277 知らない問い掛け
場の空気が、更に冷たく沈むのを感じた。
皇帝アンスヴァルトは、肘掛けに頬杖をついたまま何も言わない。その青色の目を眇め、リーシェを見据えていた。
ぴりぴりとした重い沈黙が、まるで肌を刺すかのようだ。リーシェは微笑みを浮かべたまま、内心でこの強い重圧に耐える。
(……観察されている)
商人が客を選ぶときのような、生易しいものではない。
戦場に立った騎士が、対峙する相手を睨むのとも違う。その視線は揺れることすら無く、玉座からリーシェを見下ろしていた。
(反逆者を生かすかどうか、戯れに思案する支配者のようなまなざしだわ。気分ひとつで他人の運命を変える、圧倒的存在がここに居る)
リーシェの命はたった今、まごうことなく、アンスヴァルトの手の中にあるのだ。
(明確な殺気ですらないのに、息が苦しい。重くて、震えてしまいそう……)
本能的な緊張が抜けないまま、心臓がどくどくと脈を打っている。
(だけど)
それを表に出すことなく、リーシェは敢えて笑みを深めた。
(――本当に殺されるときの重圧より、ずっとマシね)
アルノルトが伸べてくれた手を取って、跪く姿勢から立ち上がる。
漆黒のドレスの裾をつまみ、それが一番優雅に見えるように捌いて、指輪を嵌めた左手を胸に当てた。
「アルノルト殿下を叱らないでくださいませ。お義父さま」
「…………」
ここには、戦うために来たのだ。
だからリーシェは微笑んで、右手をアルノルトの手に置いたまま続ける。
「私がご子息にねだったのです。どうしても婚姻の儀の前に、お義父さまにご挨拶したいのだと」
アルノルトはリーシェの傍らで、父親のことを見据えていた。
自然な振る舞いではありながら、ひと時も注視を絶やしていない。何かあればどうとでも動けるよう、静かな敵意をくゆらせたままだ。
そんなアルノルトに向けても、リーシェはわざと笑みを向ける。
「ね? アルノルト殿下」
「――――……」
アルノルトが僅かに目を眇めたのは、どんな心情ゆえだろうか。
リーシェはそれを推測することはせず、再び眼前の玉座を見上げた。
「お義父さまにお会い出来ることを、心より待ち遠しく感じておりました」
アルノルトの手に柔らかく重ねていた手を、ふっと離す。
リーシェはたったひとりきり、アンスヴァルトの前に歩み出て、にこやかにこう続けた。
「アルノルト殿下は幼少の砌、どれほど聡明なお子さまでいらしたのか。あるいは、ご両親のどちらに似ていらっしゃるのか……是非とも知りたいと思っていたのです」
明るい声音で告げながらも、注意深くアンスヴァルトを観察する。
(私が『父』と呼ぶことを、きっと良しとはされないはず)
何しろアンスヴァルトは、自身の血を分けた赤子たちですら、瞳と髪の色による選別を行なった。
(自分と同じ色を持つ、そんな子供以外を殺めてきたお方。自らの血を濃く引いた存在に、強い執着を持っている)
そうして生き残った最初の子供に、残酷な赤子殺しを手伝わせた男だ。
かつてアルノルトはリーシェに向けて、自分は父親の同類だと言った。同じ色をした青い瞳を、抉り出したいと願ったこともあるのだと。
(こうして父君のことを知ってからも、やっぱり変わらないわ。私にとってあの青は、父君ではなく殿下の瞳の色)
蛍の舞うバルコニーで、リーシェはこれに近しいことを告げた。あの夜の想いは、こうしていても増すばかりだ。
「アルノルト殿下は……」
だからリーシェは、その『父親』へと鮮やかに笑む。
「お義父さまとは、あまり似ていらっしゃらないのですね」
「――――……」
アンスヴァルトの表情が、初めてほんの僅かに動いた。
(さあ)
その青い双眸が眇められ、リーシェを射抜く。
リーシェは、アルノルトとの初めての夜会の時と同じ心情で、真っ向からそれを受けて立った。
(私がこのまま主導権を握ろうとすれば、あなたはどう出るの?)
