夜会 -2
今回の夜会は、立食の形式をとった晩餐会。けれども人々の興味対象は、食事というより他の参加者との交流、とりわけ王族への挨拶は必須だ。
会場前方の中央には国王夫妻の席が設けられ、両隣に王子二人及び妃の席が並ぶ。そこに参加者たちが入れ替わり立ち替わり訪れる。
そうして順々に来る彼らの相手をするのが王子妃の務めだが――『適当に会釈しておけば問題ない』と、夫からはなんとも適当な指示を受けたシェリエン。
とはいえ、それ以上に何かできることがあるはずもなく。彼が参加者たちと言葉を交わすのを横目に、王子妃という立場において会釈に相当するのは微笑みであるが、ただこれを必死に遂げようとした。
傍から見て、彼女は妃として申し分なかった。夫である王子にぴたりと寄り添い、静かに落ち着いた微笑を携えて。
元より、ウレノス王家が纏うのは厳粛な雰囲気だ。妃に求められるのは明朗快活さよりも、慎ましさ、謙虚さ。こうした点で、目立たず大人しく夫の影に徹する彼女は、王家の者としてまったく違和感がなかった。
斯くして、シェリエンの王子妃としての初舞台は上々といって差し支えなかった。
但し、彼女自身がそれを感じ取ることはなかった。真っ直ぐ前を向いて立っているのがやっとだったからだ。
見たこともないような広い会場、人々の群れは目が回るほどだったし、慣れない衣装は時間が経つにつれ重さを増していくようで。傍目にはうまくできていると思われた微笑も、本人からすれば最初に浮かべたそれが固まって貼り付いているだけだった。
それでも。
ほぼ意識などないままに、シェリエンは立ち続けた。「少しでも彼の役に立ちたい」、その一心で。
唯一の肉親である母を失い、故郷を離れ、文字どおり孤独でやってきた異国の地。ただ水流に揺蕩うがごとく、生きる意味を考えるということ、その概念すら湧かなかった日々。
そんな状況に置かれた少女にとって、リオレティウスの存在はいつしか光になっていた。
彼は幼い妻に何を求めるでもなく、いつでもそっと気遣ってくれる。
価値のないちっぽけな村娘に、どうしてここまでよくしてくれるのか――わからないながらも、シェリエンは彼に貰ったものを少しでも返したいと思った。
また、夜会に際する彼からのもう一つの指示、『俺のそばにいればいい』。この言葉もまた、無意識のうちに少女の心の支えとなっていた。
――無事に夜会を終えたあと。
リオレティウスは、シェリエンを部屋まで送っていた。
会の間、彼女は終始落ち着いた態度を見せていた。出席予定を告げたときには顔をこわばらせ、恐怖ともとれる表情を浮かべたというのに。
ゆえにリオレティウスとしては多少の心配があったのだが、無用だったなと振り返る。
けれども部屋に到着し、扉を開けた矢先。
シェリエンはへなへなと、その場にくずおれそうになった。
「おっと……、大丈夫か?」
慌てて伸ばされた夫の腕に抱きとめられ、その身体が地面まで滑り落ちることはなかったが。彼女はもはや自分の足だけで立つことはかなわず、差し出された腕に縋ってなんとか耐えている。
「申し訳ありません……。力が、抜けてしまって」
リオレティウスは妻の身を支えるようにして、そのまま室内へと歩みを進めた。
ソファーに彼女を座らせながら、ふとこぼす。
「会場では随分落ち着いていると思ったが、緊張していただけか」
と、何の気なしに口をついた言葉だったが。
これを聞いた途端、シェリエンはしおしお俯いた。
「すみません……」
「いや、違う。軽んじるつもりで言ったんじゃなく……」
おろおろと狼狽えながら、リオレティウスは急いで弁解に回る。
無論、彼女の必死の頑張りを嗤う気は毛頭ない。どちらかといえば微笑ましさに近いというか、むしろ――
「うまく、やれていた。その、妃として」
「……私、ちゃんとできていましたか? お妃さまを」
「ああ、十分だ」
誤解を生んではいけないと、力を込めて大きく頷いてみせる。事実、彼女の夜会での振る舞いには非の打ち所がなかったのだから。
この全力の頷きが伝わったのか、少女の顔にはゆっくり血の気が戻った。ホッとしたように表情が綻んで、頬と唇は薄紅に色づく。
――こうした、いじらしいまでもの健気さが。
愛おしくて仕方ないのだということは、まだ、言えない。
その後リオレティウスは一度自室に戻り、寝支度を済ませてから夫婦の寝室へと向かった。
そうっと扉を開けると、シェリエンは既にベッドで安らかな寝息を立てていた。
よほど疲れたのだろう。化粧を落としたあどけない寝顔に、リオレティウスはどこか安堵に似た思いを覚えつつ――ベッドの空いている半分に潜り込んだ、その瞬間。
ぱちりと少女の目が開いた。
「悪い、起こしたか?」
この問いかけに、返事はなく。
彼女はゆるゆると何度か瞬きをしたのち、ぼんやりした視線を返してきた。
「……リオ、様……?」
――寝ぼけているのか。そう気づいたリオレティウスの顔には、自然と笑みが浮かぶ。
彼は少女の目を覚まさないよう、なるべく静かに布団を整えにかかった。
と、そこへ。
寝ぼけ眼の少女は寝転がった体勢のまま、すすすと近寄ってきて。
不意打ちともいえる間、相手に考える暇など与えないままに、ぽすっと彼の胸の中に飛び込んだ。
思わぬ状況を前に、リオレティウスは固まらざるを得ない。
自身の胸元へと視線を落としてみれば、少女はすやすやと穏やかに寝入っている。
身動きできずに、しばし茫然としたあと――。
彼は片眉を八の字に顰め、苦笑した。
「まったく……、信用されたものだな」
少女の立てる規則正しい寝息が、その華奢な背や肩をゆるやかに上下させる。
このとき、彼女の耳元にかかっていた幾らかの毛束がはらりと落ち、白い首筋があらわになった。僅かでも触れてみればすぐさま傷をつけてしまいそうな、透明な白。
思いがけずこれを目にしてしまったリオレティウスは、咄嗟に顔を背けた。
再び困ったように、苦笑いとも溜め息ともつかない声を小さく漏らして。
それから彼は丁寧に布団を整え、部屋の灯りを消した。そしてようやく眠りにつく。
腕の中に飛び入ってきた少女を、大事に抱え込むようにしながら。壊れ物を扱うように、そっと。




