38 策士
雑踏を縫うように走りながら時計をにらむが、視界がブレにブレて全然読み取れない。とにかく、走るしかない。
別に今日を逃したって会えなくなるわけじゃない。そんなことは百も承知だ。
だけど、どうしても今、一秒でも早く真吾に会いたかった。会って、話を聞かないと。
脚力には自信があるのだ。
ヒールが地面を突く尖った音と自分の鼓動の音が入り混じって脳みそに響き渡った。
荒れた息遣いに道行く人が振り返るけど、そんなこと全然気にならなかった。
人ごみがまるで線のように視界の端を飛んで行く。
立ち止まる暇が惜しくて、ただひたすらに走った。
電車の中でもずっと足踏みをしていたいと思うくらい、止まっているのが嫌だった。
この時間、真吾はまだきっと会社にいるはずだ。
滑り込んだ倉持商事の受付に向かう。受付嬢は明らかにもう仕事を終えて帰り支度をしていたが、私が近寄ると形通りの笑みを顔に張り付けた。
「倉持真吾に会いたいのですが」
汗をだらだらと垂らしながら駆け込んできた客に、受付嬢は目を瞬いた。
「お約束はされていますか?」
「婚約者が来たと伝えていただけますか。時間の空いているときでいいから、ロビーで待っているからと」
ぜいぜいと息が乱れるのをごまかすように一気に告げる。
すぐに受付嬢の大きな目が見開かれた。
わかるよ、夜になると化粧よれてそうなるよね。
はがれたマスカラが下まぶたにくっついているけど、それには気づかないふりをしてあげるから。だからどうか、そんな目で見るのはやめてください。
受付嬢は胡乱な目で私を一瞥した後、手元の受話器を持ち上げた。
「常務にお客様です。婚約者の方だと名乗っておいでです」
『名乗っておいでです』
てんで信じてもらえなかったらしい。
それもそうか。彫刻とはひどく不釣り合いなちんちくりんの女が汗びちょで現れたのだから。
「常務は会議中だそうで、少しお時間をいただくことになるだろうとのことです。お待ちになりますか?」
「ええ、あそこに座って待たせていただいても?」
「もちろん構いませんが。常務はお忙しい方ですから、長くお待ちいただくことになるかもしれません」
どことなーく言葉に棘がある。
「わかっています」
私はおとなしくソファーに座り、カバンから本を取り出した。受付から好奇の視線が無遠慮に飛んできていることに気付いてはいたが、顔を上げる気にはとてもならない。だが、残念ながら本の内容など頭に入ってくるはずもなく、たまたま開いたページのたまたま目に留まった行に書かれていた「そもそも」という単語を何度も何度も目でなぞった。そもそもってなんか、響きがかわいい。
「おや? ハルカさん?」
野太い声がかかり、驚いて顔を上げると貴俊さんのお父さんが数人を引き連れて立っていた。私は本を閉じて膝の上に置いてあったカバンをかき抱きながら、慌てて立ち上がった。
「どうなさったんですか? 真吾に会いにいらっしゃったのですか?」
「あ、ええ。会議中とのことでここで待たせていただいて……」
「婚約者だとおっしゃらなかったのですか? こんなところで待たずとも、真吾の部屋でお待ちいただければ。ここは寒いでしょう」
「あの、いえ、約束しているわけでもありませんし……夜も遅いですし……」
自宅にお邪魔しているような気持になってきて、恐縮して変なことを口走ってしまった。貴俊さんのお父さんは受付に冷たい一瞥を投げ、すぐに凍るほど冷えた声で受付嬢に告げた。
「この御嬢さんは嘉喜ハルカさんといって、倉持常務の婚約者だ。これからここへいらっしゃった時には、すぐに常務の部屋へお通しするように」
「はい」
貴俊さんのお父さんの周りには、秘書らしき男性や社員らしき男性が驚いた顔で私を見ている。
驚いたのはこっちだ。
貴俊さんのお父さんはいつ会ってもにこやかで穏やかな人だった。
