商人の人生 砂漠を旅した夜のお話
本編とは少し別の閑話、商人だった人生のときの短編です。
その日のこと。
アリア商会の一行が野営地に選んだのは、ハリル砂漠にあるオアシスの傍らだった。
一行の生業は行商であるから、野宿の準備は手慣れたものだ。
荷を下ろし、砂漠の民に借り受けたラクダを休ませ、自分たちの寝床を準備する。
各々が言われずとも仕事をし、的確に分担を行いながら、あっという間に支度は終わった。
そうして太陽が沈むころ。
獣除けの焚火を囲みながら、一行は盛大な酒宴を始める。今日の口実は、こんな内容だ。
「それでは! 我らが会長と、妹分リーシェの功績を称えて!」
「杯を持て、高く掲げろ! 準備はいいな、そうれ――……乾杯!」
『乾杯!』と景気の良い声が揃い、各々が頭上に酒杯を掲げる。リーシェももちろん彼らに倣い、注がれた麦酒を飲み干した。
(んんん、おいしい……!)
砂漠の旅で乾いた体に、お酒が染み渡る。
昼間の酷暑から一転し、砂漠の夜は急激に冷え込むのだ。寒さの中で焚火に当たりながら口にする一杯は、普段と違った味わい深さがあった。
その感動は、向かいに腰を下ろした男も同じだったらしい。
「くあーっ、格別だな!」
上司である商会長のタリーは、満面の笑みでこう言った。
「砂漠の夜、美しい星空、最高の酒! 商いも前途洋々で言うことなしだ、なあリーシェ!」
「会長。嬉しいのは分かりますけど、くれぐれも飲みすぎないでくださいね」
一応そう注意しながらも、リーシェだって内心とても嬉しい。
難しい商談を成功させた帰路は、決まって酒宴も長引いてしまうものだ。もちろん、この商会で一番の下っ端であるリーシェには雑務の仕事も多いので、明日も早起きをしなくてはならないけれど。
それでもいまは、ひと時の宴を楽しむ時間だ。
「ほらリーシェ、お待ちかねの肉が焼けたぞ。お前さんに一番美味いところをやろう!」
「わあ!」
ナイフの刃に乗った羊肉を差し出され、お皿代わりのパンでそれを受け取る。
すると今度はその上に、トロトロにとろけたチーズを乗せられた。これは先ほど、商会幹部のニールが、串に刺して焚火であぶっていたチーズだ。
こんなもの、絶対美味しいに決まっている。焚火から火の粉がぱちぱちと上がる中、今日も美味しいご飯が食べられることを心底感謝した。
「いただきま――」
そう言いかけたリーシェを、タリーが止める。
「待て待てリーシェ。せっかく砂漠の夜なんだ、もっと異国情緒を大事にしろ」
「?」
異国情緒もなにも、リーシェたちは常に各国を旅している。しかしタリーの言わんとしていることは、彼が小瓶を取り出したのですぐに分かった。
「いいんですか? 会長」
「当然。道中の飯ってのは、他の人間と分け合うからこそ美味いんだよ」
タリーはにやりと笑い、赤い硝子の小瓶を振る。
この瓶の中には、この地域でしか取れない香草を使った香辛料が入っているのだ。
これは商品でなく、タリー個人の所有物である。来るときに立ち寄った砂漠の村で、それなりに高額だったはずだ。
それでもタリーは瓶を開け、チーズの上にぱらぱらと香辛料を振ってくれる。そして、これでいい、と視線で促された。
リーシェはこくりと頷いたあと、どきどきしながら大口で齧り付く。
その瞬間、じゅわりと肉汁が染み出した。
「……っ!」
癖がないのに風味は深い、そんな旨みが口いっぱいに広がる。そこに濃厚なチーズが絡み、肉汁を包み込んだ。
時々ぴりりと辛いのは、ひとつまみ分の香辛料だろう。稀にやってくるその刺激が、お肉ともチーズともよく合っている。
「んん~~……っ!!」
頬を押さえて噛み締めると、それを見ていた商会員たちがワッと歓声を上げた。
「よしみんな、リーシェのお墨付きが出たぞ! これはいける!」
「もっと焼け焼け、チーズも追加だ!」
「ちょっと、なんで私を毒見役みたいにしてるんですか!?」
「お前の舌は確かだからな。その割に、自分で作るときはなんであんなに雑になるのか分からんが」
タリーに言われてくちびるを曲げるものの、料理とお酒が美味しければ不服などすぐに忘れてしまう。
そんな酒宴の最中も、商会員たちはあれこれリーシェに声を掛けてくれた。
「おいリーシェ、酒は足りてるか?」
「野菜も食え。あとほら、あっちにヤシの実があるみたいだぞ」
「パンもしっかり食べろよ。もちろん肉もだ、なんたって今回の功労者だからな!」
やたらと世話を焼いてもらい、リーシェは困惑する。
「……あの会長。なんだか今日はみんな、妙に優しいような気がするんですけど」
「はははっ、あいつらも嬉しいのさ! お前がこんな大きな商談を勝ち取ってきたんだからな」
タリーからそんな風に言われ、驚いてしまった。
「あれは私の功績じゃありませんよ? ほとんど会長が仕掛けたことで、私は少しお手伝いしただけですし」
