39 本領発揮
真吾が帰ってくるのをを待っていようと思ったのに、というかそのためにこの家に来たのに、さっきから上まぶたと下まぶたがちょくちょくごっつんこする。
何がいけないって、このソファがふかふかすぎるのだ。
それに今日はたくさん走ったし……
どこか遠くの方でがちゃりと音がして、「ただいま」と声が聞こえたような気がした。少しして「あ、寝てる」と真上から声が落ちてくる。
だけどふわふわとした眠気に包まれた瞼はすっかり閉じてしまって、これが誰の声なのかも思い出せない。
夢と現実の狭間。
起きているでも眠っているでもない、不思議な感覚。
ゆらゆら揺れる。
まるで水の中にいるみたい。
あったかくて気持ちいい。
ぴちょーんっという水音が響いた。
あれ、本当に水の中なの?
なぁんだ、どおりでゆらゆらするわけだ。
……えっ?
水の中?
私は慌てて目を開けた。
すっかり見慣れてしまった広いお風呂。
だけどいつもと違うのは、だれかの腕が腰のあたりに回されたまま湯船に浸かっていること。
「ぎゃあっ!」
私は思わず目の前のお湯を叩き、大きな水しぶきが上がった。
「お、目ぇ覚めたな」
耳元で放たれたとびっきりの美ボイスが狭い空間で反響し、私は慌ててその腕をすり抜けようと体をよじる。だいたいこの体勢だと、お腹の贅肉がよってぽちょりと揺れるのだ。そこにちょうど真吾の腕が回されている。
――ちがう! 普通に立ってればもう少し痩せてるんだからね!
そう叫びたかった。真吾に見られるときはいつも心もちお腹をへこませていたし、少しでもくびれて見えるように角度をつけてひねってみたり、これでも色々工夫していたのだ。なのに何てことだ。眠っている間にあっけなく力の抜け切ったところを見られた挙句、座って緩んだ状態の腹に腕を回されるとは。
嘉喜ハルカ、一生の不覚――
「ハルカ、観念しろって」
いつになく強い力でがっちりと抱えられた私はばちゃばちゃと水しぶきを上げるばかりで腕の中から抜け出すことはできず、結局私は真吾にされるがままだった。
「久しぶりだしな。手加減はしないから、覚悟しろ」
真吾がにやっと笑いながら放ったその言葉は風呂のことだけではなかったらしく、翌朝私は体が重くてベッドから起き上がることすらできなかった。
「腰が重い」と笑いながら出社の準備をする真吾を見上げてベッドの上から文句を言うと、「だってハルカ今日会社休むんでしょ? 昨夜津野さんから電話があって『嘉喜が明日は休むって言ってるんで、どうぞごゆっくり』って言われたんだもん」とさらりと言われた。
課長のやつ、何て余計なことを。
「ハルカ、夜までには回復しそう?」
「うーん、たぶん」
「じゃあ、夜は外で食べよう」
「いいけど。何か作っとこうか?」
これでも料理の腕はだいぶマシになったのだ。マシになった、だけだけど。たまにおいしいものが出来上がったりもする。ちなみに最近の得意料理はカレー。ニンジンを同じ大きさにカットできるようになってきた。
「ううん。久々だし外で食いたい。店決めて夕方ごろまでに連絡するよ」
「はーい」
相変わらず美しい後ろ姿を見送ってから私はごろんとベッドに手足を大きく投げ出した。
筋肉がついていないわけじゃないのに細くてしなやかってどういうことだ。
ぽよんとした自分のお腹をむぎゅっと両手でつまんでみる。
――何であの人、私と付き合ってるんだろう。なんで私なんだろう。
この疑問に対する答えはきっと見つからないけど、それもまぁ、悪くない。
人が人を好きになる理由なんて、たぶん誰にもわからないんじゃないかな。
昼過ぎまでだらだらとベッドの上で過ごし、〈19時に六本木のAmanecerっていうレストランで。ちょっと遅れるかもしれないから先に中入って待ってて。予約は倉持で入れてるから〉という真吾のメールを受け、ようやく立ち上がって活動を開始した。
六本木と言われてはテキトーな服装で行くわけにもいかず、(いろんな意味で)重い腰を上げていったん自宅に戻り、シフォンのワンピースに着替えた。友人の結婚式くらいしか出番のないパールのネックレスとピアスをつけ、華奢なパンプスに足を入れる。
いつもこんな恰好をして過ごせと言われたら息が詰まって発狂しそうだけど、たまにこうして背筋を伸ばすのは悪くない。
玄関にある姿見の前でくるりと回って自分の姿をチェックしながら、無意識に自分が鼻歌を漏らしていたことに気付いた。
真吾の家で初めて一緒に見た映画の主題歌だ。
壮大で、それでいて切なく胸に迫るその曲が高音質のスピーカーから流れてきたときの感動は、きっと一生忘れないだろう。
***************
レストランに着いたのは十九時少し前だった。真吾はまだ到着しておらず、上品な中年の男性が席まで案内してくれた。
平日だというのに店内は席はほとんど埋まっていて、客の大半はカップルだった。視界に入った女性たちの服装を見て、少なくとも自分の装いが場違いではないことに安堵する。男性の多くはスーツだが、女性たちが色鮮やかな服を着ているおかげで店内が色彩に満ちていた。
カバンの中で携帯が震えたのを感じて、そっと画面を見る。
〈ごめん。やっぱりちょっと遅れそう。もうちょっと待ってて〉
仕事だから仕方ないけど、少しがっかりして肩を落とした。
周囲のテーブルの上の料理があまりにもおいしそうで、さっきから腹の虫が大暴れしているのだ。
「お連れ様がいらっしゃるまでの間に食前酒はいかがですか」
さっきの上品な人がやって来て微笑みかけてくれる。
「あ、いただきます」私もにっこりと笑みを返した。
食前酒を片手に真吾を待っていると、音楽が聴こえてきた。
私は思わず振り返る。
店の奥におかれたグランドピアノから繊細な音が流れてくる。
生演奏だ。
――それにこの曲!
