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accelerando  作者: 奏多悠香


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33/39

33 二次会にて

 感動的な披露宴も無事に終わり、二次会のためにみんなでぞろぞろと最上階のバーへ移動した。

 真吾が酔いつぶれていた、あの場所だ。

 足を踏み入れると、懐かしさに少しだけ心が揺れた。

 あの日の真吾の背中を、きっと私は一生忘れないだろう。

 切なくて、苦しくて。

 真吾が感じていたのと同じ片想いの苦しさを、私も抱えていたから。

 だから、わかったのかもしれない。お互いの気持ちが。

 そして不思議に、惹かれたのだ。

 プロポーズを受けたからなのか、なんだか少しだけ感傷的な気持ちになったところで、はたと思い出す。


 ――ダメダメ。今日は美咲と貴俊さんが主役なんだから。


 ふわふわ気分に浸っている場合ではない。自分の役割に集中せねば。

 二次会には披露宴に招待できなかった貴俊さんのお友達や美咲の友達が集まった。事情が事情なので当日の飛び入り参加も少なからずいて、貸し切ったバーはものすごい人数であふれかえることになった。真吾の財布で開催される二次会とあって、タダ酒目当てでやってきた輩もかなりいるようだということが、なんとなくわかったりもしたけれど。

 胸の中にほんの少しでも二人を祝福する気持ちを持ってくれていれば、目的の九十九パーセントがタダ酒でも別にいいと、真吾は笑っていた。

 私は入り口で来てくれた人の荷物や上着を預かったりという仕事をしつつ、後から到着する美咲をそわそわと待った。

 そしてやってきた美咲と貴俊さんの幸せそうな姿と言ったら。

 貴俊さんは、式場に駆け込んできた時よりも随分と若返って見えた。

 満面の笑みのおかげだな、きっと。

 貴俊さんがそんな風に笑う人だと初めて知って、心がぽかぽかした。

 真吾の音頭で始まった二次会はとても温かな雰囲気で、そこに参加しているだけで心が優しくなるような気がした。

 酔狂な計画も、うまくいった今となっては結果オーライ万々歳だ。

 真吾は司会として場を盛り上げつつ、あれこれと気を配っていた。ただでさえ目立つ容姿な上に一番目立つ役で動き回っているせいか、美咲の友人や会社の同期が真吾に向ける視線は春の彩を帯びている――


 ……そんな気がしてしまうこれは、もしかして嫉妬というやつなのだろうか。


 私は視線を手元に戻し、預かった手荷物の番号を書き込んでいくことに集中しようとした。

 三十八番の人は、黒いバッグとキャメルのジャケット。

 真吾の女性関係が派手だったことは知っているけれど、真吾がほかの女性と談笑している姿を見たことはほとんどない。美咲と話していることはあったけど、それが艶めいたものであるはずがないし。

