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2021/05/06改稿
州都バルタヴィアの中は、想像以上にひどいありさまとなっていた。
北方辺土最大の都市とはいえその収容能力にはやはり限界がある。国土としての辺土は統合王国の半分にも等しい広大な領域を占めるものの、人口においてはおそらく10分の1もあるかなしかであったろう。
州都の人口は通常1万人ほどと伝え聞くが、そこに短期間に数倍する難民が押し寄せれば、いろいろなものが破綻するのは目に見えていた。
路上にもあふれる難民たちを避けながら、フローリス一行は町の中心にある丘……州城へと登ったのだった。
(前に来たのが、もうずいぶんと昔だったような気がするわ…)
にわかにもたげた気鬱にため息をつく。
辺土伯家の縁者のような主張をして便宜を得たのであるから、衛士のひとりが案内に立って先導が始まってしまったことに文句を言う筋合いもない。
州城に上がると分かってフローリスは馬車の中で急ぎ身だしなみを整えた。男が戦地で武器を磨くように、女はいつだれの目に触れてもよいように身だしなみに全力を傾注せねばならない。貴族の女ならばなおさらだった。
果たしてアーシェナ様は、わたくしを見てどのようなことをおっしゃるのだろうか。先回の別れ際には、分別のない子供のようなその人柄に、だいぶ冷めた目で突き放してしまったのだけれども、いま思えば貸し札のひとつでも掛けておくべきだったと後悔もしている。僧院の星読み坊主ではあるまいし、未来のことなど誰にも分かることではないというのに。
「あなたに頼るしかできなくてごめんなさい。頑張って、フロー」
「…心配しないでお母さま。フローがきっと何とかして見せます。あれだけ残念がられたのですから、まだ目はあると思うわ」
破談が決まった時は、辺土などに嫁がなくて正解だわと理解を示した母なのだけれども、もうその時の記憶はよいように脳内改ざんされているのだろう。ざわめく気持ちを落ち着けながら、深呼吸をする。
まさかあれから数か月の後に実家が……王都の上流社会では押しも押されぬ有力貴族であったヴァルマ家が、まさか流民のごとく路頭に迷う羽目に陥るなどとは神様だって想像もできなかったろう。しかもまだ小娘にしか過ぎないおのれの肩に、そのお家の存亡がのしかかるとはどんな冗談なのか。
一進一退を続けていたはずの南方の混乱が、ついに堰を切ったように大波となって人央へと押し寄せ、人々の暮らしと一緒に彼女の人生設計もろともすべてを飲み込んでしまった。
憎悪に駆られた異形たちは、人族と見れば老人赤子見境なく踏みつぶし引き裂くと噂が流れ、恐れおののいた貴族たちは破船を見捨てるネズミのごとく我先に逃げ出した。
ヴァルマ伯公家はまだましな部類だった。領が王都よりも辺土に近い北寄りにあったため、家族ばかりかそれなりの家財までをも持ち出すことができたのだから。
父上は股肱の家臣たちとともに領都に残った。
一緒に逃げましょうと子供たちにすがられても、父上は首を縦に振りはしなかった。
当たり前だ、ヴァルマ家当主が継いできた本尊神の墓所は、領都の中心にあるのだ。逃げても呪い殺されるのならば力の続く限り戦うしかなかった。
その父上たちの戦いの行く末も知らぬまま、生き延びるを得たこの命を、無駄にするわけにはいかない。
そうこうするうちにとうとう州城の門へと至っていた。
「中に伝えてまいりますので、ここでしばしお待ちください」
案内役の衛士が恭しく話しかけるのは、ともに足で歩く家宰のセドンである。
それを聞き届けてからセドンは馬車の中へと内容を伝えてくる。
郎党の最上位者はむろん母なのだけれども、本人にはそうしたことを背負おうという気概はひとかけらもない。頷くだけでそういう責任の重い事柄は娘に言ってくれと視線を投げてくる。
いきおいセドン含めた郎党たちの期待の目はフローリスに注がれてくる。
案内の男が戻ってきた。
「公子様はいま一ノ宮の霊廟におられるそうです」
「ではそこへ参りましよう」
自分で言い出しておいて、やや腰がひけているのは失礼な話ではあったけれども、フローリスたちは馬車を降りた。ここから先は彼女とその家族のみが進むことができる。案内役は入れ替わり、より身分のありそうな伯家の用人が先導となった。