私の心は一瞬で躍り上がった。
すごい偶然。
ちょうど今日鼻歌で歌っていたあの曲が、店内に響きわたっている。
音大生だった頃、ホテルでピアノを演奏するアルバイトをしていたことがあった。もしかしたらこれもバイトの音大生が弾いているのだろうか。プロというには少し拙い音の運びが微笑ましくて、私は心の中で鼻歌を歌う。
ピアノのソロから始まった音楽に、途中からバンドが加わる。
コントラバスの響きが低音を支え、他の弦楽器が旋律を奏でる。
おいしいお酒に、大好きな音楽。
真吾がこのレストランをチョイスしたのは、たぶん生演奏が聴けるからだ。
私は贅沢な気分にひたっていた。
一人でにこにこするなんて気味が悪いとわかっているが、口角が持ち上がってしまうのを止められない。
ところが上がりきった口角は、次の瞬間横に押し広げられた。
食前酒を運んできてくれたボーイが突然歌い始めたので、驚いて思わず口をあんぐりと開けてしまったのだ。
ボーイは歌うだけにとどまらず、すぐそばの席に座っていた女性を巻き込んでダンスを始めた。
ボーイの大暴走かと思ったけど、他のスタッフの人は止める気配もないし、巻き込まれた女性も偶然とは思えないほど鮮やかなステップを刻んでいる。
よくわからないけど、周囲のテーブルからも笑い声や拍手が上がり、店内の雰囲気が一気にふっと沸き立ったので、私も遠慮なく拍手を送った。
ボーイはさらに客を巻き込んでいき、ダンスをしている人が10人を超え、周囲のテーブルからやたらとクオリティの高いコーラスが聴こえはじめた頃には、私は一人縮こまっていた。
歌にもダンスにも参加できない自分がここにいていいのかよくわからなかった。
本当は貸切でイベントをやる予定だったのに、そこに真吾さんが無理やり予約をねじ込んだんじゃないだろうか。
恐ろしいことに、あの人なら現実にやれてしまいそうなのだ、そういうことが。
――どうしよう。退散した方がいいかな。
「こちらに」
席まで案内してくれた中年の男性がすっと寄ってきて、席から立たせてくれる。
どうやら店外に連れ出してくれるらしい。
――よかった。
そう思ったのもつかの間、男性は私の手を取って店の奥へと連れて行くではないか。
もはやパニック状態で、逃げるとかそんなことは考えられなかった。
必死に頭を整理しようとするが、目の前の状況が目まぐるしく変化するので脳みそが追いつかない。
店の奥に引っ張って行かれながら振り返った私の目に飛び込んできたのは、美しいフォーメーションで歌い踊る人々の姿だった。席についている客は一人もいない。
そして視線を前に戻した私は、自分が卒倒するのではないかと思った。
いたずらっ子のように眇められた目に、真っ白な歯の覗く口元。
ピアノの前に座っている男は、私を見つめておかしそうに笑っていた。
「……真吾さん」
もうわけがわからなくて、背中に当てられた手に促されて私はふらりと真吾の横に立つ。
真吾がピアノを弾きながら立ち上がり、私にピアノの前の椅子に座るよう目で合図した。
曲は私の大好きな一番の盛り上がりに差し掛かったところ。
椅子に座りながら楽譜を覗き込むと、そこから突然連弾用の譜面になっている。
「上のパートを」
ハスキーな声で真後ろからささやかれ、私は譜面を目で追いながらピアノに手を伸ばした。その私を背後から抱きこむように、私の腕の外側に真吾の腕が回され、奇妙な連弾が始まった。
――なんなの、これは。
――あの人たち、誰。
――お腹すいたんですけど。
真吾に言ってやりたいことはたくさんあったけど、それよりも高揚感の方が大きくて、耳から目から次々に飛び込んでくる彩りに満ちた音楽に酔いしれた。
最後の一音が店内に響き、その音がすっと消える。
譜面から顔を上げると、ピアノの周りに人だかりができていた。
「これ……」
「プレゼント」
真吾がさらりと言った。
「何の?」
「何でもないときにプレゼントを贈っちゃいけないって決まりはないだろ」
そう言ってから真吾はピアノを取り囲んだ人々に、「素晴らしい演出をありがとうございました!」と声を張り上げた。人だかりからは大きな拍手が沸き起こる。
「みんなキャストだよ。このショーのね」
