繋いだ手 -3
シェリエンは、彼の瞳がゆっくり大きくなるのを見ていた。そこには、自分の姿が映っていた。
――逢えてよかった。
はっきり口にしたことで、シェリエン自身の胸にも、想いが確かな重みを持って形を成してゆく。
なぜ、と、如何様に問われようと。彼の隣にいたい、ただ単純にそれだけのこと。
彼はこちらを見ているようで、けれど思考はどこかを彷徨うように、しばらく動きを止めていた。
普段はゆるぎなく輝く青空に似た瞳が、今は風を受ける灯火のごとくゆらゆらしている。
その様子を見つめながら、シェリエンはふと、こんなことを思った。
――私のことをうさぎと言うなら、この人は何か大きな獣だろうか。強くて、勇敢で、それでいて私のようなちっぽけなものにも優しくて、高潔な。
その一方で、大きくて頼れるはずの彼が、なぜだか今日は哀しさを纏っているようにも見えた。
喩えるなら、傷を必死で隠そうとする手負いの獣みたいに。
――もし、私がもっと大きなものだったら。彼を支えることができるのだろうか。
私が何かに怯えたときにはいつもそうしてくれるみたいに、抱きしめて、包み込んであげられるのだろうか――。
思うけれども、シェリエンにはどうしたらいいのかわからなかった。というより、自分にはそんな大きな力はないように思えて。
内に湧く歯痒さを認めつつ、彼をじっと見上げることしかできなかった。
そうしているうち、不意に、左手にふわりとした感触を覚えた。
見れば、隣に座る彼の右手がそっと伸ばされ、自身の手に重なっている。
すぐには気づかないほど、静かな動作だった。もしもそのまま気づかずにいたら、密かに引っ込められてしまいそうな。
けれどもシェリエンは、迷わずその手を握った。
先ほど彼に感じた哀しさが、気のせいではないなら。全てを包み込むことはできなくとも、せめてほんの僅かでも力になれば。
そんな想いが届くようにと、強く。
彼の瞳はまだゆらゆらと、一瞬戸惑うように大きく揺れてから、時間をかけて凪いでいった。
そのあとでやっと、彼はシェリエンの手を握り返した。
目と目が合う。
彼の表情は、少しだけ泣きそうにも見えた。そして静かに微笑んでいた。
繋いだ手から、互いの熱が伝わりあって、いつしかどちらの体温なのか区別がつかなくなる。
言葉はいらなかった。
ただ穏やかに微笑んで、見つめあって、相手の瞳に映る自身の姿と向き合って。
今だけは、何もない。天も地も、この世の法則も、時間も、何もかも。
互いの存在のみがある。この瞬間、出逢うためだけに生まれてきたと。
永遠にも思える静寂。
それは、柔らかで、温かい。どこまでも続く、果てのない青空のような色をしている。
そうして一人の少女と一人の青年は、何物にも侵されない静けさの中、ただ手を取り合って佇んでいた。
――しかし、俄にこの静寂を切り裂いたのは、性急な、部屋の扉を叩く音だった。
「……入っていい」
王子からの入室許可を受け、扉が開かれる。そこにはティモンが立っていた。
日常の光景にもかかわらず、シェリエンは微かな違和感に気づく。いつもこの世話役が引き連れている物柔らかな雰囲気が、今は見えないのだ。
「何事だ?」
不審の念を覚えたのはシェリエンだけではなかった。彼女の隣で低く、急き立てる声が響く。
この催促に対し、ティモンはいつになく改まった口調で告げた。
「第二王子殿下、陛下が急ぎお呼びです」
扉が開いてからも、リオレティウスは構わず妻の手を握り続けていた。
その夫の指がぴくっと、シェリエンの手の上で僅かに震える。
「……わかった」
短い返事で応じて、彼は隣を振り返る。
「すまない、少し外す」
少女は頷いて、扉の向こうに消える背を、何も言わずに見送る。
――繋いでいた手が、離れた。




