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[完結]銀色の兎姫 ――母を亡くした一人ぽっちの少女と、母の顔を知らぬ軍人王子との、愛を知るまでの物語。  作者: momo_Ö
第二章『天地別るる瀬にありて』

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繋いだ手 -1


「――シデリス卿、いかがです? 玉座のお味は」

「ふん、なかなか悪くないな。老いぼれが、あっさり逝ってくれた」


 薄暗い室内、二つの影。

 豪奢な椅子に深く座す者、その傍らに立つ者。


 燭台の灯りが、座っている男の半顔を濁った(だいだい)色に浮かび上がらせる。

 満足気に、細かな(しわ)が散った目元をきわめて細くして。シデリス卿と呼ばれた老年の男は、たっぷりと時間をかけて隣に目をやった。


「……どうだ? 実の父を手にかけた気分は」


 向けられた視線の先には、同じく薄ぼんやりと映ずる男性の立ち姿。

 椅子に座る男よりは若く、(よわい)四十前後か。身体の一部かのように馴染んだ片眼鏡の上で、燭台の炎が冷たく光る。


 シデリス卿の(えつ)に入った薄笑いとは対照的に、佇む彼は、寸分も変わらぬ無表情で言い捨てた。


「私には、父も母もおりませんよ」




 ◇




「妃教育を追加するだと?」


 ある日の午後。


 軍の訓練を終えて執務にやってきたリオレティウスに、ティモンから上げられた報告はこうだ。

 シェリエンが、妃教育の追加を願い出ている。より本格的な語学に歴史や文学、音楽や乗馬等々――即ち現状では実質免除となっている、妃であれば通常受けているはずの教育を受けたいと。


 一旦は大人しく報告を聞いてから、リオレティウスは微かに眉を寄せた。


「苦労を増やしてまで、学ばせることか?」


 ティモンは動じることなく、王子の反応は概ね想定どおりだとでも言うように、冷静な調子で返答する。


「私個人の見解を述べさせていただくとすれば。必須とは思いませんが、シェリエン様ご自身が望まれる以上、お止めする理由が特別にあるものでもないかと」

「…………」


 王子は視線をふい、と斜めに落とした。そうして少し考えるような素振りをしたあと、掛けていた椅子からさっと立ち上がる。


「直接話す」


 身を翻してつかつかと扉に歩み寄ったリオレティウスは、次の瞬間にはもう部屋を後にしていた。



 ティモンは軽く頭を下げ、王子の背を見送る。


 それから「今だけは」と、誰にともなく心の中で前置きしてから。

 家臣の立場で主人である王子に対してではなく、幼き頃より知る一人の青年として、彼を思う。


 ――きっと、慣れていないのだ。何かを、大切にすることに。

 そしてまた、彼が、彼自身を大切にすることにも――。




 リオレティウスが部屋の扉を開けると、シェリエンは本を片手に、ソファーの端に腰掛けていた。テーブルの上では淹れたての紅茶が湯気を立てている。


 侍女がもう一杯紅茶を用意しようとするのを制して、彼はシェリエンの隣に座った。


「教育を受けたいのだと聞いたが……」


 シェリエンがティモンとその話をしたのは今日の午前中だ。聞いて即座にここへ来たのであろう夫に少々驚きつつ、彼女は頷いた。


「文章もだいぶ読めるようになってきたので、ほかに何かできないかと」

「……そうか」


 シェリエンが手にしていた本は、閉じてテーブルの隅に置かれている。

 児童書の範囲ではあるが、彼女が初めの頃に読んでいた絵本とは違い、時々しか挿絵がない文字の多いもの。読書に関する進歩は一目瞭然だ。


 先日の夜会での振る舞いを見ても、彼女は王子妃として着々と成長を重ねている。

 他方でそれは、私室に戻れば張り詰めた気が抜けて立てないほどの、緊張と労力の上に成り立っていることでもある。もし故郷での暮らしが続いていたなら、想像することさえなかった重圧だろう。



 リオレティウスは怪訝そうな面持ちで、それきり押し黙ってしまった。

 この様子をシェリエンは不安気に見つめて、それからおずおずと口を開く。


「あの、ご迷惑ですか。私が……お妃さまを、しようとするのは」


 そもそも彼は、妻を持つ気がなかったのだと話していた。国同士の話に有用なら、と受けただけで。

 自分が妃として出しゃばるのは、彼の役に立つというよりむしろ迷惑なのでは――思い至ればみるみるうちに、シェリエンの胸には不安が湧き上がる。


 だがこれを、リオレティウスはすぐさま否定した。


「迷惑などと……そんなわけ、ないだろう」



 そう力強く断言したわりに――しかし彼は再び口を(つぐ)んだ。

 ソファーの背もたれに寄りかかり、片手で頭を抱えるようにし、短い溜め息を一つ吐いて。


 そのまましばらくの沈黙を見送ったのち。ようやく彼は、ぽつりとこぼした。


「……申し訳ないと思っている」

「……え?」

「何事もなければ、お前はここに来なかったはずだ。無用な苦労を強いることもなかった。なぜ――」


 彼はソファーにもたれかかっていた上体を起こすと、座り姿勢を正してシェリエンのほうを向いた。


「なぜ、そんなに頑張る? 血筋という理由だけで、ほとんど連れ去られるようにして送られた場所で。そんな義理はないだろう」



 普段は気取らない微笑がのっている、その顔は。眉根が寄り、青い瞳が揺らめいている。心苦しいような、そんな表情。


 あまり目にしない、というより初めての光景に、シェリエンは驚いた。そして彼の言葉を反芻する。――なぜ? 



 けれども同時に思う。それを言うなら彼だって。


 なぜ、優しくしてくれる? 見返りもなく、こんなちっぽけで取るに足らない娘に。

 国のためだからと、形だけの婚姻を二つ返事で受けて。

 何の文句も言わず、その身を賭して武に励んで、日々膨大な政務をこなして。自らの特殊な生い立ちですら、(うれ)いはないと一笑に付する。


 そんな彼の隣に在りて、少しでも尽力したいと足掻くのは、それほどまでにおかしなことなのだろうか。


 本来ならば来るはずのなかった場所。確かにそうだ。

 感情が追いつかないままに花嫁修行をし、嫁いで数日してやっと、置かれた状況を把握できたとき。シェリエンは涙した。元の暮らしは二度と戻るものではないのだと。

 王宮の生活に慣れた今でも時々ふっと、風のそよぎのような寂しさがよみがえる瞬間がある。


 だけど、それでも――。



「私は」


 はっきりとした意思を持って、シェリエンは顔を上げた。

 ぴくり、と彼の目元が僅かに動き、青が揺れる。


「私は、リオ様にあえてよかったです」



 なぜ頑張るのか。この問いに対し、厳密に言えばきちんとした回答にはなっていない。

 しかし、彼女は言い切った。これ以上、答えとして返せるものはない。


 生まれ育った故郷を忘れたわけではない。けれど、彼を知らなかった頃にはもう戻れない。


 抗う気力も起きないほどの大流に押し流され、流れ着いた先でゆらゆらと揺蕩(たゆた)い、何もかも失った大地の上に。光を差しかけたのは彼なのだから。



 少女の発した言葉が到達するまで時間を要したかのように、ゆっくりと。リオレティウスは大きく目を見開いた。



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