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accelerando  作者: 奏多悠香


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35 そよぐ秋風

 ――うげぇ。


 心の中で私がつぶやいたのと同時に、目の前に座る真吾が、手に持っていた紙束をバサリとテーブルに投げ置いた。


「あーめんどくせぇ」


 プロポーズを受けた次の週には、私と真吾は揃って私の家族に挨拶に行った。

 両親はあっけらかんと「娘をよろしくお願いします」の一言で片付け、一番上の麻姉は電話越しに「嫁に行くまでに整理整頓と料理の勉強を怠らぬように」という至極耳の痛い助言をくれた。

 厄介だったのは二番目の久美姉だ。私が真吾さんを伴って実家に帰ると聞きつけるや否や自分も絶対に同席すると主張して一歩も退かず、実家に先回りして玄関に仁王立ちしていたのだ。

 久美姉は真吾を見るなりフンと鼻を鳴らし「あらぁ、倉持商事の常務じゃありませんか。こんなところでお会いするとはぁ。私高垣コーポレーションで秘書をしています嘉喜久美子と申しますぅ」と厭味ったらしく慇懃に挨拶をした。

 真吾さんは姉の顔――いや、もしかすると体格と髪型――には見覚えがあったらしく、目を丸くしていた。


「倉持さんは覚えておいでかわかりませんが、パーティーで何度もお会いしました」


 お前の素行は知っているぞ、妹を毒牙にかけやがって! という思いが姉の全身から放たれていた。

 久美姉に根回ししておかなかった私も私だが、それにしてもこれは……。

 私は姉の放つ怒気にすっかりたじろいでしまい、言葉も出なかった。

 それなのに、姉の態度を受けた真吾は楽しそうに笑ってみせた。

 ひとしきり笑ったあと、仁王立ちをする久美姉の目をしっかりと見つめ、余裕の笑みを浮かべてこう言った。


「あなたを敵に回す勇気はありません。妹さんは必ず幸せにします。髪の毛が惜しいですしね」


 その意味深な言葉に私は久美姉と真吾を交互に見つめる。


「あぁら、あの場にいたってわけね」


 姉はまたもフンと鼻を鳴らす。


「ええ。重要な取引先である高垣コーポレーションの創業記念パーティーですから。もちろん招かれて参加させていただきました。嘉喜さんが……たしかに珍しい苗字ですが……まさかハルカのお姉さんだったとは。思いも至りませんでしたが」


 なおも笑いを含んだ言葉。

 創業記念パーティー?

 何のことだろう。

 ああ、もしかして久美姉が「高垣・春の陣」と言っていたのはそのパーティーでのことなのだろうか。高垣さんと眞子さんが婚約するきっかけになったという事件があったのは。久美姉は楽しそうだったけど、事の詳細は教えてくれなかった。「一応ね、いろんな人の名誉にかかわるし」とだけ言って。


 そっか、真吾さんは知っているのか。


「男に二言はないわね。何かあったらその牙引っこ抜いてやるから」


 そう言いながら姉は視線をちらりと落とす。

 真吾は視線の先をたどると、ぶるりと身震いをしてから頷いた。

 両親よ、姉の暴挙を止めてくれ。

 そんな私の願いも空しく、その後座卓を囲んで食事をしている間も、姉は胡散臭そうな目で真吾を見つめ続け、私は居心地が悪くもぞもぞとする羽目になった。


「久美子はハルカをずっと可愛がってたから。すみませんねぇ、シスコンで」


 母が眉をハの字にしてそう言うが、その目は「何コレ楽しそう!」と光っているのを私は見逃さなかった。何を隠そう、久美姉のこのぶっ飛んだ気の強さは完全に母譲りなのだ。一方の父は真吾さんのあまりのかっこよさに終始見惚れていて、お新香をつまんだ箸が時折鼻に運ばれていた。


「お父さんっ! そこ口じゃないよ!」


 そんな感じで終えた嘉喜家への挨拶だったから、真吾さんが「めんどくせぇ」と叫んだ時、私はもしかしてそれってうちの家族のことではないかとひるんでしまった。


「準備が超絶めんどくせぇ」


 ああ、そっちか。

 私は心底ほっとする。真吾さんの叫びの原因はどうやら私の家族ではなく、私の内心での「うげぇ」という呟きの原因と同じらしい。

 私は頷きながら苦笑した。


「倉持家と実藤家の結婚式でもうお腹いっぱいだ。その上に婚約披露のパーティーに食事会にご挨拶に……耐えられん」


 元々倉持商事の後継者である真吾が結婚するともなれば会社関係の偉い人をたくさん招かなくてはならない上に、貴俊さんの結婚式がサプライズ結婚式だったために会社関係の人を呼べなかったという事情も加わり、真吾の結婚式はかなり盛大に執り行われることになってしまった。


「ほんっとにめんどくせぇな」


 真吾はそう言うが、この人はそういう面倒には慣れっこのはずだ。パーティーだとかそういった場も楽しめる性格をしているし、中学生のころから何かと連れ出されていたと言っていたから。主役として振る舞うのだって、何の苦にもならないだろう。たぶん、私の気持ちを推し量ってくれているのだと思う。

