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accelerando  作者: 奏多悠香


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36/39

36 野分

「また連絡する」


 あの日確かにそう言ったのに、その週の金曜になっても真吾からの連絡はなかった。

 今までも毎日連絡を取っていたわけではないし、仕事が互いに忙しい時は一週間くらい連絡を取らずにいたこともあった。私たちにはそれくらいの距離感のほうが居心地がよかったから、特にそれを不満に思ったことはない。

 だけど、今回は少し事情が違う。

 まったく気にならないと言えば嘘になる。

 気になるなら私から連絡をすればいいだけなのだろうけど、迷っている内にタイミングを見失ってしまって何となく連絡しづらくなったのだ。

 特に、伊織さん絡みだから。


「牡丹の花に朝露がついてたら、やっぱり手折りたくなりますかね」


 昼に社食で偶然一緒になった課長カップルの隣でそうつぶやくと、課長が眉をひそめた。


「なんだ、急に。牡丹ってどんな花だ」


 隣で吉井さんがくすりと笑う。


「あら、花の話じゃないわよ。例え話でしょう? 美人が泣いたらってことよね?」

「そうです」


 さすがは吉井さんだ。

 課長と吉井さんとは、ときどきこうして社食で昼食をご一緒することがあった。付き合っていることを隠そうとせず堂々としていて、かっこいいカップルだ。課長もモテモテだったが、吉井さんもその涼しげな容姿と男前な性格から特に後輩の男性に人気らしく、二人が並んで歩いていると方々から男女を問わず羨望のまなざしが注がれている。

 まだ会社には正式に結婚の報告はしていなかったけど、この二人にはすでに伝えてあった。


「それで新、どうなの?」


 課長をさらりと下の名前で呼ぶ吉井さんが素敵で私は思わずにやけてしまう。にやけていられるってことは、私は結構元気なんだなと自己分析しながら。


「うーん。美人が泣いてたら、ね。手折るかはわかんないけど……まぁ、慰めるくらいはするんじゃねぇか。っていうか、手折るってどういうことだ。どうした。浮気の心配か」

「いえ、本気の心配です」


 私がすかさず返すと、普段は冷静な吉井さんが珍しくぴくりと肩を動かした。


「あら、あのどこそこの御曹司さん?」

「そうです」

「本気じゃ、しょうがないわね」

「そうですよね」

「嘉喜さんは? どうしたいの? 諦めるの?」


 あきらめる?


「うーん。あきらめるっていうのも何か違うって言うか……」


 結婚しないだとか、そういう結論に行き着くことを恐れているわけではなかった。ただ、得体のしれないモヤモヤが胸の隅っこに巣食っているのだ。

 言いかけたところで前方から歩み寄ってくる親友の姿を認め、私は慌てて吉井さんに口止めをした。「今の話、内緒で」

 吉井さんは「誰にも言わないわよ。何かあったら話聞くくらいできるわよ。それしかできないけど」と言ってくれた。

 目でありがとうございますと告げ、近づいてくる美咲に手を振る。


「ハルカ! 隣、いい?」

「うん。どうぞ」

「ちょうどよかった。用事があって、メールしようかなって思ってたんだけど。この時間なら社食で会えるかもしれないと思って来てみたの」

「用事?」

「そう。急だけど、今日うちに泊まりに来ない? 貴俊さんも真吾さんも出張で北海道でしょう? 明日の夜まで帰ってこないから寂しいし、ハルカと久しぶりにゆっくり話したいなぁと思って」


 北海道にいたのか。

 それすら知らなかった。

 美咲の申出はとても魅力的だった。このところ結婚式の準備や婚約発表の打ち合わせ、それに食事会などで週末は真吾と過ごすことが多かったので、予定のない週末はひどく寂しく感じていたのだ。


「お邪魔じゃない?」

「全然。だって、私が来てほしくて誘ってるのよ?」

「そっか。じゃあ、泊めてもらっちゃおうかなぁ」


 美咲と貴俊さんの新居は、貴俊さんが前に住んでいた広いマンションだった。もとは逃げ出した花嫁、玲子さんと暮らすはずだった場所だ。玲子さんが選んだ家具や家電、食器がそこかしこにあふれているわけで、貴俊さんはそこを新居にすることに躊躇していた。でも、美咲が「せっかく必要なものが揃ってるのにもったいないですよ」と言って、そこで暮らすことになったそうだ。


「玲子さんに結婚式でお会いできて、わだかまりもなくなったしね。それに、私と貴俊さんの場合結婚式までが特殊すぎて新居の準備する期間が全然なかったじゃない? だから、この部屋があって正直すごく助かったの」


 美咲はにこにことそう言いながら私をリビングに通してくれる。

 インテリアは全体にシンプルで、こげ茶と白で統一されている。洗練された印象だが、モデルルームのように完璧なせいか少し冷たくなりがちだ。そんなインテリアのところどころに美咲の趣味らしい小さな動物の置物が飾られていて、そのおかげで部屋はぐんと暖かみを増していた。この部屋を見ると、貴俊さんにはやっぱり美咲がぴったりだったんだと強く思った。