「それでも、ザハド王を動かしたのはお前の一押しだろ。……お前さんが婚約破棄されたあと、うちの連中に拾われてからそろそろ一年か?」
「そういえば、そのくらいになりますね」
タリーの言葉を聞いて、少し不思議な気持ちになる。
あの日のことが、なんだか遠い過去のように思えたからだ。
王太子のディートリヒに婚約破棄され、祖国を追放されてから、まだそれだけしか時間が経っていないのか。
(なんだか、変な感じ)
あの日偶然にも彼らと出会い、旅に同行させてもらったからこそ今があるのだ。会長のタリーに出会って、商会員として加わることを認められた。
あれ以来、今日までがむしゃらにやってきたおかげで、祖国のことなど思い出す暇もなかったほどだ。
砂除けのローブを纏ったリーシェは、なんとなく東の方を見やる。
遥か東には故郷があるが、もちろんここから見えるはずもない。
あるのはただ、一面に広がる砂漠の光景だ。
空に浮かんだ大きな月が、辺りを照らしている。滑らかな砂の大地は銀色に輝き、こうしてみると雪原のようだ。
幻想的な景色に目を奪われていると、タリーがしみじみと言った。
「世間知らずのご令嬢がここまでになるとは、大したもんだよ」
「……それに関しては、会長の商人教育が容赦なかったせいでは……?」
蘇るのは、悪夢のような下積み期間の記憶だ。リーシェが遠い目をしていると、タリーは酒瓶に直接口をつけながら言った。
「おおそうだ。そういえばザハド王だがな」
「はい? なんでしょう」
「あれは多分、お前に惚れたぞ」
「げほっ」
呑んでいた麦酒が変なところに入りかけ、盛大にむせた。
なんだなんだと商会員たちが寄ってくるが、なんでもないと慌てて答える。
「な、何言ってるんですか!?」
「正確には一歩手前、惚れかけってところか? 気を付けろよリーシェ、商談相手と色恋沙汰になると面倒だからなあ」
「会長が言うと説得力がありますけど、大丈夫です! そんなことには絶対ならないですから! 会長の勘違いですよ」
そんなことより、とリーシェはタリーに言う。
「会長こそ、ほんっとうに気を付けてくださいね。宮殿の女性たちを誘ってたの、みんな知ってるんですから」
「仕方ねえだろ? 砂漠にあんな綺麗な花が咲いているとくれば、俺に抗うすべはない。『是非お相手を』と跪きたくなるのは不可抗力だ」
「アリアちゃんに言いつけますよ」
「やめろそれだけは!! 頼む、この通りだ!!」
砂に額をぶつける勢いで頭を下げられ、溜め息をつく。
もちろん本当は、教育に悪いことをわざわざ聞かせるつもりもないけれど。
「……会長。本当にありがとうございました」
起き上がって砂を払うタリーに、改めて告げる。
「ああ? 何が」
「私を拾い、商人として育てて下さったことです。でなければ私はいまごろ路頭に迷っていたでしょうし、それに」
リーシェは、広大な砂漠へと再び目を向ける。
広がるのは砂の海だ。
オアシスの水面に月は揺れ、その傍らで焚火が燃え上がる。
ラクダたちは固まって眠りにつき、仲間の笑う声がする中、異国の酒と料理が並ぶ。
「あの国を出なければ、こんな美しい景色を知ることさえ出来ませんでした」
「……」
本当に綺麗な光景だ。
仕方なく辿り着いた未来ではなく、ちゃんと選んでここにいる。
公爵家に生まれ、『未来の王妃であること』以外に自分の価値はないと言われ続けていたリーシェにとって、こうした出来事のひとつひとつが自身の世界を変えてくれているのだ。
そう告げると、タリーは悪戯っぽく笑った。
「まだまだこれからだ。――お前はこの先、世界中の国を回ってみせるんだろう?」
「……はい!」
リーシェの掲げた夢の話を、タリーは覚えてくれているのだ。
『商いをしながら、この世界にあるすべての国を回りたい』。この目標は、リーシェにとっても大きな原動力だった。
(明日からも、頑張らないと)
自分自身の夢があり、尊敬する人がそれを応援してくれている。それだけで、どんな人生だろうと胸を張って進めるような気がした。
タリーは酒瓶を掲げると、焚火の向こう側にいる部下に向かって声を掛ける。
「ニール! そろそろ良い頃合いだ、いつものやってくれよ!」
「よしきた会長。砂漠の夜にぴったりの曲を弾いてやるぜ」
「よし、会長のお許しが出たなら俺は踊ろう。宮殿で見たあの魅惑のダンスを……」
「ぎゃはは、馬鹿! お前もう足元がふらふらじゃねーか!」
仲間たちがげらげらと腹を抱えて笑う中で、リーシェも笑う。やっぱり今日の宴だって、早めに切り上げられそうもない。
せめて今日は、恒例の飲み比べ大会だけはやめておこう。
そんな風に決意しながら、砂漠の夜は更けてゆくのだった。
Twitterに乗せていたお話です。
https://twitter.com/ameame_honey




