天と地の狭間にて -3
「ん? なんか見つけたのか」
シェリエンが手にした絵本に描かれていたのは、一人の青年と一匹のうさぎ。
絵柄は少し異なるが、彼女がウレノスに来てから気に入って何度も読み返している本、『銀の兎』とよく似ている。
「気になるなら、買っていけばいい」
「でも……」
この国の言葉でないものを、求めてもよいのだろうか。そもそも読めもしないのに。
そう思って躊躇いに眉を顰めた彼女の手から、リオレティウスはひょいと本を拾い上げた。
「――旅人は見つけました。木の陰からそっとこちらを覗いている、小さな存在を」
「えっ?」
彼の口から流れ出たのは、シェリエンの母国語であるガイレアの言葉。おそらくその本に書かれた一節を、彼は流暢に読み上げてみせる。
久しぶりに耳にした故郷の言葉に、図らずもシェリエンの胸には懐かしさのようなものが湧いて。同時にそれがウレノス王子である彼の口から聞かれたことが、不思議な感覚でもあり。
目を見張り、ぱちぱちと瞬きを繰り返している彼女に気づくと、リオレティウスはおどけたように言った。
「これでも一応王子だからな。他国の言語は学んでいる」
――一応って……。シェリエンの瞳はもう一つ大きく瞬いた。
確かに、時折忘れてしまいそうになる。気取らず、あけすけな物言いをする彼と一緒にいると。
彼はこの国の王子で。自分は停戦条約の象徴として、形のみ嫁いできたのだということ。
見知らぬ場所での不安も、自身の立場が脆弱であることへの恐怖も、何もかもなかったことのように、そのあたたかな青空に吸い込まれて――。
「遠慮せず、買えばいい。お前にとって母国語だ。学んで損はないだろう」
すっかり冷たくなった夕方の風が、シェリエンの頬を掠めた。買い物を終えた二人は書店を後にし、街の大通りを歩いている。
「何かほかに見たいものがあれば」、そう言われてのことだったが、彼女が声を上げることはない。ただ黙々と歩を進めながら、表情はこわばってさえいる。
決してこの散策がつまらないわけではない、けれど。
服飾品に化粧品、お菓子や紅茶などの嗜好品、通りにはそういったもの、中でも上質なものを扱う店が立ち並んでいる。初めて目にする煌びやかな光景に、シェリエンは気後れするほかなかった。
それに、今日の外出の目的であった誕生日の贈り物は、既にたくさん買ってもらったのだ。はじめに手にした『銀の兎』の絵本だけでなく、ほかに何冊も。「ガイレア語を学ぶなら多いほうがいいだろう」と、彼はシェリエンの遠慮などお構いなしに、装丁の美しい絵本をいくつも買ってくれた。
「どこか入って見ていくか?」
気遣うように、かけられた声。
シェリエンはふるふると首を横に振って、隣を歩く夫を見上げる。
「疲れたなら馬車に戻るか」
「いえ」
咄嗟に、自分で思う以上に力のこもった声が出たことに、シェリエン自身驚きながら。
「……もう少し、歩きたいです」
小さく続きを付け足した。
彼はほんの僅か目を見開いて、それから短く、ん、とだけ答えて歩みを続けた。
何を見るでもなく、二人はゆっくりと通りを進んでいく。前後少し離れたところから、護衛の者がさりげなく付き従う。
すれ違う人が時折、ちらりと気がついたような視線を投げてくる。
二人は派手さを抑えた外出着の上に、旅人ふうのマントを重ね、フードを被っている。
だが、背が高く体格の良いリオレティウスは目立つ。フードからのぞく鼻筋はすっと通り、自然に分けられた漆黒の前髪は艶やかに風に揺れる。知る人には、彼がこの国の第二王子だとすぐにわかるだろう。
けれども立ち止まって声をかける者はない。出かける前のティモンの言葉によれば、「お忍びだとわかる見かけが重要」だそうだ。
橙に赤らんでいた夕空が、次第に色を変える。薄ら黒みを帯びた青紫が、ゆったり上から帳を下ろすように、色彩の階調を伴って。
呼応し、地面を這う影はじわりと濃さを深める。灰がかった微粒子が下から立ち上るかのごとく、風景にぼんやり雑像を覆い被せてゆく。
「誰そ彼時」とは言ったもの。世界にベールが掛けられたようなひと時にありて、そばにいる人が真にその人自身かどうか。
やわらかに繋ぐ温もりだけを頼りに。
天と地の狭間には、ただ、手を取り合って歩く二つの後ろ姿があった。
――第一章 天地引き合う機にて (了)




