171
改稿するかもです。
カイは念を発した。
その《神眼》には、王に降り注いでいる虹色に淡く輝く光のような何かが映し出されている。それが谷の神様の特効により可視化された神々の神力なのか……はたまた上位次元からもたらされる何らかの干渉力なのかは分からない。恩寵という得体のしれない力の正体がそれだというのなら、そういうことなのだと納得するしかないのだが。
それらが目に見えているということはすなわちカイ自身もまた高次元のそれへと……感覚だけとはいえ遷移させつつある証左なのだが、むろん本人に自覚はない。
(観客どもを引き離す)
まずは前提を崩す。
事象の改変を強要している『観測者』どもの関心を引き剥がすのが最初だ。
観測の対象物を眼前から消し去る。この場合は大黒豚の王を物理的に舞台から追い落とすのが正しいのだろうが、他ごとで手の離せないカイにはそれができない。
ならば手段は限られる。
(目くらましとかどうだ)
すでにくぼ地の上空はカイの思念に支配されている。
一個人の霊力ではやはり希薄化は否めないものの、そこにある大気成分すべてに作用をもたらしているカイの霊力は、そのまま感覚器官のように占めている領域を感じ取ることができる。
それなりのイメージがあるのならば、いま少しぐらいの現実のすり替えも可能かと思う。
水蒸気で雲を発生させる? そんな程度で神様に対抗できるのか?
(いやいや、そんな程度では神様相手には効かない)
そもそも屋根の落ちた後の深部の濃霧だって同じ水蒸気みたいなものだ。それをものともせず降りてきている神々に目くらましが効くわけがない。
一瞬、よくわからない『電子欺瞞紙』という単語が頭に浮かぶが、レーダー妨害だなんだと内容が湧き上がる前に振り払う。いきなり何もない空間に『アルミ片』を創造して撒布とか魔法でも可能とは思えない。
さらに目まぐるしく思案する。例えば砂嵐。あるいは不完全燃焼を使った煙幕。屋根を支えていなければ一考の余地もあったけれど却下。
そんななかに『EMP』という知識が飛び出して、紐づいた知識連鎖の中に『核』を用いた電磁パルス云々と続いたことで総毛立つ。
核ってなんだ?
意味を吟味する間にも後追いでおぞましい映像記憶が追加されて、舌の根が干上がった。これはさすがにあんまりだろう。
思わず降臨中の神々を見上げて、その中心で最悪の熱核兵器が爆発する様を想像してしまう。確かに想像を絶する光景になるだろうけれども……おそらく何の痛痒も感じてもらえないまま失敗するさまが思い浮かんだ。
圧倒的な破壊力はあるのだろうけど、多分違うのだ。この世界の神々ははっきりと現実世界以上……三次元を上回る高次元に属するものたちである。とてつもない力とはいえ物質から取り出しただけの核エネルギーは、しょせんは低次元に属する単純な作用のひとつでしかない……そんな結論にたどり着きそうな予感がする。
冷静になれ。
やれる範囲、手の届く範囲のことで現状を変えるしかない。
そのときふと思いついたことがある。
(あの神々からオレたちはどういうふうに見えている)
神の目線を想像する。
普段は空高い場所にある被膜に張り付いて、水族館の魚を覗き見る観光客のような様子をしている。群がりはするが、好奇心が満たされれば離れていくような程度の執着しか彼らは持たない。
それが今回はどうだ。屋根が落ちて地表そのものにまで外の世界が接近した。水族館の水槽に事故で穴が開いたのだ。手を伸ばせば珍しい魚にじかに触れられる。分別のない子供のような外神たちが目を輝かせて群がり寄るのはわかる。
その彼らが手を伸ばすのはむろん世界の穴……守りの薄くなった穴からだ。
(その穴ってなんだ)
世界を守る創世神の被膜は半実体のようなものがあり、現にカイが魔法で持ち上げている。これがいわゆる水槽のガラスに相当するもの。
穴といっても実際に破けているわけじゃない。その膜に破孔らしきものはないものの、神々はそうすれば獲物にありつけると分かっていて群がってきている。穴はないのに、隙は開いているのだ。
そういえば冬至の宴の時、ネヴィンが外神を呼び寄せて落としたことがある。一部とはいえ外の神を透過させることもあるという紛れもない事例だ。
(天網恢恢…)
なんとなく口をついた言葉。
天網恢恢、疎にして漏らさず。前世のおのれが知る古い国の言葉らしい。
網……そうか網か。
編み込みが密ならば水さえも漏らさない布がある。しかしその編み込みを意図的に緩めれば、それは水を通し魚だけを生け捕る漁具ともなる。
目には見えないが守りの被膜とは『網』なのだ。
そういうことか。
(そうだ、創世神様の守りはまさに網のようなもの)
ネヴィンのものなのか、声が届く。
先達たちの首肯する雰囲気が伝わってくる。
旧世界でもそのあたりにまでは知識が達していたのだろう。冬至の宴の時も、ネヴィンはきっと裏技のような『呪』で網の目をごまかし、神を降ろしたのだ。
そして沁み込んでくる。
先達守護者らの企図する《会崩し》なる護法の全容が。
天網にもっとも接する土地神の屋根柱……各々が要所に陣取って、『呪』による天網への干渉を行うのが彼らの伝える護法の要。天網の網目は土地神の神力を引き出すことで外部操作が可能なのだ。状況の出口が見えたことでカイは気持ちを奮い立たせた。
天網の網目を操作する方法は思いつかない。イメージでどうにかなる魔法をもってしても、神そのものが作り出した世界装置である天網を簡単に操作はできないようで、羽衣のような心もとない感触が意識の先から軽やかに逃げていく。先達らの意識からも、干渉は神の力を借りてと伝わってくる。
生き物に内在する霊力。
土地神がもたらすのは神力。
その神力は加護持ちという現地生物の内部で霊力に置換される。
似ているようで異なるその二つの見えない力は、この世界では神力が上位のものとなるようだ。
そのときカイはあるイメージを持つ。
守りの被膜は確実に外神たちにも有効で疎外効果がある。それは実証済みの事実である。
網目の広がり切った使い物にならない漁網を想像して、カイはあきらめ悪く被膜の底側を意識の手指で撫でまわした。そのもののありようを掴めはしないものの、《神眼》により力を籠めることで突起物? 糸の結び目のようなこぶが一定間隔で広がっていることをうっすらと感じられるようになる。
天網の結び目?