 だからかな。初めて目にした光景に、なんとなくもやもや。

 そんな自分の小ささに気づいて思わず笑いをこぼしながらも、私の心はちゃんと穏やかだった。

 だって、今は婚約者。

 微笑みながら左手に視線を落としたその瞬間、手元にふと影が落ちた。


「ハルカさん……ですよね?」


 横から遠慮がちに声を掛けられてそちらに目をやると、見覚えのある男性が首を傾げて立っている。

 短く刈り込まれた頭に、縁なしの眼鏡。

 ああ、この人は、真吾さんの誕生日パーティーの時の……


「風間祐樹です」


 そう言って右手を差し出され、私はあわててペンを置いてその手を握った。


「嘉喜ハルカです。先日はご挨拶もせず、失礼いたしました」


 ご挨拶どころか、私は真吾さんに暴言を吐いた上に、ものすごい勢いで階段を駆け上がって逃げ出したのだ。第一印象はきっと最悪だろう。


「いいえ、こちらこそ失礼しました。どうやら僕らの会話が誤解を生んでしまったようで」


 風間さんは事も無げに言った。

 知っているのか、と私は苦笑しながらうなずいた。


「これを」


 そう言って風間さんが差し出したのは小さな紙袋だった。


「……これは?」


 紙袋があまりにも有名なブランドのものだったので、思わず身構えてしまう。


「あの日、靴を置いて行かれたでしょう? 拾っておいたんです」

「あ、わざわざ……ごめんなさい、すみません、あの、ほんとに申し訳ありません」


 拾っておいてくれたことも、持ってきてくれたことも、そしてあんな醜態を見せてしまったことも。

 全部恥ずかしくて、三度謝ってしまった。

 私が慌てて紙袋を受け取ると、風間さんはおかしそうに口元を結んで私を観察していた。その表情には嘲るような感じも下卑た色もなくて、ただ純粋な興味だけが浮かんでいる。


「いや、いいものを見せてもらいました。あいつが女性に罵られたり、平手打ちを食らったりするのは珍しいことじゃないけど……」


 そう言って風間さんは遠い目をして笑う。

 それから私に視線を戻した。


「でも、あんなに焦って女性を追いかけることがあるなんて。あいつとは小学生の時からの友人ですが、あんな姿を見たのは初めてです」


 風間さんは私が作業をしている机の端っこに腰を掛けるようにもたれて腕を組み、楽しそうに笑う。私と風間さんは机を挟んだ位置にそれぞれ立っていて、二人で同じ方向を見ていた。

 知らなかった。

 追いかけてくれたんだ。

 そう思って、ついつい口元が緩んでしまう。

 あの日私は眞子さんの家に直行したきり家には戻らなかったので、真吾はきっと私を見つけられずにやきもきしたことだろう。

 やきもきさせてしまったことは申し訳ないんだけど、そんな風に必死な姿を見てみたいとも思ってしまう。性格、悪いかな。


「あれ、聞いてませんか? あいつ、あなたを追いかけて店から飛び出しちゃって、結局帰ってこなかったんですよ」


 風間さんが首だけをこちらに向けた。


「え? 主役なのに、ですか?」

「そう、主役なのに。まだケーキも切ってなくて、もうすぐ午前0時、さぁこれからってところで主役が退場」


 そう話す風間さんは本当に楽しそうで、私を責めるような様子は全くなかったけど、私はそれを聞いて蒼褪めた。

 どうやらパーティーを台無しにしてしまっていたらしい。自分のことで必死でそんなこと考えもしなかった。

 ああ、もう。

 こういう直情径行なところが本当に、私のダメなところだ。


「ごめんなさい」


 私がそう言いながら頭を下げると、風間さんはにっこりと笑った。


「集まって飲むのが楽しくてやってるようなところもあるので、その後は皆テキトーに飲んで楽しんでいたし、全然困らなかったんですけどね」


 そう言ってからおかしそうに顔をゆがめる。


「でもあいつ、そのまま飛び出しちゃったから、みんなからもらったプレゼントが会場に置き去りだったんですよ。それで、そのままにしておくわけにもいかないからと、翌朝早くに僕が奴の家に届けたんです」


 そう言ってから風間さんは腰かけた机にぐっと体重をかけるようにして屈み、私の耳に顔を寄せて「あいつ、何してたと思いますか」と言った。

 なんだろう。ふて寝、とか?


「たぶん一晩いろんなところを探し回ったんじゃないかなってくらい、疲れ切った姿で」


 風間さんは静かに微笑んでから、口元を片方だけかすかに持ち上げた。


「これ、内緒ね」


 そう言って唇に人差し指を当てる。


「ひとりで料理をむさぼりながら、泣いてたんです」

「料理を?」

「そう、口いっぱいに詰め込んでもぐもぐしながら顔ぐちゃぐちゃにして泣いてました。あんな姿を見たのは初めてですよ。いやぁ、気分良かった」


 顔をぐちゃぐちゃにした真吾なんて全く想像できない。いつも涼しげに笑っているか、時折口の片側を持ち上げて悪戯っぽくにやりとしているのに。伊織さんのことで泣いているときですら、ほろりと涙が零れ落ちる程度だった。

 そっか、泣いていたのか。

 私のことが原因で、心がちゃんと揺れていた。

 苦しめてごめんという気持ちが半分と、自分が彼の心を揺らすだけの力を持っていることを嬉しく思う気持ちが半分と。やっぱり私、性格悪いのかもしれない。


「風間さんって、真吾さんの昔の彼女のこともご存知なんですよね?」


 私がそう言うと、風間さんは驚いたように机から腰を浮かせ、体ごと私に向き直った。そして真吾の方をちらりと見てから、流し目を輝かせて言った。


「聞きたいですか?」


 薄い唇がいたずらっぽい弧を描く。

 私は無言でにやっとしてからうなずいた。

 店の奥に立っている真吾は、大勢の女の人に囲まれているせいで頭しか見えなかった。

 さっきから女性たちに囲まれて愛想を振りまいているのを見てちょっともやもやしてたんだ。これくらいの憂さ晴らしは、許されるよね?


