日常の揺らぎ -1
少し外す、そう言ったけれど、彼はなかなか戻らなかった。
しばらく経って、ティモンが再び部屋にやってきて告げた。王子には急遽対処すべき件ができたため、妃教育の話は一旦保留になると。
結局その日彼が戻ったのは、シェリエンがベッドに入ったあとだった。
二人の間の決め事として、時間になっても彼が寝室に来ないときは先に寝ているよう言われている。
軍の訓練に政務にと、彼が多忙なのはいつものこと。就寝時刻に戻らない夜も時々ある。だから、取り立てて気にする必要はない――そうやって、自らに言い聞かせようとしていることに、シェリエンは気がつく。
小さいけれど、無視して眠りにつけないほどには聞こえてしまう胸のざわめき。
それでもいくらか時間をかけて、うつらうつらし始めた頃。寝室の扉がそうっと開けられたのを感じ、シェリエンは反射的に身を起こした。
――昼間のウレノス王の話は、隣国ガイレアの情勢についてだった。どうやらあちらの政権が代わったらしい、と。
「正統な交代ということですか?」
同じく父王の部屋に呼ばれていた第一王子、エドゥアルスが訊ねた。
早くに王位を次の代へ継ぐ慣習があるウレノスとは異なり、ガイレアでは原則王が崩御してはじめて次の王が立つ。
これまでその座にあったのは、シェリエンの祖父にあたる人物だ。年齢を考慮すれば、病気や衰えにより急逝したとしても不思議ではない。
順当にいけば、息子である第一王子が後を継ぐと思われる。武人としても名高い人物で、“強きものを王に”といった、ガイレアの伝統的な考え方にも適うだろう。
エドゥアルスからの問いに対して、王は淡々と、常と変わらぬ調子で答えた。
「仔細は未だ不明だ。状況に応じた備えはしておくように」
――つまり。
正統な交代ではない可能性があるということ。
話はそれだけだった。ウレノス王の言葉は常に簡潔だ。
ただ、前触れなしに急ぎ王子たちを部屋に呼びつけるなどということは滅多になく。その事実が、常態ではない何かを物語っている。
父王の部屋を出たリオレティウスは、ティモンに指示を出した。急務のため、妃教育の話は一旦保留だと。
彼はシェリエンの元に戻ることはせず、執務室へと向かった。
“状況に応じた備えを”と、王は言った。何があっても直ちに動けるよう、最悪を想定しろということだ。
仔細不明ということについては、単純に、情報が届いていないだけということもある。
正しき政権交代であっても、前王崩御となれば多少のごたつきはあるだろう。和平が成ったとはいえ、厚い交流があるわけでもない隣国への報せが後回しになるのは有り得ること。
だが――最悪とは例えば、反乱等による政変。
両国の和平を結んだのは、他でもないシェリエンの祖父だ。其の人が意図的に廃されたとなればそれは即ち、低くない確率にて再びの戦乱を意味する。
とすればいつでも出陣できるよう、軍の機能や想定される事態を改めて確認し、心構えをしておかねばならない。もっとも若い彼に全権はなく追って軍幹部と擦り合わせることになるが、まずは王子であり軍部の要を担う者として、状況の整理が目下の務めとなる。
こうした、自らの立場においては当然の思考の下に、リオレティウスは執務室へと向かったのだが。自然と心を占めてしまうのは彼女のこと。
――もし戦になったら、シェリエンはどうなる?
大々的な式典等を行うことなく、ただ一人の姫を受け渡すことによって成立した和平。
その前後において、軍に携わる者としての彼の生活が変わることはなかった。一時的な休戦だろうが、一応は恒久的な平和を目指す終戦だろうが、有事に備える訓練は同じだ。
異国の姫との生活を受け容れながらも、彼にとってその二つ――軍事に生きることと、彼女の隣にいること――はどこか別の動線だった。
形だけの結婚だと言いつつ、震える少女を気遣ううち、いつしか隣にある温もりが大切な存在となった今も。
彼も、頭ではわかっているつもりでいたのだ。
しかし、続く平穏を願う間に、無自覚に目をそらしていたものかもしれない。いつかは直面し得る問題であるにもかかわらず。
仄暗い靄のような、不確かな何かが彼の首筋を這う。
――いや、まだ決まったわけではない。最悪への備えは必要だが、そこに感情を引っ張られるのは悪手に過ぎない。
まるで己を諭すようにしながら。
リオレティウスは現状整理とその日の通常業務をこなして、諸々を終えた頃には普段の就寝時刻をとうに回っていた。
「……何か、あったのですか」
少し外すと言って出たきり戻る気配がなく、夜半を過ぎた今、ようやく顔を合わせた夫。
ベッドまで歩んできた彼に、シェリエンは訊ねた。
彼は、いつもと変わらぬ穏やかな微笑を浮かべる。
「お前は、何も心配しなくていい」
あたかもなんでもないのだと言うように、彼は答えたけれど。
シェリエンは感じ取ってしまった。
先ほど彼女自身が心の中でそうしたのと同じく、その言葉にはどこか、言い聞かせるような色が滲んでいることを。