人の背中を凍らせるような声を出せるとは思いもしなかった。
だけど、と考え直す。人の上に立つ人は、人を叱る能力を持っていないといけないのだ。きっと貴俊さんんも真吾さんも、私の知らない顔で人を叱るのだろう。
「公式な発表はもう少し先になるが、すでに決まっている」
貴俊さんのお父さんは周囲の人の無言の問いかけに答えるようにそう言ってから、私に向かってにっこりとほほ笑んだ。
今はちょっぴり暗闇の中ですが、と言いたくなったけど、口をつぐんで曖昧に微笑んでおいた。
暗闇だが、その手はつながれたままだ。と、少なくとも私は思っている。互いの顔が見えないだけで、手は離されてはいない。そう思えたから会いに来たのだ。
***************
「ハルカ」
私の顔を見るなり、真吾は部屋の入り口で固まったまま動けなくなったらしかった。
「こんなところまでお邪魔してごめんなさい。ロビーで待ってるつもりだったんだけど、貴俊さんのお父さんにお会いして……」
「いや、構わない。驚いただけだ」
心臓が早鐘を打つように鳴り響く。ふわりと血液が頭に上っていくのがわかり、あわてて口を開いた。
「気を失う前に言っとくべきことは、私はどんなことがあっても真吾さんのことを好きだってこと。それに、真吾さんのためにできることがあれば何でもする」
一気にそう言葉を吐きだすと、早かった鼓動が急速に収まって行くのを感じた。
上っていた血液が顔に戻ってくる。
ああ、これなら気を失わずに済みそうだ。
真吾はなおも驚いた顔で私をじっと見つめた後、一度大きく息を吸ってからそれを吐き出した。穏やかな表情で。
「ハルカ。とりあえず座って」
彫像が歩き出して、滑らかな動きで私をソファーへと促す。
真吾は向かいのソファーには座らず、ソファーの背もたれに腰を掛ける形で首だけこちらへ向けた。
「伊織さんのこと、聞いた」
その名前を出した瞬間に、手が震えた。それを隠すために、私は両手を祈るように組んでぎゅっと握りしめた。
「ああ……ごめん」
「それは何に対する謝罪?」
「連絡をしなかったこと」
「そう」
わかっている。
伊織さんと真吾の間に何かあろうはずなんてないことは、わかっているのだ。
伊織さんはそんな人じゃないし、真吾さんもだ。
だからこそ、わからない。
何をどう話せばいいのかもわからない。
私は何かを尋ねたかったのだろうか。
ちがう。
最初から、ここへは真吾に会いに来たのだ。
他の何をしたいわけでもない。
それならもう、目的は達成したのだ。
「じゃあ、私はこれで」
「えっ。もう帰るの?」
「うん。だって、何をしたらいいのかわからなくて」
「俺の話を聞く気はない?」
「話ならいつだって聞くよ。ただ、無理に聞き出そうとは思ってない。真吾さんは話したいことがあったら私がどんなに拒んでも追いかけて来る。だから、そうしないってことは話したくないのかなって。それならそれでいいの。私は伝えたいと思ったことを伝えたし、こうして会えた。普通に元気そうだし、よかった」
小さな少年が泣いているかと思ったけど、そんなことはなさそうだ。
「ごめん。ちゃんと話をしようと思ってたんだ。ただ、どう切り出せばいいかわからなかった。伊織のこと、どこまで聞いた?」
「伊織さんが離婚を考えてるってことと、その理由を聞いたよ」
「妊娠のことも?」
「うん」
伊織さんは結婚して今年で5年目になるが、子供にはまだ恵まれていない。
結婚して2年目からずっと、子供を作るための治療を受けていたのだという。
旦那さんも伊織さんも仕事を抱えて忙しい上に、旦那さんは一年の半分以上を海外で過ごすほどグローバルな人だ。治療は思うように成果を上げていなかった。
そんな中ようやく授かりかけた命が、つい最近失われてしまったのだという。
伊織さんの様子があの日おかしかったのは、そのせいだったのだ。
