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2021/05/06改稿
空が落ちてきた。
その恐るべき天変地異は、人族の中心たる王都に近いほどに激烈に顕れた。
突如の颶風は逃げ延びようとする人々をもつれた糸玉のようにくしゃくしゃと吹き散らし、家財を載せた荷車を玩具のように突き倒した。
地揺れが乾いた大地を引き裂いた。
砂楼のごとく城壁は打ち砕かれ、百年の並木がなぎ倒された。
一瞬にして地表を覆った砂埃が人々の阿鼻叫喚を、幼子の哀訴を飲み込んだ。巷に満ちる救いを求める声にどれだけの者が動き出しえたのか。
神よお救いください。
祖霊よ、始まりの偉大なる王よ。
どうか人族をお守りください。
彼らを守るべき『加護持ち』の多くはすでに討たれ、土地を追われた者たちはこの世界が持つ峻烈なまでの厳しさに無防備にさらされている。彼らはもはや奇跡を祈ることしかできなかった。
風に舞い上がった砂塵が、もうもうと世界に帳する。
世界でも有数であったに違いない人族の繁栄を映したような人央の地の美しい景色が、その時を境に永久に失われてしまったのであるが、その無残な現実を理解しない者がこのときはまだ大半であったろう。
しばらくして砂塵が収まった後も、人々の視界が開けることはなかった。
砂の帳に成り代わるようにして、世界はうっすらと湧き立った白い霧に覆われていたのである。
「姫様、ご無事で…」
気遣ってくれる家宰を見上げて、少女は体中についた砂を払いながら苦笑いした。口内に入り込んだ砂を吐き出して、さっと袖でぬぐって立ち上がる。
「あんまり……無事ではないわね」
城を出る前によく脂を梳かし込んで編んだ髪の毛が、すっかりとほつれて砂まみれになってしまっている。
転んだ時に服の袖も破いてしまった。外歩きの時に気に入って着ていた上掛けだったのに、見るも無残な有様になっている。そもそも街歩き程度を想定したやわな仕立物である。こんな途方もない『遠出』に着てくるべきものではなかったのだけれども、彼女の持ち合わせには他に荒使いできそうな服が見当たらなかったのである。
そもそもこれって遠出なのかしら?
我ながら失笑してしまう。
何日も前に生家を捨てて、死に物狂いで何昼夜も歩き続けた彼女の旅程は、そんな軽い言葉で表すべきものなどではなかった。
ヴァルマ・コルサルージュ・フローリス……ヴァルマ伯公家の姫フローリスは、北の地を目指して落ち延びるその途上にあった。
ヴァルマ家の郎党30名余。
母である正夫人アマンダとその娘であるフローリス、妹のフェアリ、弟のハシェスと側仕えたち。家宰のセドンが指図して倒れた荷車を戻させているその他10人ほどの下僕たち。
家財を満載した荷車の進みは遅く、車列もここまでのろのろと進んできた。
気疲れで臥せってしまった母と妹弟でそれほど広くもない馬車はいっぱいである。気丈な質のフローリスは、進みが遅いこともあって自ら率先して歩いていた。家宰はいい顔をしなかったが、馬車が狭いこと、周りを郎党が囲んでいることを理由にフローリスのわがままを見逃してくれていた。
だが砂まみれになった主家の姫の情けない姿に、ついに方針を改めたようだった。
「馬車にお戻りください」
「…わかったわ」
素直に聞き入れたフローリスは、ほかの部分の砂を払いながら馬車へと戻ろうとする。家族が乗るその馬車も、暴風にさらされて路肩に傾いでいて、中で妹が騒いでいるのが見えた。
フローリスが思わずため息をついたその時だった。
「姫様!」
少し慌てたように、後ろに手を引かれた。
いつも落ち着いている家宰が、驚きをあらわにして南の方……ヴァルマ家郎党が歩いてきた後方を見つめていた。その眼が見極めるようにすがめられたのは、薄い霧によって視界が覆われていたからである。
家宰の指示で、郎党たち全員が馬車もろとも路肩に寄り、後ろからやってきた者たちに道を譲った。
