、そして、やるせなさが消えることはなかった。