「ハルカ。俺は……」
真吾の顔は切なそうだった。
「伊織さんのそばにいてあげたい?」
蛍光灯の光を映しこんで輝く瞳をじっと見つめた。目の脇には、小さな涙ぼくろ。どうか、泣かないでほしい。この人には、笑っていてほしい。
「いや、違う。ハルカへの愛情もハルカと結婚したいっていう気持ちも変わってない。ただ……ごめん。ハルカ」
真吾の想いが叶わなかったからと言って、幼馴染として過ごした時間がなくなるわけではない。伊織さんはそういう意味では、いつまでも大切な存在のはずだ。
「わかるよ。真吾さんの気持ちは疑ってない」
「そっか、ごめん」
「伊織さんの力になってあげたいんだったら、私に気を使う必要なんてない。気にしないで、支えてあげて」
絞り出すようにそう言ったら、真吾はちがう、と小さく言った。
「あいつを支えるのは俺の仕事じゃない。そうじゃなくて、ちがうんだ、ごめん」
どうしてこの人はこんなに謝るのだろう。私は先を促すようにうなずいた。たぶん、ここからが真吾が本当に言いたかったことだ。何となくだけどそんな気がした。
視線がぶつかって、真吾の瞳には私の姿が映る。
真吾を見上げるその顔は、思ったよりしっかりと笑えていた。
ほらね、私、強いんだから。
「伊織の話を聞きながら俺が何を考えてたと思う?」
突然飛んできた質問に、私はわからないという意味を込めて首を振った。
「未来のハルカの姿かもしれないって思った」
首をかしげる。
「伊織とハルカがダブって見えた。伊織の旦那は一人息子なんだ。グランドホテルタカムラの跡継ぎ。そのことが伊織の肩に重くのしかかってる。だから伊織は、離婚したいって言い出した」
私はうなずいた。お世継ぎを生む。まるでどこかのおとぎ話みたい。だけど、継がなくてはならないものがある人にとって、それは大事なバトン。伊織さんはそれを理解していて、自分が篁家の跡継ぎを産めないなら離婚すべきではないかと思い悩んでいるのだという。
「俺も同じだ。一人っ子で、倉持グループの跡継ぎ。当然ハルカにもプレッシャーがかかると思う。俺の身内からのプレッシャーは心配しなくてもいい。そんな人たちじゃないし、そんなこと言わせない。だけど敵はそこだけじゃない。外にだっている。結婚後にそんなことで頭を悩まされるかもしれないなんて、嫌だろう。伊織を見ながら俺はそこにハルカの未来を重ねてた。そしたら、どうしても連絡できなくなった」
真吾は本当に、苦しそうだった。
「どんな顔をしてハルカに話せばいいのかわからなかった。俺が、同じことでハルカを苦しめるかもしれないのに」
なんだ、そんなこと。
想像したのと全然違っていて、思わず安堵の鼻息が漏れた。
「俺、ハルカと違いすぎるだろ」
「あー、神々しさ的な意味で?」
「違うよ、生き方が」
「ええと、華やかさが?」
「違う。元カノの人数も彼女たちの置き土産も派手な付き合いも、あの……風間の姉さん……芹菜さんの話だって、ハルカを傷つけただろ。相手が俺じゃなければ経験しなくてよかったはずのことだ。これ以上そういうことで苦しめたくない。なのに、苦しめることばっかり未来に待ち受けてる気がする」
彫刻が悩ましげに息を吐き出した姿がミロのヴィーナス、アフロディーテに見えた。あれ、あれは女性か。まぁいいや。
なんていうか、この人は。マリッジブルーって女性の特権かと思ってたけど。
「いまさらになって、おかしいよな。これまで意識したことなかったのは、寄ってくる人が皆『倉持家』の俺を望んでたからだ。でもハルカは違う。めんどくさい世界もチャラい男も嫌いだろ? なのに俺と結婚して、そんなプレッシャーまで背負わされて……奪ってばかりだ。純潔も、平凡な幸せも、平穏な日々も」
純潔。
私は思わず声を上げて笑ってしまった。
そんなことを気にしてたの?
あなたみたいなプレイボーイが?