「さっき『女性に罵られたり、平手打ちを食らったりするのは珍しいことじゃない』っておっしゃってたので、ちょっと気になってしまって」

「でも……不愉快な気持ちになるんじゃないですか? またお二人の揉め事の種になるのは避けたいんだけどな」

「大丈夫ですよ」


 私はそう言って笑みを浮かべる。


「おっ、余裕ですね」


 私は黙って左手を差し出した。薬指には、真吾からもらった指輪。ダイヤモンドが燦然と輝いていた。風間さんは合点がいったというように頷く。


「なるほど。もう婚約者ってわけか。あいつ、いつの間に」

「貴俊さんと美咲の結婚式のすぐあとです」


 私が情けない叫び声を上げた後、真吾はどこからともなく小さな箱を取り出して、この指輪を薬指にはめてくれたのだ。


「そりゃあ不安もなくなるわけだ。じゃあ遠慮なくバラせますね。何から聞きたいですか? 俺はたぶんほとんど全部把握してるんじゃないかな。数えてたくらいですから」


 真吾の過去の数をカウントしていた友人というのは、どうやらこの人だったらしい。

 風間さんは腕を組んだまま肩を回して気合いを入れるような仕草を見せる。真面目そうな顔に似合わず、とても楽しい人だ。


「それじゃあ手始めに、真吾さんのタイプってどんな女性なんですか?」


 そういうと、彼は驚いたように一瞬身を引いた。


「んー……タイプ、かぁ。全く一貫してないからなぁ。あいつの恋愛の基本スタンスは『来るもの拒まず去る者追わず』だから。その上、来るものが複数でも気にも留めない」


 えっ。


「本当に、何度修羅場に遭遇したことか」


 えっ。あの人、浮気したことはないとか何とか言ってなかった?


「同時並行でいろんな子と付き合っちゃって、女性同士の死闘があったり。なかなか刺激的な日々でしたよ。まぁ、傍から見てる分にはなかなか楽しかったけど。本人はすごくめんどくさそうで」

「ええと……それって、二股ってことですか?」

「中学高校の頃の恋愛って、可愛いものじゃないですか。付き合っているといっても二人で一緒に帰ったりデートしたりするくらいのもので。同じ方向だから一緒に帰るとか二人で食事に行くとか、大人になれば付き合っていなくても普通に起こるような状況が、あのころは特別に感じられるというか」

「はぁ」

「それで、たぶんあいつは早い段階から大人の感覚だったんだと思うんですよね。だから、二股をかける気はないけど、『一緒に帰ろう』とか誘われたら普通について行っちゃうし、『遊びに行こう』って言われたら行っちゃう。で、揉める、と」

「あー、なんか、わかる気がします」


 揉めている女性の姿や、それをめんどくさそうに眺める真吾少年の姿を想像して、思わず笑ってしまう。

 何てちゃらんぽらんなんだ。

 そういう奴、私の中学にもいたな。


「だから本人には二股の自覚はなかったみたいで」

「なるほど」

「ハルカさん、随分と楽しそうですね」

「だってこんな話、本人は絶対教えてくれないですから」

「……当たり前だろう。誰がそんな話教えるか」


 少し離れたところから邪悪な声が聞こえ、私は慌てて振り返った。

 

