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やや時は巻き戻る。
新参眷属らの土地を取り戻すべく発った谷の王とその軍勢……そのあとを追って出立した一団がある。
谷の王の妻のひとりにして鹿人族の女長ニルンと、背格好に差のあるふたりの人族……ノール坊、ホズル坊ら僧侶たちである。
ニルンは鹿人族ならではの伸びやかな脚力で、森の中を風のごとく駆け抜けていく。種族の特性を十全に発揮することでその横顔には自然と笑みがこぼれている。そしてちらりと、後続をうかがい見る。
驚くべきことに鹿人族の疾駆に、鈍重な部類とされる人族がついてくる。その面に『二齢』の神紋を浮かび上がらせた彼らが、普通の人族とは言い難い存在であることは紛れもないが、加護ならば族長たるニルンも同じ『二齢』のそれを備えている。
神の加護に差はあまりないうえは、もって生まれた種族特性がものをいうべきで、その格差を突き付けるべくさらに加速したニルンは、徐々にだがふたりの僧侶らを引き離し始めた。
「ご夫人! 待たれよ!」
「あらら、もう負けを認めるですか」
むろんそれは子供の駆けっこのごとき遊び半分の力比べであり、差を見せ付けることが終ればニルンのなかの欲求も霧散する。すぐにニルンは駆ける足を緩めた。
今世一等と自賛する高い知性を備える人族も、身体能力においては多くの亜人種に後れを取るしかないのが現実であり、「負けた負けた」と素直に頭を掻いて負けを認めてみせるノール坊のやりようは、気位の高い人族にしてはごく珍しいものだった。
だが並んでいた大柄痩躯のホズル坊のほうは、そう分別よくもなかったようだ。よーいどんとばかりに大人気なく加速した。同僚のたしなめる声など聞く耳も持たない。にわかに先頭に立ったホズルの背中を見て、不敵にほほ笑んだニルンは即座に追撃を開始する。
それからホズル坊の意地が保たれたのはわずかに数呼吸ほどの間のことだったろう。またすぐにニルンに追い抜かれて、そのあとは惰性のように走り続けた。
先を行く軍勢の残した足跡はそう簡単に消えるものではない。迷うことなく彼らは谷の国の本来の国境、新規参入種族との合流地点も早々と駆け抜けた。わずか数刻ほど前までは、そこから先の支配が不分明で霧に沈んでいたことなど思いもよらない。
出発してから30ユルドほども北上したころであろうか、3人は谷の国の一部となった大耳族の村へとたどり着き、居残りの兵士らから話を聞きつつの小休憩となった。
邑には守り手として眷属混成の20ほどの兵士らが、土地神の墓所を守るようにたむろしていた。邑奥のほうを注視していた兵士らは、後ろから声をかけられて、一瞬ぎょっとしたようにこちらを振り返った。
「ごくろうです」
「鹿人の女長!」
「第3夫人さま!」
見知ったニルンの姿に緊張を緩めるも、すぐにその後ろに続く得体の知れぬ禿頭の人族を見つけて、無言で武器が構え直される。
「待つです。許可して連れて来た方々です」
そこにいる谷の国の眷属らを見回して、もれなく生存競争に敗れただろう小族と見て取ったふたりの人族僧……歳かさのノール坊は静かに目を細め、ホズル坊は不満げに鼻を鳴らした。とくにホズル坊の洩らした「雑魚ぞろいか」の嘲弄が届いてしまうと、ひといくさを終えて気が立っている兵士たちが色めき立った。
それをニルンはさっと押し止める。
神紋を浮かばせた王の側妃の厳しい風情に、意気を飲まれた兵士たちは素直に直立不動となった。
「王はどちらに向ったです」
兵士の何人かか、身振り手振りで邑の奥のほうを示した。
先ほどまで彼らが見つめていた場所であり、兵の中に混ざっていた同じ鹿人族のものが、喋り易い同族語でニルンに詳しく伝えた。
王様は、豚人族の開いた道を辿ってこの先の棘狸族の邑へと向った。1刻ほど前のことらしい。
もうさほど距離は離れていないと分かって、ニルンは人族僧らに目配せで問うた。彼らにも異存はなく、邑の泉で少しばかり喉を潤したのちに邑を立つことになった。
遠目にも見えていたことだが、この拓かれたばかりの新道にはいまも多くの豚人族が列を成して歩いている。大耳族の土地は谷の国が支配したものの、その領内を通る大勢の豚人たちを廃除するには、居残りの兵士たちだけではとうてい戦力が足りなかったろう。カイ王からも、土地神の墓所の周りを守っていればいいと言いつけられているようだ。
ならば数で圧倒する貪欲な豚人たちが、邑でもっと好き勝手に振舞っていてもよさそうなのだが、そちらもまたずいぶんとおとなしい。おそらくは先を行く谷の国の王の武威が彼らを畏れさせてのことなのだろうとニルンにはなぜだか分かった気になっていた。
「なんだこの豚どもは」
「この道はもしや辺土に向っているのか……まずいぞ、あれらを放っておいてはいずれ辺土が豚どもで埋まってしまう」
人族と豚人族は長年の仇敵同士である。
追い詰められた難民たちだとはいえ同じ道行きで鉢合わせすれば、自然と湧き上がるのは相手への憎悪である。道行く豚人族らが人族を見つけ、足を止めることで数が膨れ上がっていく。しかも多勢に無勢、場に異様な熱が生まれ始める。
人族僧らも、神紋を浮かべて臨戦態勢である。
