233 いちばん綺麗
「運河に浮かべられたあのランタンは、一体……?」
その美しい光景に、リーシェは好奇心が抑えられない。少しでも川の傍に近付こうとすると、アルノルトが気遣うようにリーシェの手を取った。
「祈りのためのものだと聞いている」
「祈り……」
アルノルトは目を伏せ、リーシェの足元を確かめながら教えてくれた。
「夜に遠方への船を出す際、船乗りたちが航海の安全を祈願して、あの灯りを流すそうだ」
「……! ひょっとして」
繋いでもらった手を頼りに歩を進めながら、リーシェは瞳を輝かせる。
「水面に浮かべられた星の欠片が、船を穏やかな海に導くというクルシェード教の聖典。それを元にした儀式として、星を模したランタンを海に流す地域があると聞いたことがあります」
「実際は迷信めいた目的ではなく、潮の流れを夜でも追いやすくするための行動だろうがな」
アルノルトが視線を向けた方角には、下流から繋がる海がある。ここからはまだ見えないものの、風には微かな潮の香りが混じっていた。
「この儀式を行う際は、事前に申請を出させることになっている。公の交通網である運河を使うにあたって、調整が必要なこともあるからな」
「なるほど。だからアルノルト殿下がご存知だったのですね」
通常ならば祈りの儀式について、アルノルトが関心を示すとは想像しにくい。けれどもそういった申請が存在するのであれば、彼の記憶の隅に留まっていたのは頷けた。
「ずっと前、私に薬のことを教えてくださった師匠からお聞きしたことがありました」
リーシェは髪を片耳に掛けながら、目の前で煌めく運河を見つめる。
「ランタンを運河に浮かべて祈る地域があり、水面を埋め尽くす小さな灯りが、それはそれは幻想的な光景なのだと。師匠は詳しい場所を覚えていないと仰っていて、とても残念だったのですけれど……」
あれは二度目の人生だった。薬師の師匠であるハクレイから聞いた話を思い出して、色々な人生の旅の途中、その景色を探してみたこともある。
けれど、道理で見付からなかったはずだ。その理由に気が付きつつ、リーシェは目の前の運河に見惚れる。
「あれは、ガルクハインのお話だったのですね……」
「…………」
この美しい景色は、リーシェがこれまでの人生で、一度も来たことのない国に存在したのだ。
「あ……! ご覧下さい、アルノルト殿下!」
リーシェは無意識にぎゅっとアルノルトの手を握り返しつつ、もう片方の手で運河を指差す。
「あのランタン。殿下の瞳に近い、青色です!」
「そうだな」
「あの青色が、一番綺麗……」
けれども光が弱く見えるのは、青色がほとんど黒に近い色だからだろう。
この紙製のランタンは、張ってある紙を染料で塗ることで色付けていると思われるが、濃い青色は光も透過しにくい。
「錬金術の研究のひとつとして、色々な染料を編み出すのも良いかもしれません。遠くの大陸では純金よりも、同じ重さの青い染料の方が高価な国もあるほどですし」
「この国で需要が膨らむ可能性はある。お前が婚礼衣装の刺繍を行ったことによって、国中からこの街の服飾技術に目が向けられるだろうからな」
「ふふ! 皇族が大々的な婚儀を行うことによって生まれる経済効果は、国が賑やかになって素晴らしいですね」
綺麗な景色を眺められたおかげで、新しくやってみたいことも生まれた。心を弾ませるリーシェの様子は、やはりはしゃいだ子供のようだっただろうか。
「殿下?」
隣に立つアルノルトは、リーシェの横顔ばかりを眺めていたようだ。それを不思議に思って首を傾げると、こんなことを告げられる。
「この国に到着した最初の日も、お前は街並みを眺めて喜んでいたな。――あのときは、まったく理解出来ないと思ったが」
恐らくはリーシェが離宮の掃除をして、アルノルトとバルコニーから皇都を見下ろしたときのことだろう。
アルノルトの物言いが、過去を語る形になっている。それに少しどきどきして、リーシェは尋ねた。
「……今であれば、ちょっとだけでもご理解いただけそうですか?」
「いいや。だが」
淡々とした否定に続いて、アルノルトは穏やかな言葉を重ねた。
「これがお前の焦がれるようなものだということは、もう分かる」
そう告げられたことの大きさに、リーシェは少しだけ息を呑んだ。
(これがクルシェード教の聖典を元にした儀式であることを、アルノルト殿下は把握なさっているはず)
たとえ祈りに興味がなくとも、申請には目を通しているのがアルノルトだ。
クルシェード教の巫女を母に持ち、教団を厭うアルノルトにとっては、この儀式も決して好ましいものではなかっただろう。
(それでも私を、連れて来て下さった)
星のようなランタンが、水面に美しく揺らいでいる。船出を導くというこの火が、リーシェの心にも明るい光を灯してくれた。
「ありがとうございます。アルノルト殿下」
リーシェが嬉しくて微笑むと、アルノルトは眩いものでも眺めるかのように目を眇める。
「……とっても、とっても綺麗……」
「…………」
少しだけ泣きそうになってしまったことを、アルノルトには見抜かれてしまっただろうか。
リーシェと繋いでいない方の手が、リーシェの頬へと触れる。
まるで涙を拭うようにまなじりをなぞりながら、アルノルトは無表情のままで双眸を伏せ、それでも柔らかな声でこう言った。
「……お前以外の美しいものを、俺は知らない」
「――――!」