 ――げっ。


 あわてて風間さんの方を見ると、彼はにこにこと笑っている。

 あっ真吾さんが近づいていることに気づいていたな、この人。


「祐樹。貴俊とみんなで写真撮るってさ。お前も来い」


 ひっぱられるようにその場を去る風間さんに、もう一つだけ質問を投げる。


「あ、風間さん、もしかしてI-65のバストを持つ女性、ご存知ですか?」


 風間さんは急に真面目な顔になった。

 そして真吾の方を見やる。


「うわぁ。真吾、もしかして……」

「お前、これ以上余計なことを言うんじゃねぇ。婚約破棄されたらどうしてくれるんだ」

「すまん」


 二人を目で追っていると、奥の方で貴俊さんと大勢の男性陣が写真を撮っていた。

 それを見て明るい気持ちになりながら、ふたたび手元の番号表に視線を落としたところで、横から艶やかな声がかかった。


「あなた、真吾と付き合ってるんですって?」


 顔を上げると、妖艶な美人が微笑んでいた。

 三十代前半くらいだろうか。前髪を掻き上げる仕草に自信とエロスがあふれている。


「あ、はい」


 とっさに左手を机の下に隠してしまった。何となくだけど、知られない方がいい気がしたから。


「お仕事は何をされているの?」


 唐突な問いかけに、思わず眉がぴくりとした。

 初対面だというのに、随分と不躾な物言いだ。


「会社員です」

「ご両親は?」

「ええと、父は会社員で母はパートです」


 彼女は目を眇める。


「ご兄弟は?」

「姉が二人おりますが」

「何をされているの?」


 尋問のようなペースで矢継ぎ早に繰り出される質問に気圧されつつも、私は努めて冷静に返した。


「大変失礼ですが……あなたのお名前も存じ上げないのに……」


 名前も名乗らずに他人の家族構成やその仕事を聞き出そうと言うのはあまりにも失礼ではないか、という思いを言外に込める。いや言外っていうか、普通に漏れ漏れだったと思う。

 しかし決して嫌な言い方にならないよう、必死で感情を隠した。

 うまくやれているはずだ。口元には微笑を浮かべ、目尻を少しだけ下げて顔を作る。


「あら、ごめんなさい。自己紹介がまだだったわね。私、芹菜と言います」

「セリナさん」

「ええ。ちょっと苗字は…ごめんなさいね。父がある企業の社長で、あまりこういう場で名を明かしたくはないの」


 何を言っとるんだ、何を。

 名を明かしたくないなら、父親の職業だって明かす必要なんかないじゃないか。

 名を知られたくない本当の理由は、自分がその名に恥じるようなことをしようとしているという自覚があるからだろうに。


 心の中でそう思いはするものの、そういうのを表に出すとややこしい上に、心の中で意地のようなものがむくむくと首をもたげ、不自然な冷静さを作り出す。


「そうですか。私はハルカと言います」


 そう言うと彼女はくすくすと笑った。


「あら、あなたは別に苗字を隠す必要なんてないでしょう?」

「ええ。でも、お教えする必要も感じませんから」


 なぜ名しか名乗らない相手に自分だけフルネームを教えないといけないのだ。

 苗字を教えないというのは、相手に対してひとつ大きな壁を作っていることを示すものだ。自分はその壁の向こう側にいるくせに、相手には苗字まで名乗れなんて、ちょいと馬鹿にしすぎだろう。


「あなたは、ご自分が倉持家にふさわしいとお考えなのかしら?」


 ふむ、なるほど。

 私の家族のことを知りたかったのはこの一言に確かな裏付けが欲しかったからってわけだ。私は倉持家にはふさわしくないという裏付けが。


「それは、セリナさんご自身は私が倉持家にはふさわしくないとお考えだということですね?」


 私の返しは予想外だったようで、セリナは顔を隠すように髪をもう一度掻き上げた。


「別にそうは言っていないわよ」


 一つ一つの言葉の後に漏れ出る吐息のようなものが妖艶さを際立たせている。

 ふうむ、エロい。

 ほんのちょっとだけうらやましいだなんて、思ってないったら思ってない。


「それなら、何の問題もありませんね。ふさわしいかどうかは、私たち二人の問題ですし」


 一瞬セリナの口元が震えた。

 能面のような美しい顔を一瞬でも崩せたことに満足し、私は思わずにこりとしてしまう。

 気の強さと性格の悪さなら負けんぞ。

 少しだけ血の気の引いた顔で、セリナは言った。


「正直言って、私はあなたと彼が長続きするとも思っていないし、構わないのだけど。ただ興味があったの。誰が見ても釣り合わないような相手と付き合うのってどんな気分なのかしらと思って。月とスッポンって言うのかしら? そういうのって重荷になったりしないのかしらと。それで、つい知りたいと思ってしまっただけなのよ」


 つまり、お前では釣り合わないぞ、ということをご丁寧に教示くださろうとしているらしい。

 だが残念ながら、その壁はもう乗り越えてしまっているのだ。

 腹は立つが、それだけだ。

 この言葉に心を乱されることはない。


「どうでしょうね。私は容姿がさほど恵まれているわけではなく、街を歩けば容易に人ごみに埋もれてしまいますし、何かずば抜けた才能があるわけでもない。それに、倉持家に匹敵するような家柄に生まれたわけでもありません。でも、そのことがむしろ私の自信につながっていると言いますか……」

