288 大輪の花
【第7章3節】
「殿下! 本日も早朝から、近衛隊のご指導をお疲れさまでした」
「…………」
その朝、朝食後の身支度を整えたリーシェは、アルノルトの執務室で『確認』をしていた。
「午前中は国境警備についての会議と、財務部門を中心とした書類処理のご予定でしたよね?」
「ああ」
「途中で造幣事業の初期計画案に関する課題会議、貧民街支援策の物資搬入ルート擦り合わせ。コヨル国との共同研究に伴う各種予算会議」
机に向かったアルノルトの傍らに立ち、記憶の中にある項目を数えてゆく。アルノルトが目を通しているのは、宰相から朝一番に届けられたという書類のようだ。
「その後はザハド陛下と、軍務伯グレーナー閣下を交えた会食。午後はザハド陛下との『外交』だったと記憶しておりますが、アルノルト殿下……」
リーシェがまなざしを向ける前に、アルノルトは察していたらしい。美しい書き文字で署名を綴りながら、こんな返事をしてくれた。
「お前の時間が空いているのなら、自由に見学すればいい」
「ありがとうございます!」
「だが」
アルノルトがペンを机上に置き、念を押してくる。
「主城に行くのだろう」
先ほど、皇帝アンスヴァルトの遣いから『報せ』が届いたのだ。
「……はい」
リーシェは微笑みを浮かべ、なんでもないことのように言い切った。
「お義父さまの正妃であらせられる、フロレンツィア妃殿下に、お目通りを」
「――――……」
今朝のリーシェは、大人びて落ち着いた印象を与える、濃紺のドレスに身を包んでいた。
腰よりも少し高い位置をリボンで絞り、そこから広がって優雅なシルエットを描く裾は、ドレープの少ない作りのものだ。
袖は、手首側にゆくにつれて広がるベルスリーブで、涼しげながら淑やかな立てが美しい。
珊瑚色の髪はハーフアップにまとめ、緩やかな編み込みを施して、耳には一粒真珠の飾りを選んだ。首飾りや腕輪は身に付けず、ドレスの上品さを全面的に活かした装いだ。
いまのリーシェを飾る貴石は、アルノルトに贈られたサファイアの指輪、それのみである。
「いかがでしょう。妃殿下にご挨拶するにあたって、失礼のない服装に見えますか?」
「些事を気に留める必要はないだろう。お前はただ、お前の好きな装いをしていればいい」
「あら」
甘やかすようなアルノルトの意見に、リーシェは微笑む。
「場面に沿って装いを変えるのも、私にとってはとても楽しいことですよ?」
するとアルノルトは肘掛けに頬杖をつき、少し揶揄うように笑った。
「なるほどな。――お前らしい」
「ふふ!」
そう言ってもらえたことが嬉しくて、リーシェはくちびるを綻ばせる。
「それに、叶うのであれば妃殿下は、是非とも仲良くさせていただきたいお方ですし!」
「『家族との付き合いは、結婚で最も苦労する点』か?」
「そうですよ。だからこそアルノルト殿下には、別居用の離宮をご用意いただいたのです」
アルノルトが言及したのは、リーシェが以前告げた言葉である。
リーシェがアルノルトに求婚された際、婚約者になる条件として出した『おねだり』のひとつは、アルノルトの父と別の居を構えることだったのだ。
(本当の理由は、『アルノルト殿下がいずれ殺す父君』から、物理的に遠ざけたかったのだけれど)
リーシェはこれから自ら望んで、この国の皇妃に会いにゆく。今のままでは知り得ないアルノルトのことを、もっと深く知るために。
彼の戦争を止める手段を、ひとつでも多く切り札に加えなくてはならないのだ。
「リーシェ」
「はい、殿下」
リーシェが微笑んで首を傾げると、アルノルトは次の書類を手に取った。
「お前が対応できない相手だとは思わないが。――何かあれば、必要に応じて俺を呼べ」
アルノルトは、ただの杞憂でこうした言葉を向ける人ではない。
(私の指輪を作ってくださった宝石店の店主さまが、皇城から距離を置かれた理由……フロレンツィア妃殿下と悶着があったからだと、そうお聞きしたこともある)
