隣に立つ者 -2
――この心根の優しい王子の言葉に、他意がないことはわかるけれども。
ティモンは一呼吸置いたのち、冷静な調子で述べ始めた。
「無礼を承知で申し上げます。ウレノス王家がシェリエン様を、王子妃として認めていないのは明らかです」
輿入れしてすぐの彼女に、上から遠回しに告げられた言葉は「何もしなくてよい」。
好きに生きていいなどと言い換えれば聞こえはいいが、その実飼い殺しともいえる。
形として王子妃という立場にありながら、彼女が表に出ることはない。関わりがあるのは一部の者だけ、限られた空間でのみの生活。
その暮らしを、彼女自身が気楽だと甘んじるうちはいい。
だが、疑問を持ち始めた彼女にそれを強い続けるのはあまりにも――。
『ティモンさんやみんなに、よくしてもらってばかりで……リオレティウス様にも』
勇気を振り絞って打ち明けたような少女の姿が、ティモンの脳裏に浮かぶ。
「王宮の奥で永遠に身を縮めていればよいと。殿下も同じお考えですか?」
「いや、そんなことは……」
予想だにしないティモンの食い下がりように、リオレティウスは少々の慌てを見せる。
いち家臣のティモンが、王子であるリオレティウスにここまで忌憚なく物を言えるのには、訳がある。
ティモンは元々ウレノスの先代国王、王子たちの祖父にあたる人物の側近だった。
彼は、先王が現王に譲位する際に、共に隠居するつもりでいた。年齢的には少し早かったが、職務の区切り的にちょうどよいと思ったのだ。
しかし隠退の準備を進める一方で、ふと彼の頭を掠めたのは幼い王子の姿。
王子二人はどちらも生まれながらに優れて聡明だったが――些か弁えすぎているようにも見えた。特に、自身が“生み出された”存在であることを知るはずの第二王子は。
側近として優秀であったティモンの申し入れは難なく聞かれ、彼は第二王子の世話役となった。
以来、業務内容の垣根はあまり関係なしに、一番近くでリオレティウスを支えている。
実母の顔も知らぬ王子をティモンは我が子のように――とまで言うのはおこがましいことと知りつつ――敬意と愛情をもって仕えてきた。
リオレティウスもそれを知り、彼に全幅の信頼を置いている。
「だが、わざわざ苦労させずともよいだろう。本来なら、故郷でのびのび暮らしていたものを」
静かながら圧さえ感じるティモンの言葉に押されるも、リオレティウスは弁明の意を述べた。
確かに、国王が異国の姫を表舞台に立たせたくない、というより気にも留めていないことは彼もわかっていた。
けれど彼女にとってもそのほうが穏やかに過ごせるのではと、先の回答は単に、彼なりにシェリエンを想ってのことだったのだが。
「ですが今、シェリエン様はこの国の王子妃であり、あなたの奥方です。隣に立ち、自分に何ができるかと思い巡らせた少女のお気持ちを、殿下はお考えになっていますか?」
「…………」
軽いノックに続いて扉が開く音がし、シェリエンは振り向いた。現れたのはリオレティウスだ。
彼はシェリエンの座る書物机のところまでやってくると、側にあった椅子を引き、隣に腰を下ろす。
暫しの沈黙を経て。彼は唐突に切り出した。
「……ティモンから聞いた。妃教育を受けたいと」
大賛成という雰囲気ではない、そうシェリエンは感じる。
彼は軽く目を伏していた。どこか気が進まないとも見えるその様子に、余計なことを言ったかと不安になる。しかし――。
「無理に、頑張る必要はない」
視線を上げた彼と目が合った瞬間、その瞳の青色に普段と変わらぬ温かさを認めて、気づく。おそらく気に食わないわけではないのだ。言うなれば、心配だろうか。
シェリエンは首を横に振ると、落ち着いて自分の思いを述べた。
「無理はしてません。みんなによくしてもらってばっかりで、何かできないかなって……、あと」
会ったばかりの頃は口をきくのも怖かった結婚相手が、今は優しい人だと知っている。
それから彼女は、この際だからと追加で疑問を声に出してみることにした。ずっと気になっていたこと。
「どうしてリオ様は、私にこんなに優しくしてくれるのですか」
彼は目を見張った。
「俺は、優しいか?」
目の前の少女が真っ直ぐに頷くのを見ながら。
少し、考えて。自身の中で未だ形をとっていなかった言葉を手繰り寄せるかのように、彼は答えた。
「偶然に迷い込んできたうさぎが、俺の手元にいるなら――泣くのを見るよりは、できれば笑っていてほしい。……それだけだ」
ぱちりと一つ、シェリエンは瞬きをする。
「妃教育の件は簡単なものからにしよう、各所と話しておく。でも無理はしなくていい。俺は、」
夏の初め頃、彼は視察のためしばらく王宮を空けた。それ自体はよくあることで、特別な思いも何もなかったが。
帰城時、出迎え列の最後方にちょこんと佇む彼女を見つけ、思いがけない安心の情が湧いたことを覚えている。
帰りを待つ者がいるというのは良いものだ、と。
「……お前がいるだけで、支えられている」
少女の顔にゆっくりと広がる微笑みを目にしながら、リオレティウスは思う。――やっと、時折笑うようになった。
満面の笑みとはいかないが、目元と口元が僅かに緩み、はにかむような。
彼は手を伸ばし、隣にある銀色の髪をそっと撫でた。そのまま手を滑らせて、背に流れている一筋を掬う。
彼女がここへ来たとき、髪の長さはやっと肩に届くほどだった。半年と少し経った今は胸元くらいまで伸びている。
それこそ小動物が恐怖や警戒心で毛を逆立てているような、全てに怯えた気配もなくなった。
彼女は丸い瞳でじっと、ただ無垢にこちらを見上げている。
――どうして、か。
いたずらに手の中の髪を梳きながら、彼は考えていた。
人生において、何かを持つことはないと思っていた。
これが意図的にもたらされた命だと知ってから。
妻も子も、王座も、必要以上の権力も。自分には不要で、望んでもいない。
最期までただ、自らに与えられた分の生を使い切るだけだと。
まさか、うさぎを拾うことになるとはな……。
彼は手にしていた一筋をその背に戻すと、再び少女の前髪あたりを撫でる。
まるで小さな動物がするみたいに。くすぐったそうな表情で、彼女は両眼を細くした。




