263 目に映るもの
【エピローグ】
ヨエルや女性たちの手当てを終えた後、滞在している屋敷に戻ったリーシェは、アルノルトと寝室に閉じ籠もっていた。
すべては傷口の経過を確認させてもらい、傷薬の塗り直しを行うためだ。
アルノルトは上半身の衣服を脱ぎ、寝台に座ってくれている。リーシェはその前の椅子に掛け、確認を終えてから顔を上げた。
「やはり『女神の血』の効力は、傷の急性期に発揮されるようですね」
傷薬を入れた小瓶の蓋を開け、専用の筆を浸す。
アルノルトはさしたる興味もなさそうに、それでいてリーシェの話には耳を傾ける様子を見せた。
「殿下が負傷なさったあの夜は、驚くべき早さで血が止まりました。ですがそれ以降の治りは通常通りで、傷がすぐに塞がるなどの様子は見えません」
「そうか」
「動くと痛みがおありなのでは……」
アルノルトは隠すのが上手すぎるのだ。首の古傷のことだって、左右で動きの差があるはずなのに、そのことすらもなかなか気取らせない。
「本当に、ご無理をなさっていませんか?」
「…………」
リーシェはじっと見つめてみるも、アルノルトの表情は変わらなかった。
それどころかリーシェに手を伸ばし、その両手で顔をくるまれる。無言で頬をむにむにと押され、リーシェは慌てた。
「っ、もう、悪戯……!」
「は」
こちらは抗議をしたはずなのに、アルノルトは何故か楽しそうだ。リーシェはむっと右の頬を膨らませつつ、傷薬を塗ってゆく。
「お前こそ、体の何処にも不調は無いな?」
「心身共に、傷ひとつありません。……あそこまで丁重に扱われるとは、思っていなかったほどに」
アルノルトが僅かに眉根を寄せる。だが、これは重要なことなのだ。
「あの船での私たちの扱いは、どう考えても奇妙でした。商品として丁重に扱われながらも、隠した武器を探られることすら無く……やはり彼らの主な商いは、貴族令嬢だけを対象にした人身売買ではなさそうです」
「――だろうな」
「それから。殿下に先ほど少しだけお話しした、海図の件も」
甲板の上で、リーシェはアルノルトに告げている。
「あの船は、シウテナに立ち寄る予定だったのです」
「…………」
アルノルトがここで何も答えないのは、実のところ予想した通りだった。現在ラウルが、あの船に残っていることには気付いている。
(シウテナは北の港町で、コヨルに向かう航路でもある。この街を出た船の行き先として、不自然ではないけれど)
アルノルトの傷口に、ガーゼを当てながら考える。
(シウテナの領主はローヴァイン閣下。そして、アルノルト殿下がローヴァイン閣下にお見せになった冷たさは……)
奴隷商たちの背後には、『サディアス』を名乗る男がいる。
恐らく武器商人であると思われるあの男にとって、国同士の戦争に次いで重要な儲け話は、内乱だ。
(これはまだ、想像でしかない。けれど、私が騎士候補生として十日間の訓練に潜り込んだ最初の日、ローヴァイン閣下はいらっしゃらなかった)
ローヴァインが訓練に加わったのは、二日目からなのである。
『若者はもっと育つべきだ。明日より私も君たちの指導に加わるが、よろしく頼む。――旅程が遅れ、今日の訓練には参加できなかったが、君たちの所感はどうだった?』
あのときローヴァインはそう話していた。
しかし、候補生への指導内容からも真面目さが窺えるローヴァインが、訓練初日に遅れてくる理由とはなんだったのだろうか。
同じく律儀な人柄であるカイルはその翌日、アルノルトの計算していた通りの時間に到着し、城門を潜ったのだ。
(カイル王子への牽制のために呼ばれたローヴァイン閣下が、カイル王子の到着に間に合わないなんてあってはならない。それなのに旅程が遅れた理由を、とても悪い形で想像するなら――……)
包帯を準備する手が、少しだけ止まってしまう。
(ローヴァイン閣下が、この運河の街に立ち寄った可能性は?)