 そして真吾のお母さんも。


「だめよ! だめ! 結婚式は絶対にするわよ! 私だって新郎の母親やりたいんだもの! 紀子さんばっかりずるいわよ! 私だって綺麗な着物でにこにこしたいもの!」


 真吾のお母さんは、式をめんどくさいと言った真吾に対して強硬にそう主張した。紀子さんというのは貴俊さんのお母さんのことだ。

 「新郎の母親をやりたい」だなんてそんな理由のはずはないのに、彼女が正面を切って私に「倉持家なのだから」と言ったことはなかった。そう言われるのが私にとってプレッシャーだとわかっているから。

 そんな一つ一つの配慮が有難くて、私は真吾の家族と会うたびにその全員に惹かれていくのだ。


「婚約披露のパーティーとか、いろんな人とのお食事会とか、正直めんどくさいって思ってたけど、真吾さんも真吾さんのご家族も温かくて大好きだから、その家族の一員になれるんだって思ったら楽勝で乗り切れそうだよ」


 私がそう言うと、真吾は無言で私の鼻の先っちょにキスをした。ずっとコンプレックスだったこの低い鼻だって、この人のキスを受けるたびに嫌いじゃなくなっていくのだから不思議だ。



***************



 あわただしい生活の中で迎えた十一月のある日曜、私と真吾は伊織さんのドレスサロンにいた。


「フルオーダーで頼むわ」


 真吾がテーブルの向こう側に優雅に座って微笑む伊織さんに話しかける。


「あら、フルオーダーで決まりなの? デザインたくさんあるけど」


 パンフレットを広げ、その上に置いたすらりと長い指をきゅっと伸ばして伊織さんが驚いたような声を上げる。


「ハルカは胸ないから通常サイズじゃムリなんだよ。胸にいろいろ詰め物縫い付けといて」

「ちょっと」


 私はすかさず文句を言う。

 ドレスをフルオーダーにするのは私の希望だ。理由は貧乳ではない。伊織さんのデザインしたドレスはどれも素敵で目移りしすぎて選べないほどだったから、気に入るものはいくらでも見つかるだろう。でも私はどうしてもフルオーダーしたかった。神々しい彫刻のような男の隣に立つのだ。一生に一度の結婚式くらい、後から振り返って「あの時は自分史上最高に美しかった」と言えるようにしたかった。

 その上胸まで大きく見せられるなら、これ以上のことはない。


「伊織さん、AAカップをIカップに見せることって可能ですか?」


 Iカップというところがやたらと具体的だったせいか、真吾が隣で忍び笑いを漏らす。


「もちろん。胸元にボリュームのあるデザインにしましょう」


 伊織さんは微笑んだ。白鳥みたいな伊織さんの笑顔なのに、私はその笑顔から目を離すことができなかった。いつも通り美しいけど、目を離せなかったのは美しさのせいではなかった。


「今日の伊織さん、ちょっと様子が変じゃなかった?」


 帰りの車の中で、真吾に尋ねてみた。

 目に見えてぼんやりしているとかいう風ではなかったが、笑顔が少しこわばっているように見えた。普段は完璧な弧を描く唇が、今日はどこか無理やり押し上げられたようで微かに震えていたのだ。


「……ハルカもそう思った?」


 私が気付くくらいだから、真吾は当然気づいていたのだろう。

 運転する真吾の横顔を見つめると、心配そうに口元が結ばれている。

 やっぱり、気になるんだろうな。心震えるほど好きだった人なのだから。


「真吾さん、話を聞いてみたら? 伊織さんの旦那さんはしばらくイタリアに出張って言ってたでしょ? あの様子で一人でずっと過ごすのは辛いんじゃない?」

「いや、でも……」

「私に気を遣ってるなら、それは気にしなくていいよ」


 ――真吾さんを信じてるから。


 口をついて出そうになったその言葉は飲み込んだ。

 それは「行かないで」と聞こえてしまいそうな気がしたから。


「じゃあ、ハルカも行こう」

「ううん。私は行かない」

「それなら俺も……」

「違うの、真吾さん。意地で言ってるんじゃないの。私がいたら話せないこともきっとあるよ。真吾さんは美咲と私のガールズトークに割り込む? そんなことしないでしょ? それと同じ」


 幼馴染という彼らの間柄に私が図々しく踏み込むのは、違う。

 それから少し考えて、言葉を付け足した。


「今日は自分の家に帰るね」


 そう言った私の表情を伺うように、運転席から静かな視線が送られてくる。

 気付いてはいても、そちらを向いてどんな顔をすればよいかわからず、私は頑なに前の道路を見つめていた。私が真吾の家で待っていたら真吾は落ち着いて伊織さんの話を聞けないのではないかと思って言ったことだったけど、余計な気を遣わせてしまう言葉だったかもしれない。


「ハルカが不安になるようなことはしたくない」


 いつもより低い声がゆっくりとそう告げる。

 その声に私の心は左右にゆらりゆらりと大きく傾ぐ。

 私は、不安なのだろうか。


「ううん。大丈夫」


 強がっているのかそうじゃないのか。

 自分でもよくわからないけど、その言葉が口をついて出た。だから、きっと大丈夫。

 別れ際、真吾は私の目をじっと覗きこんだ。私もじっと見つめ返す。形のよい瞳は暗く深くて、その奥には多くの感情が渦巻いていて、少し切なくなった。私はシートベルトを外してドアに手を伸ばす。後ろから追いかけるように真吾の長い手が伸びて私の体をぎゅっと一度抱きしめた。


「また連絡する」


 車を降りると、秋の風が髪を揺らした。

 きっと大丈夫だ。

 そう、言い聞かせた。




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