隣に立つ者 -1
「――まったく。地の竜が、聞いて呆れる」
窓辺に寄り、荒天の夜闇を見物するかのように見やる老年の男性。風雨は強く、窓ガラスには絶え間なく雨粒が打ちつけられている。
「和平だと? 老いぼれが、茶を濁しているだけではないか」
心底忌々しいといった口調で独りごち、男は外の嵐を見据える。
次の瞬間、闇を裂く稲妻が火花を散らし、遅れて鈍く重みのある音が鳴り響いた。遠くに、か細い煙のようなものが一筋見える。雷が落ちたのかもしれない。
降りしきる雨を物ともせず、大地よりじわじわと立ち上るその鈍色の筋を眺めながら。男はすっと目を細めた。
「上に立つ者に必要なのは、力だ」
竜神詣りから暫しの時が流れ、季節は秋になっていた。
高い空に浮かぶ細かな雲の群れを見つめて、シェリエンは考えていた。――わたしは、ずっとこのままでいいの?
先日、ウレノスの王宮では大規模な夜会が開かれた。毎年秋口に、王子二人の誕生日から見ておよそ中間にあたる日程で行われる。彼らの誕生及び成長を祝う恒例のものだ。
これまでの大小様々な公式行事と同じく、シェリエンがそれに出席することはなかった。彼女は変わらず、王宮の隅でひっそりと日々を過ごしていた。
もし彼女が夜会に姿を見せるとなれば、人々の好奇の目に晒されることだろう。隣国からやってきた姫は一体どんなものかと。
それに彼女は、王子妃として公の場に出るための作法や所作が十分身に付いているとはいえない。嫁ぐ前に花嫁修行をしたといっても、それは最低限だ。村娘が半年間で学べることはたかが知れている。
シェリエン自身もそれらを解っていて、自ら積極的に夜会に出たいとは思わない。免除されるのならむしろ好都合と、安堵を感じるほどだったが――。
このところ、胸の中に落ち着かない気持ちが芽生えていた。
おそらくそれは、彼女が朧げながらも未来を意識するようになったから。
竜神詣りの後の夜、彼女は「来年」という概念を知った。それ以来、微かながら何かを感じるようになったのだ。目立たず大人しくいることを最優先に、周りの――彼からの優しさを享受するだけの日々に。
何とはなしに、シェリエンは手元のティーカップを覗き込んだ。朝食後に侍女が淹れてくれたハーブティー。自身の顔が映る水面は、透明な黄金色に煌めいている。
傍らにはティモンが控えていた。彼は毎日シェリエンを訪れ、体調や生活に不便がないかなど気遣ってくれる。その対応は過不足なく、決して押し付けがましくもない。
シェリエンが母を亡くした後に、村で面倒を見てくれた養父に似た温かさ。それは彼女がここ異国の地で心穏やかに過ごせている理由の一つでもあった。
少しの勇気を奮って、シェリエンは顔を上げた。
その何か言わんとする様子を察したティモンは、改めて傾聴の姿勢をとり、彼女の言葉を待つ。
「あの……」
言いかけて、一度は手元に目を落として。
けれども再び視線を上げると、彼女は言った。
「私に、できることはありますか」
「――あれに、妃教育を?」
執務中のリオレティウスが小休憩する間を見計らって、ティモンは話を持ちかけた。
「といっても礼儀作法の見直しなど、簡単なことを。何かできることはないかと仰っておいででしたので」
ティモンは先ほどシェリエンと交わした会話の概要を述べる。
“ここへ来て以降、好きに過ごしていいと言われそのとおりにしているが、自分は何もできていないことが心苦しい。周りによくしてもらうばかりで、返せていない。できることがあれば教えてほしい”、と。
遠慮がちに、どう伝えればよいか整理がついていないような辿々しさで。それでも意を決して口にしたであろう少女の想いを、ティモンは丁寧に汲もうとした。
そこで、彼が小さな王子妃に提案したのは“妃教育”。
とはいえ本格的なものではない。まずは簡単に、立ち居振る舞いや礼儀作法を見直すことから。この先王宮で暮らすなら身に付けておいて損はない。
また、何かをしているという実感は、彼女の心の安寧にも繋がるのではと考えたからだ。
が、しかし。その夫である王子の返答はあっさりしたものだった。
「必要ないだろう」
「…………」