3つの城館が並ぶ州城のある丘はそれなりに高低差があり、一番上の建物となると結構な距離歩かねばならない。自然と汗もにじみ出てくるが、北方の冷ややかな風がそれらを拭い去ってくれる。一ノ宮の城館前の広場に差し掛かった時には、あのときの『悪神』討伐騒ぎの光景がまざまざと脳裏によみがえった。強大な敵に抗い躍動するあの少年の姿がまるで今見ているかのように思い出されてくる。ついに名前さえ聞きそびれてしまったのだけれども、たしかもう一人の花嫁候補のジョゼ様が「カイ」と呼んでいたように覚えている。
ラグ村のカイ。
その辺の男よりもよほど小さいのに、とても強い男だった。
『守護者』だのなんだのはよく分からなかったが、なよなよした夫候補に幻滅していただけにやたらと頼もしく……こちらこそが真に天の与えた縁ではないかとさえその時は思ったものだった。
あの少年は今、村に戻っているのだろうか。
それならばきっと、あのあと同じように破談したというジョゼ様とねんごろになっていてもおかしくはない。本人たちが動かなくても親の領主がそもそもあのような強い神憑きを放ってなどおかないだろう。
(カイ…)
ちくりとした痛みを覚えつつ、案内の男に促されて大きな鉄の門扉の前に立った。衛士とのやり取りの後に、入り口が開かれる。ヴァルマ家一家は一ノ宮内部の大霊廟へと足を踏み入れていた。
フローリスは暗がりの中でもわかる厳かな大空間を見やって、ほう、と息をついた。そこに広がる景色もまた彼女のいろいろな記憶を励起した。
遥かに高い天井も、重々しく釣り下がった鉄輪のシャンデリアも……最奥に立ち並ぶ恐ろしげな立像も……なにもかもが生々しく記憶のままにある。
そうして大霊廟に入ってややも進まぬうちに、暗がりの中に潜む大勢の人々がぶしつけな視線を向けてくることに気づいた。壁際に居並んでいる大勢の兵士たちがもの言わず目を向けてくる。お仕着せの姿が整っていることから、それらが辺土伯家の正規兵であるのだろうと思った。
案内役はそこで役人のひとりに何事かを言伝て、役目を果たした晴れやかな顔でフローリスに会釈して去っていった。
「ヴァルマ伯公様の…」
そこでようやくフローリスたちの立場に真の意味でふさわしい扱いを受けることとなる。
役人は第6公子アーシェナとヴァルマ家の姫の婚儀が不調のままに終わったことを知っており、いぶかしむような眼差しが向けられてくる。その口が否定的な言葉を吐き始める前に、フローリスは強引に前へと歩き始めた。
家族も無言でついてくる。
「お待ちを」
そう言われても立ち止まるわけにはいかない。この辺土伯家の居城で彼女たちが居場所を得る機会はおそらく今を逃したら永遠に訪れない。それが分かっているからこそ止まらない。
大霊廟の中は大勢の人いきれに満ちていた。
すぐに前方で溜まった人の背中にぶつかっても、かたくなに歩き続けるフローリスは止まることなどしない。顔をしかめつつもその中に強引に割り込んでいく。全員身なりの良いその人だかりは、フローリスと同じ貴族の者たちであると知れた。
境遇を共にする中央からの避難貴族か、それとも呼び集められた辺土伯家に連なる者たちであるのか。人混みを抜けていく間に聞こえた会話から、彼らは何者かの指示でこの大霊廟に集められているらしいのが分かった。
と、フローリスの体が人混みの隘路から何もない空間へと放り出された。
よろめきつつも態勢を整えた彼女がそこに見出したのは、剣呑な輝きにぬらりと光る剣林……憑神兵らの捧げるように構えた剣と槍の列だった。
それらに守られた背後には、明らかに高位と思われる者たちがいて、その頭上にある祭壇には、豪奢な敷物の上に安置された石櫃が見える。
彼女が忘れるはずもない、あの祭壇はおのれを生きながらにして地の底へと落としめた忌まわしい仕組みが隠されていた場所だ。心の傷を刺激されて全身に鳥肌が立った。
祭壇の直下には、大勢の貴顕に傅かれた男がひとり、仰々しい椅子にふんぞり返っていた。
ひじ掛けに頬杖をついて、何やら物思いにふけっているようなその男の顔に、フローリスは覚えがあった。
(王太子…)
聖クシャルの血族の中で、もっとも王神の後継に近い男。
