223 やっぱりそんな風に見えますか?
言葉の意味が飲み込めなくて、リーシェはひとつ瞬きをした。
ヨエルは至近距離のまま、リーシェを見下ろしてぶつぶつと呟く。
「必要としている、ならまだマシか。……本当は君なんて、アルノルト殿下には不要なはずなんだよね」
「ヨエルさま」
「だっていらないでしょ? あのひと俺より強いもの。それなのにわざわざ君の『作戦ごっこ』に協力して、君を守って、君のために手間をかけてあげているなんて不思議。どう考えても、奥方の遊びに付き合ってあやしてあげているようにしか見えない……」
首を傾げたヨエルの瞳には、純粋な疑問が宿っている。
「君の旦那さまは、どうして君を甘やかすのかな?」
「…………」
その言葉を、リーシェはとても意外に感じていた。
(ヨエル先輩が、他人にこんな形の興味を持つなんて)
リーシェが知る騎士人生のヨエルには、『この相手の剣術がどれほど強いか』という関心しか無かった。
けれども今ここにいるヨエルは、アルノルトの心情を知りたがっているように見える。ヨエルがそれを求めている理由が、リーシェにはなんとなく分かる気がした。
「――殿下がご自身に似ていると、そんな風に感じていらっしゃるのですか?」
「……!」
その瞬間、ヨエルが僅かに目を見開く。
(剣の天才。他の方とは比べものにならない、圧倒的な強さを持つお人……ヨエル先輩にとってはきっと、アルノルト殿下が唯一の同質に見えているのだわ)
ヨエルは少し拗ねたような声音で、リーシェに向かってこう尋ねた。
「……どうして分かるの」
「ヨエルさまのお顔を見ていれば、なんとなく」
騎士人生で出会ったばかりの頃は、なにひとつ分からなくて途方に暮れた。
(けれどもヨエル先輩は、ある意味でとても素直なお方だわ)
よくよくじっと見つめれば、その無表情にも心情が透けて見えるのだ。
強い剣士を見てわくわくしているときや、とてもお腹が空いているとき。それから心から眠いときと、暇だから寝ようとしているときの差。
(それから)
『先輩だから一緒に行ってあげる』と言いながらも、本当はリーシェを心配してくれていること。
リーシェが強くなると、そのくちびるにほんの少しだけ微笑みを浮かべて、誇らしげにしてくれること。
「…………」
思い出して微笑んだリーシェを見下ろして、ヨエルはぽつりと呟いた。
「リーシェも不思議。本当に不思議だ。……いくら普通よりは強くても、明らかに俺よりは弱い訳だし、アルノルト殿下がなんで君に付き合ってあげているのかも意味不明だけど」
「あら。私だってひょっとしたらそのうち、今よりもっと強く成長するかもしれませんよ?」
「そうかもしれないけど、今はまだまだ弱い。だって君は」
骨張っていて白いヨエルの手が、リーシェの方へと伸ばされる。
「小さくて華奢で柔らかそうな、ただの女の子だ」
「――――……」
その瞬間だ。
それまで状況を静観していたラウルが、ヨエルの手首を掴んで止めた。
「わ……」
「っ、ラウル?」
リーシェが驚いてラウルを見上げれば、赤い瞳の瞳孔が僅かに開いている。
「…………」
ラウルは一瞬の沈黙のあとで、ぱっとヨエルの手を離した。
「うーわ、あぶねえ。殿下から奥さんの護衛を言い付けられてた訳でもねーのに、危うく料金外の仕事する所だった」
「もう、ラウルったら」
その言いように苦笑した。わざと軽口を叩いているが、ラウルが心配してくれたのだって十分に伝わっている。
「それでも、ありがとう」
「……どーいたしまして」
ラウルは肩を竦めたあと、ヨエルの方を見下ろす。
「それはそれとして剣士さん、不用意にこの姫君に触らない方がいいぜ? 恐ろしい皇太子殿下に殺されるから。俺が危険性を保証する」
「ん。それ、リーシェを庇ってたから分かってる。……手合わせの交渉が失敗したら、あの人の前でリーシェを抱きかかえてみようかな」
「ははははは。それは本気で止めないとだなー」
ふたりのやりとりを聞きながらも、リーシェは不意に思い出していた。
(騎士人生で聞いていた、ヨエル先輩の言葉)
出会ったばかりのとき、ヨエルは確かに言ったのだ。
『そんなことをしてると弱くなる。どうせ、戦う時はひとりでしょ。――そうやって無闇に他人を気にしてると、いつか本当の戦場に出たときに、あっさり死ぬよ』
あのときのリーシェは、その言葉を受け入れたりはしなかった。
(だけどヨエル先輩は、あのとき先輩が言っていた言葉の通り、戦場で他人の私を気遣った結果……)
リーシェを庇ってアルノルトに斬られたヨエルは、最期にどんなことを考えていたのだろうか。
そのすぐ後に死んでしまったリーシェには、想像も付かなかった。
(圧倒的な剣の天才は、ひとりで戦った方が強い。それはヨエル先輩だけでなく、アルノルト殿下も――……)
僅かな不安が、胸の奥にゆらりと滲んでいる。
***
その翌日、屋敷の中で朝食を終えたリーシェは、朝から屋敷内の湯殿にこもっていた。
「んんん……っ」
ちゃぷんと揺れるお湯からは、心地よく甘い香りがする。湯船の中は少しぬるいが、頻繁に熱いお湯が足されているため、すぐに冷めてしまうことはなかった。
(……あったかい。気持ち良い……)
白く濁ったお湯の中、リーシェはとろりと目を伏せる。すると、傍に居る女性のひとりが声を掛けてくれた。
「花嫁さま、お湯加減はいかがですか?」
「はい、とってもゆったり出来ています……!」
「それはようございました。私共の力が強いようでしたら、それもお気軽にお申し付け下さいませ」
その女性が手入れしてくれているのは、後ろに流したリーシェの髪だ。
傍にいるのは彼女だけではない。たとえばリーシェの肌を磨いてくれている女性や、デコルテ辺りのマッサージをしてくれている女性。顔にしっかり保湿をしてくれている女性も、指先や爪の手入れをしてくれている女性もいる。
リーシェはすべてに身を任せるだけだ。
そんな状況下で、女性はにこりと微笑んで言った。
「何しろこれは花嫁さまのため、婚儀前の入念な美容のお時間なのですから」
(……オリヴァーさまの手配して下さったこれは、ひょっとして……)
ドレスを美しく着こなすための施術を受けつつ、リーシェは心の中で考える。
(夢にまで見た、『のんびりごろごろ怠惰な生活』の第一歩なんじゃないかしら……!?)
アルノルトからは何故か時々、「お前はまだその暮らしを諦めていなかったのか?」と尋ねられる。
どうしてそれを訊かれるのかは不可思議だが、リーシェは心から、『のんびりごろごろ怠惰生活』を目指しているのだ。




