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accelerando  作者: 奏多悠香


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37 苦しみの理由

 貴俊さんの話が終わると、重苦しい沈黙が3人を包み込んだ。

 私はすくりと立ち上がる。


「事情がわかってよかったです。あの……たぶん真吾さんの居場所、わかりますから。行ってみます」

「車で送ろうか?」

「いえ、大丈夫です」


 貴俊さんもそれ以上は何も言わず、美咲と共に心配そうな顔で送り出してくれた。私はそんな二人に向かって頑張って笑ってみせたけど、ひきつって上手く笑えていないのが自分でもわかった。

 私は美咲たちのマンションを出てすぐにタクシーを拾うと、グランドホテルタカムラ――伊織さんの旦那さんのホテル――に向かった。貴俊さんには「たぶん」という控えめな言い方をしたが、真吾の居場所には確信があった。

 ピアノを置いてあるあの場所だ。

 ガラス張りのエレベーターの外には暗い闇が広がっていて、私の姿が映りこむ。その自分の表情を見て思わず笑ってしまうほど、こわばった顔をしていた。

 心臓が痛いくらい存在を主張する。

 それはバレンタインの日に感じたタップダンスのような明るいものではなく、もっとずっと、じくじくとした痛みを伴うものだった。

 真吾が絡むと、この心臓は本当に制御不能になる。暴れる鼓動を何とか収めようと胸元を押さえてみるが、内側からそれを跳ねかえす不規則な動きを余計に強く感じただけだった。

 エレベーターの扉がじれったいほどゆっくりと開き、私はドアの隙間に足をねじ込むようにして踏み出した。ところが、すぐに耳に飛び込んできた音の洪水に、次の一歩を踏み出すことができなかった。


 ――また、あの曲だ。


 ショパンの『革命』。前に真吾が、伊織さんへの叶わない想いをぶつけるように弾いていたときと同じ曲。

 でも、音が。あの時とはまるで違う。

 あの日の調べは切なかった。今のこれは、苦悩だ。

 うねるような音の濁流に飲みこまれそうになった。

 聞こえてくるのは、ピアノが上げる悲鳴。

 指を鍵盤に叩きつけるように弾いているのだろう。奏でるでも紡ぐでもなく、ただただ吐き出された音はぼろぼろとこぼれ、勢いだけでがむしゃらに突っ走っていく。スタインウェイのピアノの特徴は表現の多彩さだとよく言われるが、これは。こんなに苦しい音を、いまだかつて聞いたことはない。

 ピアノの場所からは見えない壁に背を付けたまま、動くことができなかった。

 音がひとつひとつ、私の胸に突き刺さった。

 大切な人が苦しんでいる。

 それも、ものすごく。

 あの人をそれほどまでに苦しめているのは、一体何なのだろう。

 あの日真吾は伊織さんに会いに行ったらしい。そして少し話をするとすぐに帰って行ったという。それから、伊織さんは真吾には会っていないそうだ。

 ならば、この一週間真吾から連絡がなかったのはなぜなのだろうか。

 何がこれほどまでに彼を追い詰めているのだろうか。


 ――わからない。


 壁を隔てて向こう側でピアノと向かいあうその人の気持ちが、わたしにはてんでわからなかった。

 大切な人の気持ちを理解したいと思うのは我儘だろうか。

 苦しいなら分け合いたいと思うのは、エゴだろうか。

 理解できないと苦しむのは、思い上がりだろうか。

 話して欲しいと望むのは、独りよがりだろうか。

 ふっと気が遠くなっていくのが分かって、あわててしゃがみ込んだ。

 下唇を噛み、こぶしを握り締めて耐えると、遠のいていた意識が戻ってくる。


 ――「逃げるな」


 彼にそう言われた。

 それならわたしは今、何をすべきなのだろう。

 駆け寄って抱きしめればいいのだろうか。


 だけど、そのホールは今、明らかに。

 私が踏み込んではいけない、真吾の、彼だけの領域だった。


 彼は話したいことがあったら私がどんなに拒んでも追いかけて来る。

 だから、来ないってことは、きっと今はその時ではないのだ。

 私はそっと暗闇から抜け出してエレベーターに乗った。



 結局、その日も真吾からは何の連絡もなかった。



 次の日もその次の日も、ナシのつぶてだ。



 わからない。


 ―――もし私が真吾さんの立場だったら、何を考えるだろう。


 終業後にデスクでぼんやりと考えていて、そんなことを思った。


「人の立場に立って物事を考えなさい」

 

 小学校のときに先生に繰り返し言われた、あれだ。

 あれをやってみることにした。

 私にとってすごく大切な、大好きな人が苦しんでいたとして。

 と、自分に置き換えて思い浮かべてみる。

 すごく大切な、大好きな人なんて一人しかいない。真吾だ。

 真吾にとっての伊織さんが私にとっての真吾ってことか。

 ううむ、なんかちょっと胸が痛い。

 たとえばこの先私が真吾にフラれたとして。

 他にそこそこ好きな人ができて結婚しようってことになった。そんなときに、真吾が何かとてつもなく深刻な悩みを抱えていることを知ったら……

 確実に、「力になりたい」と思うだろう。

 真吾さんが私のことをまったく好きじゃなくても、きっと私は真吾さんのために、持てる力のすべてを注ぐだろう。

 つまり伊織さんが真吾さんの気持ちに応える応えないはカンケーないってことだ。

 やばい。

 式に代入したら、何かやばい答えが出てきた。

 真吾は今、伊織さんの力になりたいと思っている。

 できることはすべてしてあげたいと思っている。


 ――『ハルカが不安になるようなことはしたくない』


 でも……私に気を使って、動けずにいる?