「新婚生活ってどんな感じ?」


 部屋を見回しながら台所に立つ美咲に声を掛ける。


「楽しいよ。式まで一緒に過ごした時間が少ない分、今はそれを埋めてる感じかなぁ。週末はあまり出かけずに家でゆっくり話をしてることが多いかも。不思議と途切れないのよ」

「そっか。いいね。幸せそう」

「ハルカももうすぐじゃない。式はいつ頃になりそうなの? 貴俊さんが、真吾さんの式はかなり盛大にやることになると思うって言ってたけど」

「再来年の春とかになるかも」

「えっそんなに? せめて来年じゃないの? プロポーズされたのが9月でしょう? 1年半も準備に費やしてどうするの?」

「そうだよねぇ。何かさ、会場も格式だとか伝統だとか色々気にしないといけないみたいで、真吾さんのお母さんとお父さんが挙げた式場で挙げることになりそうなんだよね。それに来年の夏は選挙があるじゃない? 絶対に招待しないといけない人の中には政治家も結構いるらしくて、選挙前だとあわただしいし、選挙直後だと悲喜こもごもで面倒だし……とか、色々事情があって、それくらいの時期が一番都合がいいみたいなんだよね」


 美咲と同じように伊織さんの旦那さんのホテルでさらりと挙げるものだとばかり思っていたので、その話をされたときには随分驚いた。それで真吾がしきりに「めんどくせぇ」と言っていたのだ。


「でもまぁ、ドレスは好きなの着てかまわないって言ってくれたし、婚約のお披露目の食事会だとか挨拶回りだとかもできる限り減らしてくれたりして、真吾さんのご家族も私の気持ちには配慮してくれてるからね。それくらいは我慢しなきゃかなぁと思って」

「それにしてもねぇ。婚約期間が長すぎるとグダグダしちゃうって言わない?」


 まさに今グッダグダですわ、とも言えず、私は黙ってうなずいた。



***************



「ハルカちゃん。いらっしゃい」

「貴俊さん。お邪魔しています」


 美咲とのお泊り会は懐かしくて楽しくて、翌日になっても一緒に近所のスーパーに出かけたり映画を見たりしてのんびり過ごしていたら、夕方になって貴俊さんが帰ってきた。


「真吾は? 今日はてっきりハルカちゃんに会うのかと思っていたけど」


 私は笑って首を振った。


「せっかくハルカちゃんが来てくれてるんだし、真吾も呼んで四人で晩御飯食べようか。美咲、準備するの大変?」

「ううん。一人くらい増えても全然平気よ。ハルカには夕食も食べて行ってもらうつもりだったし」


 美咲はそう言ってすでにエプロンの腰ひもをきゅっと結んで臨戦態勢だ。


「あ、いや、でも、貴俊さん出張から帰ったばかりでお疲れでしょうし、私はそろそろお暇しようと思っていたところだったので。お二人でゆっくりしてください」


 私はそそくさとカバンを手に取って立ち上がる。


「四人でご飯なんてあんまり機会なかったし、最近真吾とも仕事以外で話せてないからちょうどいいよ。真吾から聞いてると思うけど、ここ二週間くらいものすごく忙しかったんだ。それが今日やっと終わったところなんだよ。打ち上げも兼ねて。せっかくだし、食べて行ってよ」


 うぬう。貴俊さん、なんでこういうところで無駄に押しが強いんだ。

 貴俊さんが携帯を取り出したので、私はいよいよ慌ててしまう。

 真吾をここに呼ぶのは構わないが、それなら私は帰らないと。

 あれから伊織さんと会ったのかどうか、そしてどんな話をしてどう思っているのか。真吾の状況が全くわからない。二人できちんと話すならまだしも四人で会って何食わぬ顔をしてご飯を食べるのは気まずいことこの上ない。


「ああっ!」


 貴俊さんが携帯を耳に宛てたので、慌てた私は素っ頓狂な声を上げた。ほかに、それを阻止する手段が見つからなかったのだ。


「あの、いえ、何ていうか、私、その、帰ります。あの。いや、なんでもないですから。へへっすみません」


 しどろもどろすぎて自分でも何を言っているのかわからない。


「ハルカ、もしかして真吾さんと何かあったの?」


 美咲が聞いてくる。


「いやぁ、何も?」

「嘘が下手ねぇ」


 あきれた声に、私はぐっと押し黙った。


「ハルカ?」


 美咲が心配そうに私の顔を覗きこむので、私はますますどうしていいかわからなくなって下唇を噛み、それから小さな声で言った。


「真吾さんは……伊織さんのところかもしれません。あのいや、わからないけど」


 貴俊さんが眉をひそめた。


「伊織? どうして?」

「どうして……でしょう。その……」


 伊織さんの様子が変だった、という話をしていいものかわからずに逡巡していると、貴俊さんの顔は余計に険しくなった。


「真吾に電話してみる」

「あ、いえ、あの、それはやめておいた方が……」


 貴俊さんが首をすっと傾げて目を眇める。

 その瞬間、私の心臓がどきんと跳ねた。貴俊さんも一般的には整った顔立ちをしているが、どちらかというと柔和な印象で、精悍な彫刻のような真吾とはあまり似ていないと思っていた。