リーシェは指輪に触れながら、アルノルトに尋ねた。
「怖いお方ですか?」
「さあな。少なくとも、あの男に殺されることもなく、自ら命を絶つことも選ばなかった」
青の瞳が、ほんの僅かに伏せられる。
「父帝が迎え入れた妃のうち、唯一の生き残りだ」
アルノルトが紡いだ言葉の重みを、リーシェは静かに受け止めた。
その上で、改めてアルノルトに微笑みかける。
「お会い出来るのが、楽しみです」
「…………」
自ら前に進まなくては、欲しいものを手に入れることなど出来ない。
改めて背筋を正し、アルノルトに一礼した。
「お目通りの後は、お許しいただいた外出に、テオドール殿下と出掛けて参ります。――そちらが終わりましたら、あなたの訓練場に」
「……」
微笑んだリーシェは、さっそく執務室を退室し、主城へと向かうのである。
***
「未来の妃殿下に恐縮ではありますが、最後に改めての確認となります。この場所に、刃物を初めとした危険物は、持ち込んでいらっしゃいませんね?」
「はい。もちろんです!」
騎士からの最終確認に、リーシェは笑顔でそう答えた。
主城を警備するのは、アルノルトの管轄外となる騎士たちだ。リーシェをここまで案内してくれた彼らは、リーシェの返事に頷くと、一礼してこの場を後にした。
(主城はやっぱり、皇城のどこよりも警備が厳しいわ。アルノルト殿下の婚約者であるお陰で、身体検査まではされないけれど……)
ドレスの下、太ももにベルトで巻いているもののシルエットが浮かないよう、リーシェは慎重に裾を直した。
ひとり残された主城の中庭には、噴水の涼やかな水音が響いている。
(フロレンツィア妃殿下のご出身……大国ゼルディアの、伝統的な彫刻だわ)
初めて訪れた石畳の上で、リーシェはかの人を待ち始めた。
(海を隔てた東の大陸を支配する、ガルクハインに並ぶほどの軍国。かつてはガルクハインを凌ぐほどの強国で、この大陸の一部地域ですらも、ゼルディアの領土だったのよね)
その状況を覆し、ゼルディアを東の大陸へと退けたのが、当時勢力を伸ばしていたガルクハインだ。
(十五年前、戦争による領土拡大を続けていたお義父さまは、ゼルディア領に隣接する属国を制圧。その後、この大陸内のゼルディア領に攻め込んで、圧勝した)
皇帝アンスヴァルトの戦い方は、未来のアルノルトを思わせる。
アルノルトが、自分と父親が『同類』だと称するのは、きっとそうした所なのだろう。
(二カ国は和平を結び、その際にお義父さまの正妃として嫁いでいらしたのが、フロレンツィア妃殿下)
こちらに近付いてくる気配を受けて、リーシェはドレスの裾を持ち、礼の姿勢を取る。
そうして頭を下げたまま、ひとりの女性に向かって告げた。
「お初にお目に掛かります」
盛夏の木漏れ日が降り注ぐ中庭に、柔らかな風が吹き込んだ。
上品で、僅かに甘い香水の香りがする。これは確か、東の大陸に冬の間だけ咲く、鮮やかな大輪の花の香りだ。
「この度、不肖の身でありながらも、皇室の末席に加えていただく栄誉に浴しました。リーシェ・イルムガルド・ヴェルツナーと申します」
ゆっくりと顔を上げ、その人物にまなざしを向けた。
「フロレンツィア妃殿下」
「…………」
リーシェの目の前に現れたのは、美しい顔立ちの口元を扇子で隠した、たおやかな女性だ。
絹のような艶を帯びた、深い緑色の髪。
何処か物憂げで、大人の女性らしい思慮深さを帯びた双眸。身に纏う翡翠色のドレスは、華奢でありながら曲線的なラインを描き、慎ましさと華やかさを両立した仕立てだった。
(美しいお方。まさに妃殿下ご自身が、大輪の花のよう……)
その肌は白く透き通って、まるで陶器を思わせる。
彼女の美貌と同じくらいに目を引くのは、胸元に輝く、ダイヤモンドの首飾りだ。
「――――……」
そんなガルクハイン国皇妃フロレンツィアが、ゆっくりと扇子を閉じる。
彼女は次の瞬間、リーシェに向かってこう口を開いた。