ヴァルマ伯公家といえば、中原ではそれなりに名の通った有力貴族家である。その彼らが無条件に道を譲ったのは、迫ってきた者たちがより以上に剣呑な手合いであったからである。
北へと伸びるその街道には、ほかにも無数の難民たちがいる。ヴァルマ家の様子に気づいた者たちはまだ幸運であった。すぐに道を空けなかった者たちは、露払いに現れたいかめしい人馬に槍を振るわれ、容赦なく打擲された。
その特徴的な鎧に僧衣のごとき布飾りをつけた戦士は、禁裏の特別な兵士……憑神兵と呼ばれる者だった。頭巾から顔を隠すように垂らされた紗には、『加護持ち』の隈取を思わせる紋が染め付けられている。
憑神兵。
ということは、そのあとに続いて現れた一団は。
「聖クシャルに連なる方々でありましょう」
聖クシャル。
それは人族国の王を輩出する最も尊き青き血の一族である。いわゆる王族であった。
十数騎の護衛の人馬がだく足で街道を払っていく。
その後ろからは巨大な馬車が……ヴァルマ家のそれが子供に見えるほどの小山のような馬車が走ってくる。いや、それは正確には馬車ですらなかったろう。
車を引いているのは馬ではなく異形の亜人たちであり、それに鞭を当てているのは隈取をあらわにしたいかめしい御者であった。
捕らえた異形種の戦士を家畜とし、馬車を引いて走らせる。それは力あるものの自己顕示であり、王家の威を示すための古い習わしでもあった。
その異様な馬車がフローリスの目の前を通り過ぎていく。家宰や郎党らもただ目を丸くして眺めやるばかりである。難民たちは路肩に逃げ出して平伏している。聖印を切って祈る者も多い。
街道の霧が逆巻いた。
列はなかなか途切れない。王族の旅路もまた、多大な荷物とともに進んでいるようである。その中には多数の僧侶たちに囲まれた異様な引き車もあった。藁を巻きつけたその細長い櫃のような荷は、王都の大僧院に故ある大切な荷であるのか。彼らが通り過ぎる時、ほのかに抹香の匂いが漂った。
都合10台の馬車が通り過ぎ、来た時と同じく騒々しい物音ともに遠ざかっていく。
そうしてその姿が彼方に見えなくなるまで見送った人々は、ようやく平静さを取り戻したようにおのれの旅を再開した。
ヴァルマ家の者たちも、のろのろと動き出した。
薄く霧に覆われた景色は、どこまでも続いている。中天へと差し掛かっていたはずの日差しも、今はぼんやりとした白い光でしかない。
「きっと王がお隠れになったのだわ」
伏せった母が嘆かわしげに吐き出した。
その軽率な発言をフローリスは咎めたが、母は不満をためた子供のように寝入ったふりをし始める。誰もがそう思っていても、口に出したりはしない。口を出た瞬間にそれは言葉の呪いとなって現実になると信じられているのだ。
馬車に空いたわずかな隙間にお尻を据えて、フローリスは窓の外を見た。
白い別世界は、まるで黄泉路へのいざないのようだとぼんやりと思った。
馬車にこもったどうしようもない生活臭……香木を焚いても打ち消せない汗臭さと埃っぽさは、ここまでの一旬巡におよぶ長旅の澱のようなものであった。
窓枠に頬杖をついて、おなかに抱き着いてくる妹と弟の頭を撫ぜる。暑苦しさも、せまっ苦しさも、もはや彼女の心をこそりとも揺らさない。慣れたというよりも、すり減ったのだ。心が。
辺土まで、あとどのくらいかかるのだろうか。
彼女はぼんやりと、自らの道行きを考えた。
人の営みが極端になくなる広い草原に出て、何日か進むと現れてくるのが辺土の玄関口にして中心たる大街、州都バルタヴィアである。
小高い丘の上に瀟洒な城館をいくつも構えた州城は、遠くからでもよく見ることができる。州都の街門前にはあふれんばかりにたむろする難民たちが、勝手に家財を広げて集落を形成しつつある。街に入ることかなわなかった哀れな者たちなのだろう。
その雑然とした広場を新たな難民たちが踏み分けていく。