わけがわからないという顔をしていたら、真吾が説明してくれた。
「ショー?」
「そう。ハルカが好きな映画音楽をメドレー形式でお送りいたしましたが、お楽しみいただけましたか?」
恭しく腰を折りながら尋ねられる。
「そりゃあ、楽しかったよ! まだ全然、状況が把握できてないけど」
「この人たち、俺の知り合いがやってる劇団の団員さんなんだ。フラッシュモブがやりたいからって言って、お願いしてきてもらったんだよ」
「その、フラッシュ何とかってなに?」
「さっきみたいな、突然始まるパフォーマンスだよ」
「じゃあ、何も知らずにここにいたのは……」
「ハルカだけ。お店の人にも協力してもらったんだ。ちなみに、あのボーイはボーイの恰好してるだけで、ボーイじゃないから。あれが俺の友達ね」
私はその人に向かってぺこりと頭を下げた。
「楽しい時間をありがとうございました」
「こちらこそ。それでは、これからがおいしい時間ですよ」
中年の男性の一声で、ぱっと人だかりが割れる。
「あの人も劇団の人?」
「いや。あれはこのレストランの支配人。今日本当は定休日なんだけど、無理言って開けてもらったんだ」
劇団の人たちは一仕事を終えて帰っていくのかと思いきや、皆元通りにテーブル席に座っている。
「皆お食事はして行くんだね」
私がこっそり真吾に言うと、彫刻はさらりと「これが彼らへの報酬だからな」とのたまった。
この人数全員分のフルコース代を真吾が持つってことか。
いったいいくらくらいかかるのか、見当もつかない。
「女の人口説くとき、いっつもこんなことしてんの?」
意地悪な質問だとわかってはいるが、聞かずにはいられなかった。
「まさか。違うよ」
真吾は頭を振った。
「ハルカが、俺の金持ちっぷりにも愛着がわいたって言ってくれただろ? あれが本当にうれしかったんだよ。だから、金持ちっぷりを思いっきり発揮してみた。そんな顔するなって。もう二度とこんな派手なことしないから」
その言葉に満足して、私はうなずいた。
その拍子に、瞳にたまっていた涙の粒が頬を伝った。
音楽がサイコーだったからなのか、ダンスが素敵だったからなのか、こんなに盛大なサプライズを仕掛けられたのが初めてだったからなのか、お料理がおいしかったからなのか、理由はわからない。もしかしたら、その全部かもしれない。
とにかく、小さすぎる胸では受け止めきれないほどの想いがあふれて、涙になってこぼれたのだ。
***************
巨大なスクリーンに映し出された自分の顔のドアップを見つめながら、私は隣に座る真吾の手を握った。
純白のグローブ越しに伝わってくる体温が心地いい。
「なつかしいな。これ」
私はうなずいた。
いったいどこに仕掛けられていたのか、あのレストランには隠しカメラがいくつも設置されていたらしく、それを劇団の人たちが編集してくれて今日の結婚披露宴で流すことになったのだ。
あんな派手なサプライズの映像なんて流して欲しくなかったのだが、「いろんな気持ちとか不安を乗り越えて、やっと『二人の仲は絶対に大丈夫だ』って確信できたのがあの時だったんだよ」と真吾に言われ、私はしぶしぶうなずいたのだった。
「もう1年半近く経ったのか」
「あっという間だったね」
準備期間が長すぎると思っていたのに、忙しくしている内に結婚式当日になっていた。
伊織さんのデザインしてくれた美しいドレスは私の体にぴたりと沿い、いつもより数段私を美しく見せてくれている。たぶん。
彫刻の横で恥ずかしくないようにと思ってオーダーしたドレスだったけど、たぶん私はどんなドレスを着ていても、この人の横にいるときは輝いてる。幸せにあふれた笑顔に勝るものはないから。
「ハルカさん、綺麗!」
伊織さんの言葉に、真吾が返す。
「当たり前だろ、俺が選んだ人なんだから」
まったく、これだからオレ様は。
やっと…やっと…完結いたしました。
スピンオフのはずがとんでもなくながくなってしまった上に、更新が滞っていて申し訳ありませんでした。最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございます!
ハルカ・カナタ




