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2021/02/05改稿
族祖は地を這い汚い餌を漁る畜生であったと伝わる。
腹に収まるものならばなんだって食い漁る貪欲さと、どれほど苛酷な環境だろうと生き残るしぶとさ、そして殺しても殺しつくせぬ多産さで、ついにその地に君臨した強族を駆逐して彼ら種族は礎をなした。
それが豚人族の興りである。
限られた土地での同族内の生存競争は熾烈を極めた。わずかな食料にありつけるものは常に強者であり、弱者は飢えるか殺されるかして舞台から去っていく。繰り返される淘汰の中で種族の優性は研ぎ澄まされていき、やがて豚人族は類を見ないほどに巨大で力強い身体を持つようになった。
「…土地、飲マレタ」
荒げた呼気が白い煙となって沸き立った。
大戦士フォゴルは氏族の精兵を引き連れ急行したが、間に合わなかった。
北限平原に冠たる豚人族の総力を上げた防衛戦だった。6師に束ねられたる36氏族、3万を下らない軍勢がすべての力を注いで築いた北方の壁が崩された。
崩れたのは6大支族の一の長にして大戦士、六頭将アドゥラカーンを失ったフォス支族に連なる東部閥であった。力衰え、まとまりを欠いた大フォスの跡取りを後見すると誓ったフォゴルは、怒りと恥辱にまみれた顔を紅潮させて、襲い掛かってきた悪しきものたちに大斧を打ち落とした。
「マグドゥーラッ!」
叫びつつ進む。
配下には皆殺せと命じた。
雪原を渡るもの、悪しきものと呼ばれるものたちを土地に定着させてはならなかった。いたるところで横たわる同胞たちの亡骸に、黒い消し炭のようなものどもが群り寄っている。血肉を喰らうことであれらは定着してしまう。そしていたずらにその蚕食を受け入れれば神々の失望を買うだろう。
族祖たちが地を這いまわらねばならなかった太古の混沌が再びやってきてしまう。神々の《攪拌》が始まってしまう。
見渡すだけで、すでに姿形を定かにした大型のものがいくつも見つけられる。
「マグドゥーラッ!」
東方の灰猿人族とのいさかいで、六頭将アドゥラ族長は宿怨ある谷の神とまみえ、激闘の末に惜しくも敗れ去った。土地神は取り戻したものの神髄を奪われた。それによってフォスの地が荒れに荒れ、今年はとほうもない大雪に埋もれた。跡継ぎとなった仔のマグドゥーラは隷下氏族の長どもと変わらぬほどに落ちぶれた神を継ぐ羽目となって、支族閥を押さえ込むのに苦心していた。
アドゥーラとの長き友誼に応えて、フォゴルは遺児マグドゥーラの後見たることを約した。少なくとも閥が落ち着くまでは守りしてやろうと考えていた。
それが、いま。
「マグドゥーラッ」
崩された壁から、黒い影が陸続と侵入を続けている。それはもはや洪水の川のような有様だった。おそらくは狩り尽くされぬままに次波の襲来を受けてしまったのだろう。
フォゴルはおのれの守る壁を副将に任せ、2000の兵を連れて援兵としてやって来た。しかしもう守るべき土地には悪しきものたちが充満しつつあり、その数は万を遥かにしのぐものとなっていた。
逃げ散っていたフォス支族のものたちが、フォゴルの勢を見て集まって来た。まだいくらかは生き残っていた彼らを合わせれば、まだ何とか押し返し得るかもしれない。
ともかく新たな血肉を糧にさせてはならない。
フォゴルの率いるブハラ支族の兵は、敵に付け入る隙を与えまいとみっしりと隙間のない陣を組み前進している。近付いてくる悪しきものどもを盾ではたいて、斧で叩き潰していく。悪しきものは触れただけで呪われる。死者の血肉に群るやつらは率先して蹴散らしていく。生者の命の痕跡は、何ものでもなかった悪しきものたちに魂の寄る辺を与えてしまう。
そうして進むうちに、一体の特に大きな悪しきものを見た。
どれほどの血肉を喰らったのか、それはもはや大戦士たるフォゴルにも比肩しうるほどの巨体を得るに至っていた。フォゴルはその一体に挑みかかった。六頭将の一柱たるブハラ氏族の大戦士、フォゴルの巨体が躍動して、その大斧が一撃で悪しきものの首をはねた。従戦士らが群がってとどめを刺し、その黒い死体の中から丸い何かを手斧で器用に抉り出した。
それは悪しきものの『神石』であったのか。
生まれたての卵のように柔らかかったそれは、地面に落ちてそのまま割れた。中身の固体にすらなっていなかった髄が、しぶきを上げてぬかるんだ地面に飛び散った。
大型の悪しきものがいた場所には、いままで貪られていたのだろう豚人の亡骸が横たわっている。その垣間見えた装具には見覚えがあった。フォス支族の長たるアドゥーラが仔、マグドゥーラの亡骸であった。
いま息の根を止めた大型が、土地神を奪っていたのなら、フォス支族の要たる大神は墓所に還ったはずである。そうでないのだとするならば、それはフォス支族の存亡にも関わる大事となるだろう。