「自信?」


 私は伊織さんと旦那さんを初めて見た時のことを思い出していた。

 伊織さんの旦那さんは、真吾さんのようなずば抜けた容姿も自信に満ち溢れたオーラも持ってはいなかった。それでも旦那さんを選んだ伊織さんの気持ちを、私は「本気」だと思った。どちらがより素敵だとかそういう問題ではないのだと悟って。


「容姿や才能、家柄……欲しくないと言えば嘘になります。思春期なんて特に、かわいい子や才能のある子、お金持ちな子、そんな子がうらやましくてたまらなかった」


 あなたのその容姿も。

 妖艶で、美しくて。

 出会ったのが十年前だったなら、きっと喉から手が出るほど欲しかっただろう。


「そういうものを持って生まれた人を『恵まれている』と思いますし、真吾さんは恵まれている人です。一方の私はそう言ったものには恵まれませんでした。それなのに、真吾さんが私と付き合う理由は何だと思われますか?」


 彼女は首を傾げている。


「私にもわからないんです。ただ一つだけ確かなことは、容姿でも才能でも家柄でもないということなんですよ。人ごみに入れば埋もれてしまう私を真吾さんは選んだんです。すごいことだと思いませんか? 埋もれてしまう、どこにでもいるような私を選ぶ理由を、真吾さんは持っているんです。私にはわかりません。でもわからないからこそ、その気持ちが愛しいと、私は思っています。飛びぬけて美しいわけでもないたくさんの雑草の中からたった一本を手折るその瞬間を、人は運命と呼ぶのかもしれません」


 彼女は唖然としていた。

 肩に暖かい手が触れる。振り返らなくてもわかる。真吾さんの手だ。私はその手に自分の手を重ねた。


「やあ、風間さん」


 セリナの苗字は風間と言うらしい。


 ……えっ風間?


 同じ苗字の人にさっき出会ったところなんだけど。


「久しぶり。元気だった?」

「あら、真吾。どうしてそんなに他人行儀なの? いつもみたいに、芹菜さんって呼んでくれていいのに」


 セリナはそう言って髪をまたかき上げる。

 この男、やはりそこかしこでファーストネーム呼びを多用しているらしい。

 だいたい、そんなだからもてるんだ。どんなにかっこよくても、硬派でちっとも靡かなければ徐々に人はあきらめるのに。期待させるから寄り付くのだ。

 ぎろりと睨みつけてやりたくなったが、おとなしくしておくことにした。


「ハルカが苗字を知りたがってたみたいだからさ」


 真吾は余裕綽々と言った様子でその妖艶なほほえみを躱した。

 そんなに前から聞いてたならもう少し早くご登場願いたいところだと、ほんの少し苛立った。


「ハルカ、こちら風間芹菜さん。さっき話してた風間祐樹のお姉さんだよ。祐樹とは小学生の頃からの付き合いだからね。一緒に遊んでもらったりしてたんだ」


 真吾は後ろから私の耳元に顔を寄せてそう告げた。

 首筋が泡立ってしまうので耳の近くで美ボイスを披露するのはやめてほしいし、こんなに大勢の人がいる場所でこの人はいったい何を考えておるのだ。


「あら、でも大人になってからも交流があるのよ?」


 セリナは少し肩を揺らすようにして言った。肩を揺らすと胸も揺れるってわけか。揺れるものなんて持ってない私としてはその仕草ひとつが死ぬほどうらやましくて涙が出そうになる。