クシャル・ハル・ハラム・レムルス。
王太子レムルスのそばに立ち、何事かを語り掛けている白衣の僧は、おそらくは『大僧院』上層、それも『僧会』に席を持つ高僧のひとりであるのだろう。首が疲れるのではないかと心配になるほどに重たそうな、大ぶりの宝石を埋め込んだいわれのありそうな金銀の法具を首に垂らしている。
こちらの高僧にも護衛らしきものはついている。そのひとりに、あの婚礼式にも同席した権僧都セルーガの姿もあったのだが、彼女は気づかない。
「どういうことだ。殿下はなぜこちらに…」
不安げな声がして、その元をたどればそこには見覚えのある男がいた。
辺土伯家の長兄、第1公子アドルである。
「…部屋に留めおけと命じたはずだが」
「弟君方の差配があったようで」
「…イェルグ、いやウルガの仕業か」
「おそらくは…」
まわりには聴き取れぬ小声で側近らを走らせつつ、自身は王太子の方へと近づいていく。
ひところは次代の辺土伯公に最も近いとされた男であったが、衆目の前で父殺しをなしたこの男はいまだに家中をまとめきれないでいるらしい。やり口も気に入らないが、それ以上に運のない男だとも思う。王宮の一角を牛耳る名門閥、スニール大公家の出である母親の神通力も、人央が沈んだいまとなっては帰って足を引っ張られかねない重しにもなっているのだろう。
「まずいですよ、兄上。見事に中央組に先手を打たれました」
「…アーシェナ」
その第1公子の横に、やや背の低い少年が姿を現した。
その見覚えのある立ち姿に思わず駆けだしそうになって、フローリスは必死におのれを押しとどめた。頼るべき唯一の蜘蛛の糸。
第6公子アーシェナ。
別れた時からあまり変わってはいない。女にだらしがないこと以外、普通にしていればそれなりに顔形の整った年相応の貴公子にも見える。
フローリスは、おのれのそんな現金な感想に苦笑いしつつも、身だしなみの最終チェックを手早く行った。
むろんおのれを安売りすべきではないことは分かっている。簡単に身なりを整えて、さも自然に、たまたまそこに居合わせた事情に通じない貴族家の姫君を装うことにする。すましていればおのれがそれなりに人目を引く容姿を持っていることも知っている。
鮮やかな赤色のドレスが目に付いたのだろう、根が分別のない好色な子供であるアーシェナは、すぐにフローリスの存在に気が付いた。
「そこのひと」
話しかけられて、ようやくフローリスは相手の方に目をやり、さも驚いたという風に目を丸くして見せた。
この辺りは慎重に身の処し方を計算せねばならない。先回の別れ際の記憶をかき集めながら、一瞬の気まずげな顔を演出し、申し訳程度の会釈をしつつゆっくりとその場を離れようとする。
気に入った女が逃げようとすれば、男は追いたくなるもの。
アーシェナの方から彼女を捕まえさせて、縁を再び繋ごうという気にさせるのがこの際は都合がよい。
案の上アーシェナは、アドルとの会話もそっちのけでフローリスを追い、そして腕を捕まえてきた。その瞬間少しだけビクッとして見せるのも手管だろう。
振り返りつつ上目遣いに相手の瞳を見返して、口ごもりつつも改めて再会のあいさつをする。
アーシェナは手もなく食いついてきた。
ようやく最初の関門を突破したことに内心安堵しつつ、フローリスはちらりとアドルの方を見た。女慣れしたあちらの方は、多少見透かしてもいたのだろう、鼻を鳴らして軽く睨むと、すぐに関心をなくしたようにまた王太子殿下の方に目を向けた。
実際アーシェナを釣り上げる必要がなければ、彼女も目の前の異様な事態に全力で集中していたことだろう。恥ずかしくて目も合わせられないというていでアーシェナを見、また乙女ぶって目をそらして……本当に興味のある王太子の方をちら見した。
こんなことをしている場合ではないと分かってはいても、背に腹は代えられない。腕を取られたと思ったら、そのまま抱き寄せられてしまった。本当に時と場所をわきまえない色ボケ公子である。
レムルスは僧正の方に何度か頷いて、椅子から立ち上がった。
そして周囲の貴族たちを見渡すようにして、口を開いたのだった。
「聞け諸卿!」
よく響く声が大霊廟に満ちたざわめきを切り捨てた。
レムルスは腰に佩いた剣をすらりと抜き放った。