 しかし、訝しげに眇められた瞳が真吾さんと見違うほどに同じで、二人が従兄弟だということを否が応でも思い出す。

 そして残念ながら、私はこの瞳には絶対に逆らえないのだ。


「あの……」

「ハルカ?」


 美咲が私の肩に手を置く。


「どうしたの? 話せないようなこと?」

「あいつこの期に及んで……」


 貴俊さんがこぶしを握ったのを見て私は慌てて言った。


「あの、貴俊さん、私、知ってますから。その、真吾さんが伊織さんのこと……」


 貴俊さんはその言葉に随分と驚かされたらしく、目を丸くする。


「知ってたの? それなら余計にダメでしょう。あいつは何をしてるんだ」

「あの、そうじゃなくて、ただ、たぶん伊織さんのそばに居てあげたいような事情があるんじゃないかと……ほら、その、幼馴染としてっていうか。それで、少し連絡を取っていなくて。あの、でも、大丈夫ですから」


 貴俊さんは真吾よりもずっとずっと真面目で誠実な性格だから、その曖昧な感じすらも許せないのだろう。

 だけど、私の心配はちょっと違う。伊織さんが相手なので、その手の心配があるわけではない。ただ、真吾の心の中には土足で踏み込んではいけない領域がある。いま無理に連絡をしようとすれば、そこを荒らしてしまうような気がした。婚約しているからといって、相手の心のすべてを掌握する権利はない。

 

「ねぇ、真吾さんと伊織さんって何かあるの?」


 美咲に問われたけど、真吾の秘密を口にするのが憚られて私は言葉に詰まってしまった。


「真吾はずっと伊織のことが好きだったんだよ」


 貴俊さんがさらりと明かした事実に美咲は驚いたようだった。


「ちょっと真吾に連絡とってみるよ」

「ごめんなさい。出張から帰って来たばかりでお疲れなのに。あの、美咲も」

「いいんだよ。ハルカちゃんには本当にお世話になったからね。これくらいお安い御用だよ。それにもうすぐ家族になるんだから」


 貴俊さんはそう言ってすぐさま出かけて行った。

 その背を見送って、美咲は私の肩に置かれた手に力を込めて優しく微笑む。


「真吾さん、連絡くらいくれたらいいのにね……」

「うん」


 ほんとに。なんでもいいのに。「今日は晴れだな」とか、それだけでも。私のことを忘れてはないからねっていう、そのサインだけで十分なのに。


「真吾さんは今でも伊織さんのことが好きなの?」

「うーん。よくわからない」

「わからないの?」

「うん」


 付き合ってたって、以心伝心ってわけにはいかない。

 何を考えてるのかなって、探るような気持ちになることもある。考えれば考えるほど悪い方向に進んで凹んだり、「いやいやそんな事はないだろう」って考え直したり。周囲から見れば簡単なことでも、自分が中にいると見えないことっていうのは案外たくさんあるのだ。

 特に、自分のこととなるとからっきし鈍いらしい私には、わからないことだらけだった。

 

「……真吾さんの家で小さい時のアルバムを見せてもらったんだけどね」

「うん」

「真吾さんが生まれてまだ髪の毛も生えてないような時から伊織さんがそばにいるの。物心ついたときには好きだったって言ってた」

「ハルカはいいの? それで」

「うん。吹っ切れたって言ってたのは嘘じゃないと思うし。でも、やっぱり伊織さんが苦しんでるときはそばにいてあげたいんじゃないかな。家族としても、昔好きだった相手としても」


 そのふたつの違いがどれほどのものか、よくわからないけど。


「そっか。ハルカがいいならそれでいいけど。どっちにしても、何が起こってるのかは知りたいよね」


 美咲の言うとおりだ。

 本当は何が起こっているか知るべきだし、私自身知りたいと思っているはずだ。

 だけど、返ってきた答えが私の想像をはるかに超えるものだったとしたら。

 結局、私は怖いのだろう。

 だから連絡を待ちながら逃げているのだ。

 向き合うことから。

 貴俊さんは2時間くらい後に一人で帰ってきた。

 そして、かぶりを振った。


「連絡も取れないし、どこにいるかわからなかった。いつものバーに行ってみたけどもう帰ったって言われたよ。真吾の部屋にも寄ったけど返事はなかった。ただ、伊織には連絡がついたから、事情を聞いてきたよ。美咲にもハルカちゃんにも話して構わないって言われたから、話すよ」


 居住まいを正した。


「伊織が離婚を考えてるそうだ」


 頭が真っ白になった。




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