「ハルカさんは、真吾の家にも遊びに行ったことあるのかしら? 素敵なお部屋よね」


 私は真吾の家にも行っちゃうくらいの深い仲ですよ、というアピールらしい。

 絶妙に嫌がらせとわかりにくいラインをついてくる人だ。


「ハルカはもう半分うちに住んでるようなもんだからな。来たことがあるどころじゃないよな」


 真吾がさらりと笑った。

 顔が、必要以上に近い。

 明らかに、近い。

 たぶん見せつけてやろうという邪な思いが込められているせいなのだろうけど、それにしても、近い。

 真吾は私の後ろにぴたりと張り付いて、背後から私を抱き込むように腰の前に手を回している。

 ドキドキするから、やめてほしい。


「あら、そうだ。私、真吾の家に忘れ物しちゃって……下着……」


 まるで今思い出したみたいに、セリナは言った。

 正直、この人は相当な大根役者だ。

 ずっとこの話を持ち出す機会をうかがっているのがありありと見えていた。私の心にダメージを与えるために。

 この人こそ、I-65の持ち主だ。話し始めた時から胸の大きさで何となくそんな気がしていた。

 さっき風間さんが「すまん」と言ったのは、「うちの姉がすまん」という意味だったらしい。


「ああ、あれ、芹菜さんのだったんだ。誰のかわからなかった」


 真吾が驚いたような声を上げるが、背中から伝わってくる微かな振動が、真吾の言葉が嘘だということを雄弁に物語っていた。

 なんだ、あのランジェリーの持ち主、やっぱり知ってたんじゃない。


「ええ。今度取りに行くわね?」

「いや、ごめん。俺が捨てちゃったから」

「え?」

「忘れ物かなぁと思ったけど、人の家のタンスの中に忘れ物していく人って聞いたことないし、気味が悪かったから」


 気味が悪いまで言わなくても、と思ったけど、振り返ろうにも体をがっちりホールドされていて動けないので、真吾の言葉をただ突っ立って聞いているしかない。


「あ、そうそう、あと、ハルカの苗字は知る必要ないよ。どうせ近いうちに倉持になるから」


 真吾が放ったその言葉に、今度こそセリナは青ざめた。


「それって……」

「うん、やっとのことでOKもらえたからね。結婚するんだ」

「それ、倉持のおじ様やおば様はご存知なの?」

「もちろん。とっくに紹介してあるし、結婚したいってことも伝えてあるよ。プロポーズがうまくいった話まではまだしてないけど、まだなのかってせっつかれてるくらいだから歓迎してくれるだろ」


 セリナはもう返す言葉もないらしく、形のよい唇を少しだけ開いて呆然と私の背後の人を見つめている。唇にひかれた真っ赤なルージュが小刻みに震えていることに、背後のこの男は気づいているのだろうか。


「おお、姉貴。こんなとこに居たのか。婚約指輪、見せてもらった?」

 風間祐樹さんが人ごみを縫うようにして現れ、私の左手を取って芹菜の前に差し出す。

「おい、祐樹。気軽にハルカに触るんじゃねぇ」

「おお、怖い」


 風間さんと真吾が笑いあうその前で、セリナはただただ呆然としていた。

 その様子を見ていたら、急に目の前の女性がかわいそうになってきた。

 きっと真吾のことを本当に好きだったのだろう。私に嫌味を言ってくるやり口の汚さは決してほめられたものじゃないが、恋愛で人がどうしようもなくバカなことをしでかすのは世の常だ。

 もしかしたらこの人だって、実はそんなに嫌な人じゃないのかもしれない。同じ人を好きになるっていう不幸な巡り合わせさえなければ、友達にだってなれたかもしれない。

 だけど私がかけてあげられる言葉はなく、私はただ黙って真吾の腕の中に納まっているしかなかった。

 っていうか、私に言葉なんてかけられたくもないだろうし。


「姉貴、あっちで飲もう」


 風間がセリナをそっと連れて行く。さっきとは打って変わって沈み込んだようなその背中を見送ってから私はくるりと体を反転させた。真吾の腕が緩む。


「ちょっと、真吾さん」


 私のドスの効いた声に、緩み切っていた真吾の顔が引き締まる。


「何?」

「あの人もワンナイトガールにしちゃったってこと? 友達のお姉ちゃんで、しかも自分のこと好きな人をよくそんな風に扱えるね!」


 睨みつけると、真吾はすぐに首を振った。


「いや、さすがにそれはない。芹菜さんのことはずっと断ってきた。でも、古い知り合いで祐樹の姉さんでもあるからあんまり邪険にもできなかったんだよ。祐樹もそれ知ってて、いつも謝られてたんだ。下着はたぶん、うちにDVD借りに来た時にでも入れて行ったんだろ」