バッカじゃないの。
心の底でそんな声が聞こえたのは内緒だ。
しんみりした雰囲気をぶち壊したくはなかったし。
「真吾さんは私が一番欲しいものをくれるからいいんだよ。何だと思う?」
真吾は黙って首を振る。
「大好きな人からの愛情。他の誰からもらっても、意味のないもの」
まぁ、別にほかに愛情をくれる人がそんなにたくさんいるわけでもないけども。
私は真吾を見上げた。
「真吾さんの家柄とかはね、私の貧乳みたいなもの」
「どういう意味?」
「真吾さんだって、どっちかって言ったら巨乳が好きでしょう? 私も、どっちかっていうとそういうめんどくさいのは少ない方がいい。でも、真吾さんは私の貧乳も許してくれたでしょう?」
「というか、最近じゃちょっと愛着がわいてる」
「それと同じ。私も、最近じゃ真吾さんの金持ちっぷりに愛着がわいてるの。それにね、はっきり言っとくけど、私は真吾さんのご家族が大好きだよ」
「そっか」
「うん」
これまで自分の抱き続けていたものが、ちっぽけでどうしようもない偏見だと気付けたのは彼らのおかげだ。
価値観は人それぞれ。正しいものと間違ったものがあるわけじゃない。
ただ、自分の価値観が正しいと信じて疑わない人間が、きっと誰よりくだらない。耳を傾け受け入れることの大切さを知らなければ、私はずっと偏見を抱いたまま生きていくことになっただろう。
くだらない、「金持ちなんて」「御曹司なんて」「チャラ男なんて」というこだわりを持ったまま。
「誰かと一緒に居たら、傷つくことも傷つけられることもあるよ。だけど、私はそんなに弱くないよ。傷ついてもちゃんと自分で修復できる。だから心配しなくていいよ。ただ、きっと私はうまく隠せないから、傷ついたら思いっきり泣くと思う。そしたら慰めて。傷をふさぐのをちょっとだけ手伝って。それで充分」
完璧な彫刻がくしゃりと歪む。泣きぼくろがしわの中に隠れて見えなくなった。
「そしてね、私にもそうさせてほしい」
眉根をぎゅっと寄せて口元を震わせるその顔が、愛しいと思った。
「真吾さんが傷ついたときは、私が薬を塗ってふさいであげるから。だから一人で血を流すのはやめて。傷をさらに抉るような音でピアノをかき鳴らすのは、やめてほしい」
「……聴いてた?」
私はうなずく。
「胸が裂けるかと思った」
「そっか」
「伊織さんのことを聞いて、私もつらかった。こんなに短い付き合いで伊織さん自身のことをほとんど知らない私でさえ、涙が出た。だからきっと真吾さんは辛かったよね。傷ついたよね。もうその傷はふさがった?」
「いや」
真吾は首を振る。
「抱きしめてあげようか?」
真吾は本当にかすかに、うなずいた。
私は立ち上がって真吾の方へゆっくりと歩を進める。真吾の真正面に立つと、真吾は項垂れて私の肩に頭を乗せた。首元を細い息がくすぐる。私は真吾の頭を右肩でそっと抱えるようにして、左手を広い背に回してぽんぽんと軽くたたいた。
「辛かったね。伊織さんに、幸せでいて欲しいよね」
「ごめん。情けなくてごめん」
「真吾さんはさ、もっとキラキラしててよ。ちょっと輝きの足りない嫁を貰うんだからさ、その分まで光ってなくちゃ。自信満々で。それで、『俺のこと好きだろ?』って顔しててよ。私が何て言っても動じなくて、超然としててよ」
「……オレ様御曹司は嫌いなんじゃなかった?」
「大っ嫌いだよ。オレ様も御曹司もチャラ男も大っ嫌い。でも、真吾さん――」
「でも、俺のことは好き?」
真吾の言葉がかぶさる。
頷くのが癪なので、首を横に振った。
「真吾さんの家のDVDのコレクションが私のものになるんだから、結婚も悪くないなって」
真吾はしばらくおとなしく私の腕の中にいたけど、ゆっくりと顔を上げた時にはその瞳はすっかり元の色を取り戻していた。
「あー、やべぇ、今猛烈にハルカが欲しくなった」
「へ?」
今度は、真吾に強く抱きしめられる。
そしてさっきの言葉の意味をお腹の辺りに感じて、私は後ずさった。
「そんなに警戒しなくても、ここで襲いかかったりはしねぇよ」
余裕の表情で真吾は言った。
「ちょ、な、なにを言ってるんですか」
「あれ、わかんない?」
「わっかるわけないでしょ」
「へぇ? ほんとに?」
「し、失礼しますっ」
私は一言だけ放って、部屋を飛び出した。追いかけるように「このあとちょっと仕事残ってるから、今日家で待ってて」と声がかかった。
家で待ってるなんて、目の前にどどんと膳を差し出して据えることに他ならないではないか!
……そんなことを言いながら、すでに明日会社を休むと課長に告げてある私は、実は自分が思う以上に策士なんじゃないだろうか。