30余名のヴァルマ伯公家のような貴族はほかにもいるようで、門前に馬車がいくつも止められているのが見える。入市に手間取っているのか、それとも入りきれぬ馬車があふれているだけか。
嫌な予感を覚えつつも、フローリスの馬車もその街門へと寄せた。
と、そこで門の衛士たちが慌てたように詰所から走り出てきて、数人がかりで群衆を散らし始めた。それほど時を置かず、州都側から物々しいいでたちの軍勢が進み出てくる。
「紋章旗は辺土伯様のものです」
馬車のドアを開け、半身を出したフローリスに、家宰が聞かせるようにつぶやいた。数騎の身なりの良い戦士が先導するその一団は、300ほどの集団だった。騎乗するのはおそらくそれなりの地位にある『加護持ち』なのだろう。
集団の中には数人の僧侶も含まれ、彼らは持ち前の健脚を発揮して『加護持ち』らに追随している。人族国において各地を説法して回る僧侶は、五体頑健にして武闘の達人であるという認識がある。王都にある『大僧院』が僧院武術の大本山でもあったから、彼らが辺土伯家の戦いに助勢するのに違和感は抱かなかった。
僧侶たちが行き過ぎてしばらく間延びするように徒歩の兵士らが続き、その最後、しんがりとして続いた『加護持ち』らしき数騎が、別の紋章旗を掲げてフローリスの前を通り過ぎていく。
その掲げられた紋章には、フローリスも馴染みがあった。
「聖王家の家紋…」
「…のようですな」
辺土もいろいろと混乱のただなかにある。
辺土伯家へ輿入れすることになっていたフローリスは、その混乱が始まった瞬間に立ち会ったひとりであった。噂では帰依の連環を失った辺土諸侯の足並みが大いに乱れ、ここにきて化外の民……人族の土地をつけ狙う異形種たちに好き放題の侵入を許してしまっていると聞いている。
おそらくはその尻ぬぐいに辺土伯家も大わらわであるのだろうと思う。
人央からなだれ込む避難民と王侯貴族たちの処置だけでも辺土伯家に多大な負荷がかかっているに違いない。これからそこにお邪魔しようという彼女自身もその負荷を増やす側なので、申し訳なく思いながらもフローリスは家宰に顎をしゃくった。一族郎党を生きながらえさせるためになら、どれだけでも図太くなろうと彼女は腹をくくった。
彼女がそれから馬車を降りて、家宰の制止を振り切って門の衛士のところにまで歩み寄っていったのは、ひとえに集団の意思決定者がおのれしかいないという現実を受け入れたからである。母親のアマンダは周りの人間がすべて良いようにしてくれると頼り切ってまったく動こうともしないのだ。
難民の入市がすでに厳しくなっているのは、門前広場に彼らがあふれていることでも明らかである。そしてある程度は優遇を受けてしかるべきヴァルマ家を含めた貴族たちの馬車も、なかなか手続きが進まずしばらく立ち往生が続いていた。
きっともう貴族を受け入れるだけの余地もあまり残ってはいないのだろう。
このまま待っていても埒はあかない。
フローリスは待ちぼうけで苛立っている先着の貴族家を横目に、衛士のひとりを捕まえて小さく咳払いした。
「早く入りたいのだけど。手続していただけないかしら」
嫣然と微笑む中央貴族の姫君に、衛士が驚いたように居住まいをただした。
横では絶賛口論中の先頭の貴族家がいたが、順番飛ばしなど当然とばかりに涼しい顔で交渉を開始したフローリスに、間の抜けた顔で声を詰まらせている。
「手続きにも順番がございまして…」
「あら、先ほど前に行かれた王家の方々が、もうすでに中に受け入れられているようなのですけど」
「それは尊き方々をお待たせするわけには…」
「…時と場合によっては優先もされるということなのでしょう?」
「…まあ、そうです」
「それならば何も問題ありませんね!」
晴れやかに笑って、フローリスは手を合わせた。
「だってわたくしは貴家の公子様の婚約者のようなものなのですから!」
のようなもの、というあたりを小声で濁しつつ、フローリスはおのれの出自と第6公子アーシェナとのゆかりを主張したのだった。