痛いほどに張り詰めた空気の中、皇帝の澱んだ双眸を見上げる。
(怒りに触れても、嫌われても構わない。皇帝陛下の感情を揺らせば、私の欲しいものに近付くはず)
アルノルトの注視を感じながら、リーシェも無意識に警戒を強めた、その直後だ。
「…………は」
アンスヴァルトが、笑い声を零した。
「っ、は。……ははは、はははっ!!」
「…………」
形の良い手で目元を覆い、おかしくて仕方がないと言いたげに肩を震わせる。重苦しい時間の中、場違いなほどの大きな笑い声は、緊迫をより引き立てるだけだ。
恐らくは、それすらも計算尽くなのだろう。
「ああ……久方ぶりによく笑った」
(この重圧……)
「確かにこれは、母親の面差しによく似ているが。謁見において、息子の話をしてほしいとねだられたのは、初めてだ」
アンスヴァルトは再び頬杖をつくと、悠然とした仕草で目を眇め、低い声音でこう紡いだ。
「なかなか恐れを知らぬようだな。――『お嬢さん』?」
(…………っ)
見せ掛けだけの紳士的な口振りが、却って警告のように聞こえた。
(敢えて不敬を働いたということは、当たり前に見抜かれているわよね)
少なくとも、後継者の妃として許した相手への呼び掛けではない。リーシェは笑顔を引き攣らせないよう、慎重に振る舞いへと気を配る。
すべて分かっているはずのアンスヴァルトは、どうでもよさそうにこう続けた。
「ご令嬢は、どの国から嫁いで来るのだったか」
アンスヴァルトにとっては、リーシェの素性すらも些事なのだ。そうした扱いを受けることは十分に分かっていたため、淀みなく答える。
「ここより西、エルミティ国です」
「ははっ。そうか、では……」
そのときだった。
(…………?)
アンスヴァルトが、面白そうに目を眇めたのだ。
戦場に立ったときのような寒気が、リーシェの背筋にぞわりと走った。直後、思わぬ問い掛けが、その玉座から下される。
「幼き折、一度でもアルノルトに会ったことがあるか?」
「――――……」
表情から、思わず笑みを消してしまった。
「……いい、え」
答えた声が、僅かに掠れる。
「ありません。子供の頃に、私がアルノルト殿下のお目に掛かるようなことは、決して……」
「…………ははっ」
澱んだ青色の双眸が、こちらを見ていた。
リーシェはドレスの袖口を小さく握り、アンスヴァルトの言葉の意味を探る。
(どういう意味? ……どうしてこんな、問い掛けが……)
アルノルトのことを、振り返ることが出来ない。
(私たちが、ずっと昔に出会っているはずがない。だって私もアルノルト殿下も、お互いの国を訪れたことはなかったわ。……そのはず、なのに)
呼吸を詰めたリーシェに構わず、アンスヴァルトはこう笑う。
「取るに足らない小国の人間を妻にするなど、なんの戯れかと好きにさせたが。……なあ? アルノルトよ」
その場を統べる支配者の声が、重く響いた。
「お前が、最初の妃を選んだ理由が、ようやく分かった」
(……一体、何を……)
心臓が、再び早鐘を打ち始める。
(想像通り、アルノルト殿下が私に求婚して下さったことには秘密がある。それについて、皇帝陛下は見通しているの? だとしたら)
リーシェが咄嗟に身構えそうになってしまった、そのときだ。
「――お言葉ですが」
アルノルトの冷たくも静かな声が、リーシェの耳に触れた。
「ご発言の真意を測りかねます」
「……ほう?」
「重ねて、恐れながら申し上げるべきことが。――彼女は最初の妃ではなく、唯一の妻です」
「!」
ようやく振り返ったリーシェを見据え、アルノルトは穏やかにこう続ける。
「……最後の妃と、そう呼んでもいい」
「……アルノルト、殿下……」
青色の瞳は、やはりリーシェにとっても唯一である、美しい海の色をしていた。
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