269 宝石のあるじ
柔らかそうな曲線を描く長い髪も、纏っている華やかな水色のドレスも、ザハドの思う戦士のそれではないのだ。
現にこうして、容易くザハドに止められてしまった。だが女は、華奢な腕には不釣り合いな木剣を握り込み、真摯なまなざしをザハドに向けてくる。
思わず目をみはったのは、交差した互いの剣越しに、凛とした双眸とまみえたからだ。
(淡い、エメラルドのような瞳)
ザハドの心臓を狙ってきた女は、女神のように美しい顔立ちをしていた。
「…………」
女がじっと、ザハドを見据える。
そのあとに、にこっと愛嬌のある笑みを浮かべた。
「!」
かと思えば次の瞬間には、木剣の先を僅かに反らす。
女を圧そうとしていたザハドの力は、それで呆気なく流された。女はそのまま重心を一気に落とし、一歩退いて地面に手をついた後、ぐっと手のひらで押し返す。
踵の高い靴が大地を蹴り、ぐっと間合いに踏み込んでくるのだ。
華奢な手に握られた木剣は、迷わずに急所を狙ってきた。
(――――喉笛!)
ザハドは口の端を上げ、女の剣を受けて弾き飛ばす。それだけで呆気なく押し返せる軽さは、男の兵相手では有り得ないものだ。
しかし女の剣術は、それすらも利用するものだった。
(なるほど、そうくるか!)
女はザハドの剣によって受けた衝撃を、自らの攻撃の揚力にするのだ。
右足を軸にして身を翻し、ドレスの裾を花のように広げ、回転を利用して斬り掛かる。そうして再び、お互いの剣が噛み合った。
(ハリル・ラシャやガルクハインだけでなく、この大陸で見ない剣術だ。興味深い)
ザハドの腕力の十分の一も持たないであろうその女は、効率的な体捌きと剣の構えで、次から次に思わぬ攻撃を仕掛けてくる。
彼女の剣を受けていると、自分がいかに大袈裟な力を使って戦っているのか、それを突き付けられるかのようだ。
独楽のようにくるくると身を翻し、鮮やかに剣を振るう女の様子は、後宮で見る舞よりも美しかった。
(……とはいえ、あまり長くは遊んでやれぬ)
この女が一体何者であるのか、薄々想像はついていた。まだ気付かないふりを続けていたが、頭には冷静さが残っている。
(手早く終わらせるとしよう。淑女相手だ、多少の加減を……)
けれども直後、目を見張る。
女の手、剣を構えた左手の薬指に、輝く宝石が見えたからだ。
(これは)
ザハドの王宮には、世界中から美しい石が集められる。
この世界で、ザハドが最も宝石に高値を付ける王であることを、各国の商人は知っているのだ。
それでも彼女の持つような石は、これまでに一度も見たことがなかった。
遠い地の凍り付く海の色を、そのまま宝石にしたようなサファイアは、ザハドもよく知る双眸に似ている。
(――アルノルトの、瞳の色)
それを認識した瞬間、ちりっと闘争心が爆ぜた。
「!」
ザハドは剣先を翻す。これまでと太刀筋が変わったことは、女にも瞭然だっただろう。
彼女はすぐさま対応しようとしたが、純粋な剣術の腕だけで言えば、ザハドの方が何段も上だ。
木剣を叩き落としてやれば、女の美しい眉が歪む。すぐさま膝をつき、その剣を拾おうと手を伸ばすが、そんなことをさせてやるはずもない。
彼女の白く細い首筋に、ザハドは偽の剣を振り下ろした。刃が風を切る凄まじい音に、兵たちが慌てて声を上げる。
「王!!」
「――――……」
そうして、すんでのところで止めた。
「……リーシェ・イルムガルド・ヴェルツナー嬢とお見受けする」
「…………」
淡いエメラルドの瞳を持つ女は、地面に片膝をついたこの状況で、ザハドから目を逸らさなかった。
浅い呼吸を繰り返しながらも、双眸にはまだ闘志が揺れている。そのためにザハドは、静止させていた木製剣の刃を、女の左側の首筋にゆっくりと当てた。
(…………)
刃に塗った赤い塗料が、女の首筋を血のように穢す。
この演練は、致命傷となる箇所に塗料がついたら終わりだ。敗北者としてやることで、彼女の瞳からようやく火が消えて、瞳の淡さが増したように見えた。
(本当に、戦士のような性質を持つのだな)
内心で考えたことを口にはせず、彼女に告げる。
「皮肉ではなく、心から素晴らしい歓迎だと感じた。こうしてお初にお目に掛かることが出来て、光栄だ」
「…………」
すると彼女は、僅かな時間だけ俯いてみせた。
「……私こそ、光栄ですわ」
そうして顔を上げ、ザハドに微笑む。
その表情を見たザハドは、思わず目をみはった。
「『お初にお目に掛かります』。ザハド・サイード・シャムス・ラシャ陛下」
(……なぜ)
このときに抱いた困惑は、恐らくは表に出てしまっただろう。
(俺を見て、そのような顔をする?)
女は何処か懐かしそうに、微かな寂寞をいだいたような微笑みで、ザハドの名前を呼んだのだ。
そうしてドレスの裾を右手でつまみ、片膝をついて跪く。空いている左手を胸元に当てて、砂漠に咲く花のようにドレスを広げると、恭しくザハドに一礼した。
(ハリル・ラシャ式の、王家への礼……)
その姿勢は、ハリル・ラシャで暮らしたことがあるのかと思えるほどに、指先の揃え方までが完璧だ。
(何者なのだ。この女は)
ザハドは一歩踏み出して、彼女へと手を伸ばそうとした。
他意は無い。ドレスが汚れるのを厭わずに礼を尽くしてくれた、異国の令嬢への敬意のつもりだ。
しかし、首筋に冷たいものを感じて手を止めた。
「……なるほどな」
ザハドは口の端を上げる。
そうして、いままで気配のひとつも感じさせなかった男に向けて、くつくつと笑いながらこう告げた。
「此度は俺の完敗のようだ。……これが、お前が唯一選んだという妃か」
冷たく静かなその殺気が、ザハドの背後から向けられている。
そしてザハドの首筋には、男の手にした木剣が突き付けられていた。
「なあ? アルノルトよ」
「――――……」
振り返った先のアルノルトは、妃の指に輝く宝石と同じ色の瞳で、淡々とザハドを見据えているのである。
***