先日街で見掛けた船の中に、シウテナからの荷物を載せたものがあったことを思い出す。
やりとりのある船が着くのならば、ローヴァインが訪れてもおかしくはない。普段は領地を離れられない彼が、ガルクハインへの遠征の傍らに赴くのも自然なことだ。
(けれどローヴァイン閣下は、未来でアルノルト殿下に殺される)
その理由が、皇帝アルノルト・ハインの暴虐を止めたからではなく、他の大罪を目論んでいたからだとすればどうなるだろうか。
「リーシェ」
「!」
アルノルトの手が、包帯を持っていたリーシェの手に触れた。
「自分で巻く」
「あ」
恐らくは、思考を読まれてしまったのだろう。
リーシェは少々ばつが悪く、それに加えてどうしても手当てをしたかったので、アルノルトにこんな駄々を捏ねた。
「……一緒に巻きます」
「一緒に?」
「は、はい」
自分でも妙なことを言っている自覚はあるため、もごもごと口ごもりながら手を伸ばした。
胴体部の包帯は、他人よりも本人の方が巻きやすい。そのことをよく知っているため、リーシェはあくまでアルノルトを手伝う形で、それでも祈りを込めてゆく。
「早く、この傷が治りますように……」
「…………」
何度だってそんな風に繰り返すリーシェを、アルノルトはいつものように淡々とした、それでいて柔らかなまなざしで眺めた。
包帯を巻き終えたばかりの手が、そのままリーシェの頭を撫でる。
アルノルトに髪を梳かれる心地良さに、リーシェは緩やかな瞬きをした。
「でんか……?」
「……お前、眠いだろう」
決してそんなことは無い。ふるふると首を横に振るが、それでも繰り返し撫でられる。
「ね、眠くないです」
「どうだか」
「本当に! ……あ、あれ……?」
必死に否定するつもりが、なんだか瞼が重くなってきた。
「あの船火事の日から、お前が深く眠れていなかったのは知っている」
「…………っ」
その言葉に何も言い返せず、リーシェは俯く。アルノルトの手が触れているところから、温かさに蕩けそうになってしまった。
「観念したか?」
「……はい」
「なら、夕刻まで眠れ」
どうして『夕刻』と告げられたのか、その理由はもちろん分かっている。
リーシェは瞬きをして俯くと、アルノルトの指を緩やかに握り、小さな子供のようにねだった。
「ここで眠っても、いいですか……?」
「…………」
小さく息をついたアルノルトに、もう一度頭を撫でられる。
「――ああ」
そう答えてくれたことが嬉しくて、リーシェは無意識に微笑んだ。
そして夕刻の少し前に目覚め、数多くの身支度を整えると、アルノルトと共にその場所へと向かったのである。
***
夕暮れの直前、金色を帯び始めた日差しが差し込む窓辺で、リーシェはとても緊張していた。
着替えを手伝ってくれた女性たちは、最終確認を終えて退室している。
鏡に映る自身をもう一度見遣り、背中までを確かめたところで、扉の向こうから声が聞こえてくる。
「リーシェ」
「!」
アルノルトに名前を呼ばれ、息を呑んだ。
「……っ、お、お待ちください……!」
もう一度鏡を覗き込み、前髪をせっせと指先で整える。
髪は結わずに下ろしたままだが、実際の婚姻の儀と同じにするのではなく、却って今日は編み込むべきだったかもしれないと悩んだ。
だが、ここであまり時間を掛けてもいられない。
(私のことよりも、アルノルト殿下……! お怪我をなさっているのに、廊下であまりお待たせする訳にはいかないわ)
リーシェは深く呼吸をし、覚悟を決めて扉へと告げる。
「ど、どうぞ……!」
「――ああ」
ゆっくりと開いてゆくように見えるのは、リーシェの心臓が爆ぜそうな所為だろう。
試着用に設けられたその部屋に、アルノルトが入ってくる。彼は顔を上げ、そして真っ直ぐにリーシェを見据えた。
片想いをしている相手のまなざしに、リーシェは頬が火照るのを感じる。
(…………っ)
アルノルトの青い瞳の中には、婚礼衣装を纏ったリーシェの姿が映り込んでいた。




