272 もしやご機嫌ななめですか?
「改めて、実に楽しい歓迎だった。こんなに驚いたのは、久方ぶりだ」
「無礼をお許しいただけたばかりか、そのようなお言葉をいただけてほっとしております。『ザハド陛下』」
リーシェがそんな呼び方をしたところで、ザハドに叱られることはないのだ。
(寂しいと思う、そんな資格すら無いわ。――また次の人生をやり直せることになっても、ザハドの親友に戻れるかもしれない商人の道を、私はもう二度と選ばない)
だってもう、リーシェは『唯一』の未来を望んでしまった。
「ですが、私も驚きました。まさかザハド陛下がいらっしゃる度に、おふたりがこうしたお戯れをなさっているとは」
「戯れか。どうやらリーシェ嬢はお前よりも、俺の方に近い考えを持っているようだ」
ガルクハイン主城の調度品は、深く落ち着いた色合いの調度品が多い。
重厚な威厳と品格を放つ内装は、ハリル・ラシャの煌びやかで華のあるそれとは、何もかも趣きが違っている。
そしてそれは、この場にいるそれぞれの男性たちにも言えることだった。
「そうだろう? アルノルト」
「――――……」
リーシェの右隣に座るアルノルトは、両腕を組んだまま目を眇める。
アルノルトの持つ黒髪と青い瞳、冷たさを帯びたその雰囲気は、まさしくザハドとは正反対だ。
(ザハドが朝焼けの砂漠なら、アルノルト殿下は夜の海……)
その奥底が見えないことを知っていても、リーシェはその青色をじっと見詰めた。
「そのようなことは、どうでもいい」
「アルノルト殿下?」
いつも通りの淡白な声音だが、リーシェはひとつ瞬きをする。
(なんだかご機嫌ななめだわ。演習には問題なく勝ったのに)
やはり、リーシェの提案した戦法に問題があっただろうか。
そんな疑念を持った思考は、アルノルトの行動によって遮られる。
「ひわ……っ!?」
こちらを覗き込んだアルノルトが、リーシェの首筋に触れたのだ。
「少々買い被っていたようだ。まさかハリル・ラシャの王ともあろう人間が、これほど愚かだとはな」
「ほう?」
左の頸動脈の傍は、アルノルトの傷跡と揃いの場所でもある。
アルノルトが座っているのとは反対側だ。彼はわざわざ手を伸ばし、まるでリーシェを抱き寄せるように、肌へと触れてくる。
(さっき、ザハドの木剣を突き付けられて、赤い塗料がついたところ……?)
敗北の証は洗い流して、とうに綺麗になっていた。
それなのに、アルノルトは親指の腹でゆっくりと、落ちない何かを拭うかのようになぞるのだ。
「どうやら貴様は演習よりも、更に本格的な戦争の真似事をしたいらしい。――婚礼を目前に控えた花嫁に、わざわざ跡をつけるとは」
(く、くすぐったい……!)
思わず声が出そうになるも、ザハドの前だと必死に耐えた。アルノルトを止めなければと慌てるリーシェに反し、ザハドは愉快そうに笑ってみせる。
「そうでもしなければ、奥方は止まっては下さらなかっただろう? お前が悪いぞアルノルト。その花嫁を演習に参加させたのは、一体誰の判断なのだ」
「ザハド陛下……! それについては、私が我が儘を申し上げたのです」
庭園でこの模擬戦を知ったとき、リーシェはアルノルトに申し出たのだ。
テオドールが驚く中、アルノルトは何処か予想がついていた顔で溜め息をつき、リーシェが加わることを許可してくれた。
「演習に交ぜていただきありがとうございました、アルノルト殿下。ザハド陛下に遅れを取ってしまって、ごめんなさい……」
「……お前が謝罪することは、何ひとつない」
アルノルトは眉根を寄せて言うと、ようやくリーシェから手を離す。
「それに、参加させたのは確かに俺の判断だ。テオドールと城内に戻ったと見せ掛けて、木剣を取りに行くだけだろうと察したからな」
「え!? ま、まさか! 近衛騎士さまの格好をしてこっそり戦いに加わるなんて、いくら私でも」
「…………」
「………………」
ぴたりと言葉を止めたリーシェは、やがておずおずとアルノルトを見上げる。
「……アルノルト殿下は時々、私よりも私のことをご存知でいらっしゃる……」
「は」
少し機嫌が直ったらしいアルノルトは、小さく息を吐いて笑った。
「残念だが、変装までする可能性があったというのは今知った。つくづく予想がつかないな」
「私だって、アルノルト殿下にちょっぴり詳しくなったんですよ? そのお顔は私を揶揄って楽しんでらっしゃいますね、分かります……!」
「そればかりではないが。まもなく婚姻の儀を迎える妻に擦り傷がないか、もう少し入念に確認した方がいいか?」
「ご、ごめんなさい!! 本当に怪我はしていません、大丈夫です!!」
素直に降参したリーシェを見て、アルノルトは少しだけ意外そうな顔をした。
「どうかされましたか?」
「……いいや」
アルノルトは、今度こそ揶揄うように目を眇め、こう口にする。
「ただ、今日は『まだ妻ではない』とは言わないのかと、そう思っただけだ」
「!」
アルノルトがリーシェを妻と呼ぶ度に、リーシェはなるべく訂正してきた。
けれども確かに近頃は、心境の変化が生まれている。頰が熱くなるのを感じながらも、きちんと言葉に出して伝えた。
「……だって、本当にもうすぐ、アルノルト殿下の妻になるのですから……」
「………………」
そんなリーシェたちのやりとりを、ザハドはしげしげと眺めている。
「今日は驚くことばかりだな。まさかアルノルトがこれほどまでに奥方の……ああいや失敬! 野暮なことを言うのはよしておこう」
(ど、どういうこと!?)