それともそういう不可視の造形物なのか。
カイはしつこくそれを掴もうとして、試行錯誤の末に疑似神力というまどろっこしい『魔法』を編み出すのに成功する。神力ならば干渉できる、ならばそいつを創り出せばいい。神様から降されて霊力へと一次変化した力を、わざわざ手間をかけて再び神力へと変換し直すようなものである。むろん非常に効率が悪く、『もどき』な力を帯びる程度にしか引き出せなかった。
だがこの天網への干渉というハードルを越えるのには十分だったようだ。
カイの意識が『天網』を把握した。
一度理解すれば力は馴染んでいく。たとえわずかな神力だとて帯びさえすれば、それは磁石のように天網へと吸い付いた。やれると踏んだカイは躊躇せず、天網を一度に何方向からも、巻き網のごとく思い切り引き寄せた。
どれだけ網目の粗い網だったとしても、束ねてからげれば小魚さえ掛かるかもしれない厄介な糸の絡まりとなる。いったん竜巻の維持をおろそかにする覚悟で傾注し、めくらめっぽうにそこいらじゅうの網を引き寄せていく。むろん集める中心は大黒豚の王の頭上である。
外神への疎外効果のある天網を無茶苦茶に絡ませたらどう見える?
完全に見えなくなることはないにしてもうっとうしいのは確かだ。見えにくくなった大黒豚の王に注がれていた虹色の光が、目に見えて薄らいでいく。劇場の『緞帳』ほどではないものの、神々の興を削ぐにはそれで十分だったのだろう。
恩寵が注がれなくなり、光が陰ったように感じたのだろう、首をもたげたウルバンが天を見上げた。女王ゼイエナもまた異変に気付いて伺うように上を振り仰いだ。
「いまだ! 女王!」
頭上の嵐が見る間に勢いを衰えさせていく。カイが魔法を放り出したせいだ。
しかしいまは地上のどうしようもない問題を解決せねばならない。
寄せ集めた天網もカイが手を離せばとたんに広がって元の状態に戻ってしまうだろう。神々の降臨を早めてしまうがこれはもう優先順位だというほかない。
カイの叫びに応じた女王ゼイエナは、守勢から攻勢へと一気に転じた。巨大な拳の叩きつけをかわしつつ、試すように王笏を指の間に突き入れる。
真っ黒な血がしぶいた。
続く大黒豚の王の悲鳴。
虫に嚙まれた子供が泣き叫ぶように地団太を踏むその体から、あの得体のしれぬ黒い靄が消え去っている。
「疎たれ!」
ウルバンが即座に例の『呪』を放った。
足元を狙ったらしいその『呪』は、肉体にではなく踏みしめる土の大地に作用をもたらした。進化の果てに常軌を逸した域にまで巨大化していた大黒豚は、その自身の余りに過大すぎる重量によって砂だまりに足をめり込ませることとなる。
その大黒豚の成れの果ては、揺り籠の夢から覚めるやいなや、過保護なまでに与えられてきたいびつな進化の代償を一気に求められたのだ。
体勢を崩しても、王はそれを支えられるだけの必要十分の筋肉を持たなかった。長く伸びた腕は大きくなり過ぎた拳を器用には動かせなかった。
なによりその生き物は骨格が支え得る肉体の物理的最大量を大きく超えてしまっていた。尻もちをつくなり骨盤が砕け、さらに連結する骨格が次々に折れ砕けた。内部の骨組みを失った大量の肉塊が、地面にぶつかるなり津波のように波打って弾んだ。
女王はおのれの武器を数度振り回し、それらが確実に大黒豚を痛めつけうると確信して、雄叫びを上げた。王笏を振り上げて叫ぶ女王に、万を超える眷属たちが歓呼した。種族の王神が踏み出す一歩一歩に彼らの祈りが唱和される。神々よ寿ぎたまえと無心する。
全身の骨が砕かれたとはいえ大黒豚の王の皮膚はやはり加護持ちの強さを持っている。王笏によって切り裂かれた傷は、深手でなければ煙を上げながらみるみるとふさがっていく。
女王はすぐに理解すると、肉の山のごとき大黒豚の王の腹の上に這い上がった。そして嗜虐的にぶら下げた王笏を引きずりながら、薄く浅く腹の皮膚を切り裂いていく。
痛みに腹肉が揺れ動く。だがその身じろぎで内なる骨折の痛みが励起されたのだろう、雄叫びとも絶叫ともつかぬ咆哮が口から放たれる。同時にまき散らされた臭い涎にわずかに表情をゆがめた女王であったが、迷わずその口元へと近づいていく。
「女王!」
「うるさいぞ谷の守護者!」
力のこもった応え。
そして女王ゼイエナは、王笏を振り下ろしたのであった。