 見つけた。

 真吾を苦しめているもの。

 それは、私。


 ――きっと私は真吾さんのために、もてる力のすべてを注ぐだろう。


 さっき思ったことが、胸に突き刺さった。

 私は、何をすればいいのだろう。

 全然気にしないから伊織さんを支えてあげなよ、と笑えばいいのだろうか。

 そんな大嘘、つけるだろうか。

 真吾を信じていないわけじゃない。いま彼が伊織さんに抱いている感情は惚れたとか腫れたとかそういうことじゃなくて、家族みたいな愛情なのだということも理解はしている。

 でも私の安心の根底には、やはりあったのだ。伊織さんが既婚者で、旦那さんと幸せな生活を送っているという事実が。

 それが崩れてしまうことへの不安は、思っていた以上に私を苛んだ。

 真吾は伊織さんを放っておけなくて、伊織さんはひとりぼっちになるのを恐れて。互いに家族としての愛情を抱いているのなら、たとえそれが男女の愛情とは違っていたとしても、寄り添い歩いていくことはできるだろう。

 ふたりがそんな答えにいきついたとしても、何ら不自然ではないようにすら思えた。


「お前、気付いてるか。ここ、お前の家じゃないぞ」


 真後ろから声を掛けられて私は文字通り飛び上がった。尻の下で椅子がギッと悲鳴を上げる。


「か、かちょっ!」

「仕事終わったか」


 ぎろり、といつもより厳しい目つきで見られ、私はあわてて返事をする。

 終業後だし、仕事をさぼっていたわけではない、と言い訳したくなったけれど、仕事中からため息を吐きまくっていた自覚はあった。


「終わりました。残りは明日やります」

「そうか。じゃあ早くパソコンの電源落とせ。飲みに行くぞ」

「えっあっはい」


 慌ててパソコンをシャットダウンすると、すでに課長は私のカバンを持って歩き出していた。


「ちょっ待ってくださいよ!」

「お前、青くなったり赤くなったり頭抱えたり、見てて相当面白かったぞ。そんで、髪がぐっちゃぐちゃだから直せ」


 慌てて頭に手をやる。

 わぁ、ホントだ。

 指に絡まった髪の毛をほぐしてから手でなでつける。夏に日焼けした髪のダメージがまだ抜けきらずに毛先が痛みきっている。


「で、まぁだ悩んでるみたいね?」


 前に課長と行ったことのある小汚い居酒屋で、吉井さんが枝豆をつまみながらそう言った。テーブルを挟んで向かい側に課長と吉井さんが並んで座っているので、なんだか面接でもされているような気分だ。


「悩んでるっていうか……悩みたくないっていうか……」

「どういうこと?」

「私、すこぶる能天気な性格なんですよ」


 課長が首がちぎれるんじゃないかと思うほど大きく頷く。


「能天気に生きるのって楽なんです。だから、能天気に生きたいんです。じめっとかドロッとかは性に合わなくて。そういうのには極力近づきたくないんです。もともと、花びら摘まみながら『スキ・キライ・スキ・キライ……』とかやるようなタイプでもなくて、こういうことで悩んだことはなかったんですよ」


 私は仮想の花を手にそれの花びらをちぎる仕草をしてみせる。頭の中に浮かんだ花がマーガレットみたいな一般的なそれでなく、牡丹の花だったのはご容赦いただきたい。


「だからなんかこう、どうしていいかわかんなくて。ぼんやりしてる内に日がすぎて、もはや気まずくて連絡しにくくなっちゃって」


 うじうじしている自分が一番嫌いなのだ。

 みっともないし、「なに悲劇のヒロインぶってんの、私」という冷酷なツッコミが聞こえてくるし。


「会いに行けばいいのに」

「余計に気まずいですよ。向こうも、連絡してこないってことは今は会いたくないんだと思うんです」

「そうかしら。悩んでる内容は、あなたが思っているのとは違っているかもしれないわよ。話してみないことには相手の気持ちなんてわかんないじゃない。会いに来ないんじゃなくて、来れないのかもしれない」

「車ですぐですよ」


 私がそう言うと、吉井さんは盛大なため息をついた。クールビューティーにここまで冷めたため息を吐かれると、結構傷つくものだ。


「距離のことを言ってるんじゃないわよ。あなただって身に覚えがあるでしょう。逃げ回ってたじゃない。顔を合わせるのが怖くて逃げてたんでしょう? 相手だって、そういう瞬間くらいあるかもしれないじゃない」

「いやぁ、あの人はそんなのないですよ。いつだって自信満々で、怖がったりしないですよ」

「へぇ?」


 それまで黙って私と吉井さんのやりとりを聞いていた課長が片眉を上げて一言そうつぶやいた瞬間に、私の脳裏に稲光が見えた。

 そんなわけない。

 あの人だって人間だ。

 私はそれを知ってるから、あの人を好きだと思ったんだった。

 伊織さんのことで苦しむあの人を初めて見たときに、愛しいと思ったんだ。

 怖いことだって、悲しいことだって、あるはずだ。

 そもそも鈍すぎる私が一生懸命に考えたところで、答えなんて出るはずがない。

 目の前にいる課長の気持ちにもずっと気づかなかったこの脳みそでは、きっと正しい答えにはたどりつけない。

 それなら、聞かなくちゃ。

 どんなに時間がかかっても、苦しくても、聞かないといけないんだ。


「課長、私明日、たぶん会社休みます」


 私はそういうと卓上に千円札を何枚か放り出し、カバンをつかんで走り出した。

 後ろから届いた柔らかな「りょうかい」という声が、ふんわりと私の背中を押してくれた。




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