 そう言ってため息をつく。


「ふぅん。モテる男の悲哀ってやつですか」


 真吾はその言葉に、苦笑いで答えた。


「まぁいいや。一応、助けに来てくれたんでしょう。ありがとう」


 セリナさんがそういう相手ではなかったと知って心のどこかで安心している自分もいるし。


「ハルカが負けないっていうのはわかってるけど。一応ね」

「司会の仕事ほっぽり出してきて平気なの」

「今はテキトーに写真とか撮ってるから大丈夫だよ。ああ、でも最後に大仕事が残ってるからちょっと行かないと」


 そう言って真吾は私の額に軽いキスを落としてから、新郎と新婦が並んで座る席の隣に据えられたマイクのところに歩いて行った。

 わたしは同期がわさわさと話している輪に加わった。

 「美咲玉の輿だねぇ。いいなぁ」という声が聞こえて、思わず自分の左手を隠してしまう。

 グラスをスプーンで軽くたたく音が響き、真吾の声が響いた。


「皆さま、お楽しみいただけておりますでしょうか。飲みすぎで皆が記憶をなくしてしまう前に、美咲ちゃんと貴俊の結婚式を大成功に導いてくれたメンバーを私から紹介させていただきます」


 えっ聞いてないよ。

 真吾と新郎新婦を取り囲むように人垣ができ、私はそわそわと移動して人垣の外側に出た。


「まず、伊織」


 前に立つ人の頭が邪魔で姿は見えないが、伊織さんが歩み出たのだろう。人垣からほーっというため息のようなものが漏れた。


「貴俊の幼馴染で、美咲ちゃんのドレスをデザインしたドレスデザイナーであり、貴俊が結婚式に乱入してくるように日付などをこっそり教えた仕掛け人でもあります」


 歓声と拍手が沸き起こる。


「次に、片瀬夫妻。二人とも披露宴の後帰ってしまったのでここにはいませんが……何と当日になって貴俊から片瀬さんに電話が入り、結婚式に乱入すべきかどうかを相談されるという予想外の展開でしたが、片瀬さんの最後の一押しのおかげで貴俊は走りだし、無事にチャペルに駆け込んできました。まさかのキャストですが、今日参加してもらえて、貴俊の新しい門出を見守ってもらえてよかったんじゃないかな」


 また拍手が起こる。美咲が破顔しているのを見て、こっちまでうれしくなる。貴俊さんと会ったの、久しぶりなんだもんね。隣にいるだけで幸せなんだろうな。


「それから、俺」


 出た出た、オレ様。

 親指を立てて自分に向けるその仕草がなんだか子供っぽくて、なのに目が離せなくなってしまう。すっかり毒牙にかかってるなぁ、私。


「そして、そんな俺を支えてくれたハルカ」


 にやけていたら唐突に自分の名前を呼ばれ、私は人垣の中で小さくなる。


「おい、見えてるぞ。出てこい」


 マイクを通してもなお美しいその声に言われては従わないわけにもいかず、私はおずおずと進み出る。人垣がぱかりと開いて私を通してくれる。うう。逆に恥ずかしい。これなら最初から前にいればよかった。


「ハルカは新婦の美咲ちゃんの親友として、家族の顔合わせなどにも参加してくれて……」


 それだけじゃねーだろ! とどこかから声が上がる。


「途中からは、美咲ちゃんの親友としてだけでなく俺の恋人としても、この計画を支えてくれました」


 うおおーっと野太い声が上がり、私は恥ずかしくて俯いたまま顔を上げることが出来なかった。


「今後は妻として支えてもらうことになりますので、まぁ、みなさん、ひとつよろしく」


 同期の塊からはえーっという声が上がり、貴俊と真吾の友人たちからは囃し立てるような声が上がり、真吾さんのファンらしき女性陣からは黄色い悲鳴が上がり、私はいたたまれなくなった。

 そろりとその場を抜け出そうとした私の腰を真吾ががっちりと捕まえた。


「逃げるなよ。お前を追いかけるのはもうたくさんだ」


 まだマイクを切っていなかったため、その声が周囲のボルテージを最高潮に押し上げた。

 背中がぱっくり開いているドレスなんか着ているせいで真吾の腕が直接腰に触れるし、わけのわからない状況で恥ずかしいし、今日の主役は私たちじゃないのにという思いが頭をぐるぐると回るし、披露宴で出たシャンパンが私の大好きな銘柄だったのでつい飲みすぎてしまったし。

 理由はたくさんありすぎてどれだかわからなかったけど、頭に血がのぼった私は逃げるかわりにその場で意識を失ってひっくり返ったのだった。




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