そのふたりの前に立つ鹿人族、ニルンが意識的に手を叩いた。『拍呪』と呼ばれる、『加護持ち』なら子供の頃に教えられることもある祭祀の魔法で、ぱぁんと驚くような大音が鳴った。
効果はてきめん、敵意むき出しになっていた両者が目を見開いて固まった。
「この邑は谷の国の土地です! わたしは谷の王カイが妻ニルン! 王の目こぼしで通り過ぎるのみのおまえたちにそれ以上の勝手は許さないです!」
びりびりと腹の底にまで響いた声音は、聞くものたちをさらに瞠目させた。
本願地の邑までも追われた弱き種族たる鹿人族、その伝来の神を継いだ長であるといえど、ここまでの威圧を相手に与えるのは困難である。だが、現実にはニルンの一喝は居合わせたものたちの魂を揺らした。
谷の国の中において、芯柱たる王はもとより、その神群の礎となる『社稷』の最上段に名を連ねられる妃らは、集められる帰依の余禄に大いに預かとっている。
ニルンの眼差しを畏れて集まっていた豚人たちは路肩へと逃げ出した。
「行くです」
促されて、唖然としていたふたりの人族僧も再起動する。
ふたりの目からはもはや侮りの色は消えていた。そんな眼差しを浴びているのにも気付かず、ニルンはその毛深い腕をしきりにさすりながら、「『王様の影名』が効いてよかったです」と身を震わせている。自身の放った威がいかほどのものであったか自覚もないらしい。
大耳族の邑を出てからは、景色が一変して離れるほどに霧が濃くなっていく。深部の霧に多少は慣れているニルンはそれほどでもないが、人族僧らの足はてきめんに遅くなった。
カイの身にも生じたことだが、ニルンの身体の回りにも、わずかだが屋根の力が働いているようで、肌をぬらす水滴が極端に少ない。足取りもおぼつかなくなったノールたちに片腕を差し出し、手を繋いで歩くようにする。
しばらくして3人はそれぞれに状況に慣れ始める。
『加護持ち』ならではの適応の仕方というのだろうか、そのうちに当てにならぬ視覚ではなく、加護に根ざす直観力を研ぎ澄ませて移動するようになったのだ。
ニルンは鼻先を揺らして何かの匂いを追うようにし、夫の気配をすぐに手繰り寄せた。異様な景観に惑っていた僧たちもまた調息により心を鎮め、それぞれのやり方で目に見えぬものへの対処を開始した。
なかでも《百眼》の技に長けたノール坊は、身体の持ち運びを仲間に任せ、数十ユル四方の索敵までこなすようになった。
行動の自由度の高まった3人は、すぐに豚人の新道から距離を置くようになった。次から次へと通りかかる豚人難民に嫌気したのもそうだが、ときおり頭上から襲い掛かってくるおぞましい気配……『穢神』の襲撃が新道沿いに頻発するからだった。『穢神』という存在は知らねども、それが一個の人の手には余る強大すぎる相手であるということだけは理解していた。
そうして新道に付かず離れつ、目的地を目指していた3人であったが。
「気配がある」
背に負ったノール坊のつぶやきにホズル坊が気づき、すぐに先頭のニルンへと伝えられる。
歩くほどに暗さを増しつつあった乳白の世界が、前方に明るさを示し始めた頃合いだった。その行く手の明るさを、目的地である棘狸族の邑のそれだと当たりをつけていた3人は、いよいよ慎重になって踏み分け路を選んだ。
「右に10、左奥に8」
世界が明るさを取り戻していく。
まるで深い海の底から戻ってきたような安堵が心の中に広がっていく。
霧が薄くなり、バレン杉の木々の間からその先の景色……棘狸族の本願地たる邑の様子も見え始めていた。
3人は倒木の陰に潜みつつ、邑を見、周囲に隠れ潜んでいるなにがしかの存在を見つけようとした。ややしてその一方、右手に潜むものたちの姿を発見する。
「あれは……白牛人!」
ニルンがほとんど押し殺した声で叫んだ。
亜人世界西方に住む狂猛な種族だった。
その体毛の白さを生かして巧みに霧にまぎれている。側頭に巻いた雄大な巻き角が特徴的な巨体の種族……豚人族相手にすら五分以上に押し込むという突進力を髣髴とさせるごつく盛り上がった額が傷だらけの個体が多い。
そんなものたちが、まるで息を殺すように物陰に潜んで何かを見つめている。
「あっちにおるのは一角どもだ」
左手に見つけたのはまた別の種族のようだった。
白牛人に似ているもののその体皮は鎧のように分厚く、突き出た鼻面に巨大な角がすらりと天を衝いている。
このふたつの種族だけではない。霧の巻く森の中にはさらに多くの亜人種たちが潜んでいる気配がある。それぞれがそれぞれの姿を見つけているだろうに、声を立てることもなく知らぬ顔を決めている。
おそらく争うことが目的ではないからだ。
ニルンたちもまたそうした隣人たちへの関心をいつまでも維持できず、視線を戻した後は森向うの邑の様子に目を釘付けにしている。ニルンは愛する夫の姿を必死に追っている。
「…なぜ北原の亜人どもまで集まってきている」
「いまは前を見よ」
「背をがら空きにしたままで…」
「いいから、目を凝らせ」
《百眼》を使い続けているノール坊が、ホズルの肩越しに腕を伸ばし、空を指し示す。
魔法の目であればこそそれはよく見えた。
ホズル坊は空を仰ぎ……そして畏れるように前屈みに顔を覆ったのだった。