(アドゥーラよ。許せ)
フォゴルは地響きのような胴間声で全軍に命じた。
進め。
そして殺せ、と。
まずは侵入した敵を押し戻し、壁の穴をふさぐことが先決。フォゴルは見た。壁を乗り越えつつある雲霞のごとき黒い影が全身の毛を逆立てる。
そして壁を越えた先に広がる我ら豚人族の地に、1匹、また1匹と、戦闘という熾烈な淘汰を潜り抜けた『悪しきもの』たちが駆け込んでいく。そういう成長個体はたいていいくばくかの知恵を得ていることが多い。
(…この地は、もはやだめかも知れぬ)
ああ、と声にもならぬ叫びが起こった。
内地へ、内地へと『悪しきもの』たちが浸透していく。その光景は水飲み場に糞尿を撒き散らされるがごとき嫌悪感を催した。
フォゴルは苦い想いに顔をしかめながら、目の前に駆け込んできた黒い影へと一撃を繰り出したのだった。
***
豚人族は、亜人世界において冠たる大族であった。
西に白牛人族と覇を競い、東に森の大族灰猿人族を圧迫する彼の種族は、紛れもなく北限平原最強の一角を占めうる力を持っていた。
その大族の主邑ジャラには、冬季であるというのに大量の鉱石と燃料となる木材が忙しく運び込まれ続けている。鉄炉の煙突は盛んに煙を吐き出し、風のない日だと町中が白い排煙に覆われることもままある冶金の大街は、その日も薄雲に覆われたような陰りの中にあった。
街路は近隣から逃げ込みつつある難民たちが溢れていた。
行き来する鉄を載せた荷馬車が立ち往生するほどの人混みに、御者の舌打ちが止まらない。元来体格のよすぎる豚人族が狭い場所にひしめいているのだ、下手をしたら馬車だって圧力で潰されかねなかった。
口論と乱闘がいたるところで起こった。騒ぎがあると近くの工房や家々からのぞき見る影があるものの、たいしたものでないと分かるとそれらはすぐに奥に引っ込んだ。
そんな過密な街路であっても、他者を押しのけて我が物顔で進んでいく者たちもいる。ほとんどが北方戦線からの引き揚げ兵たちだった。荒んだ目をした傷兵たちが武器を突きつけて押し進んでいく。壁際に追いやられた難民の仔やメスが泣き出した。
新たに流れ込んできた引き揚げ組は黙々と進む。彼らは氏族単位で常に行動するため、その先頭にはたいていその長かそれに類する戦士が立っている。むろん『加護持ち』たちである。
悪い噂が広がっていた。
国の東域が、悪しきものたちに侵されたのだという。
勇猛で鳴る豚人族の精兵たちは、ここ何十年来に渡って雪原から這い寄る悪しきものたちをよく退けて来た。よもやその鉄壁の護りが崩されるなどとは、誰も想像さえしていなかった。
主邑ジャラの中心にある王城もまた、静けさとは無縁であった。
豚人王、英雄ブガルは、沈鬱な面持ちで拝跪する者たちに一瞥をくれたあと、その玉座を立った。
長々とした謁見であったが、種族を束ねる王としての決断に変更があるわけではなかった。王はすでにその土地を諦めていた。
「王ッ」
「下ガレ、僭越デアル!」
「ゴ再考! 王陛下!」
額ずくのは土地を失った東域閥の氏族長たちだった。
奮戦もむなしく大規模侵攻に見舞われた6大族がひとつフォス支族は、長年住み慣れてきた土地を失い、そのほとんどが流民と化したのだ。
豚人族は国土の四半を失い、対灰猿人族用として築かれた古い時代の遺構が東部国境となった。地形の険阻な岩山と粗末な防塁が残るだけであった百年前の防塁が、急ぎ修復強化されている。
大フォスの地を挟んで同じく『原種』たちの脅威にさらされることとなったその他東部種族の地にも、防御線を築く動きが活発となっている。豚人族の貪欲と横暴に苦しめられてきた彼らも、まさかこんな形で縁切りになるなど想像もしていなかったに違いない。
『悪しきもの』たちの固有種への昇華にはまだいくばくかの時間がかかるだろう。その間に全力を挙げて種族の力を蓄え、いかな『新種』が誕生しようとも抗えるよう準備する。為政者たる王はそのように考え、それを輔弼する六頭将たちは支持を示した。
大フォスの広大な土地は放棄されたのだ。
フォス支族のもとに束ねられていた6氏族は安住の地を求めて王にすがったが、慈悲は与えられなかった。もともと地味に乏しく、食料に乏しい豚人族の国土に、数千もの難民を抱え込めるほどの余力はどこにもありはしなかったのだ。
棄てられたのだと理解した6氏族は、いくばくかの糧穀を与えられたのみで、主邑から追い立てられることとなった。
彼らは独力をもっておのれたちの生活を立て直さねばならなかった。
北の雪原は言うに及ばず、今では東も『悪しきもの』たちに飲み込まれてしまった。
ならば西かと見渡しても、そこには大豚人族と双璧を成す北限平原の大族、白牛族が威勢を誇っている。敗残のみすぼらしい6氏族が食い込む余地などどこにもなかった。
ならば進むべきはひとつしかなかった。
「森ニ」
「南地へ」
豚人族3000の南下が始まった。




