29 再々・逃げ惑う私
「ハルカちゃん? どうしたの?」
眞子さんが驚いた様子で玄関を開けてくれた。
「ごめんなさい眞子さん。あの……今、大丈夫ですか」
「大丈夫よ。結婚式の打ち合わせで彼がいるけど、平気?」
「うわっお邪魔しちゃってごめんなさい!」
「ううん。全然気にすることないの。入って入って」
わたしが躊躇っていると、奥から男の人が姿を現した。大っ嫌いだった、「眞子さんの彼氏カッコ過去形」だ。彼はその後「カッコ過去形」の座を返上し、今では眞子さんの婚約者となった。久美姉が「高垣・春の乱」と呼んだ騒動の果てに婚約が決まったのだという。
「突然お邪魔してすみません……あの、嘉喜ハルカといいます」
「うん、久美の妹さんでしょう。どうしたの? そんなに濡れて。上がって上がって。って言っても俺の家じゃないけど」
眞子さんに服を借り、着替えた。乾いた服が柔らかく体を包んでくれているというのに、肌がぴりぴりと痛む。
「ハルカです。いつも姉がお世話になって」
「高垣聡史です。眞子の婚約者です」
着替えを終えて落ち着いてから、改めて高垣さんに挨拶をした。
「もちろん姉から伺っています。ご婚約おめでとうございます。やっと、ですね」
「うわぁ、棘があるなぁ」
「姉から伺ってますって言ったでしょう」
「久美は一体何を吹き込んだんだ」
「全部です」
私の言葉に、高垣さんは苦笑した。
「そういうところ、久美によく似てるな」
「眞子さんは私の三番目のお姉ちゃんなんです。絶対に悲しませないでください」
これ以上、という言葉は飲み込んだ。
「うん。頑張るよ」
そういってうなずいた高垣さんはどこか誇らしげで、会ったこともないのに一方的に嫌っていたことが恥ずかしくなった。
「それで、ハルカちゃん? 久美に連絡した方がいい?」
眞子さんが携帯を片手に聞いてくる。
「あの……最初は久美姉の家に行こうと思ったんですけど……久美姉怒りそうだから……」
「何があったの?」
急に眞子さんの顔が険しくなる。
今日が倉持真吾の誕生日会だということを彼女は知っている。
だってドレスを借りたのだから。
「背中がこんなに開いてるドレスなんてもう着る機会そんなにないし、ぜひ着てやって」と言って快く貸してくれたそのドレスは、セクシーですごくきれいだった。
「あの、ドレス、雨に濡れちゃって。ごめんなさい」
「大丈夫。専門のクリーニングに出しておくから」
「クリーニング代、払いますから」
「いいのいいの。もともと久美が買ってくれたものだし」
「そうだったんですか」
「後から俺が払うって言っても絶対に頑として受け取らないんだ。あいつにはトラック一台分くらいの引き出物渡さないと」
「この15年を考えると、それでも足りないくらいよ」
姉がこの二人に一体どんな魔法を使ったのかわからないが、こんなに感謝される姉が誇らしかった。
そして、幸せそうなお二人が眩しかった。
「とりあえず、何があったか聞いてもいい?」
「あ、俺外そうか?」
「いえ、あの、大丈夫です。すぐに終わりますから。短く言っちゃうと、呼ばれてもいないのに彼氏の誕生日パーティーにこっそり顔を出したら、そこで彼が私の悪口を言ってるのを聞いてしまって」
「悪口?」
「友達に会わせるのが恥ずかしいとか、会うのが苦痛だとかそんな感じの」
「うわっなんだそれ」
高垣さんは顔をしかめた。
「いや、しょうがないんですよ。わかってたんです。彼氏、すごい人なんですよ。彫刻みたいな顔してて、かっこよくて、モテモテなんです。だから、あの、つりあってないんですよ。だからしょうがないんです」
腹を立てていたはずなのに、高垣が非難の声を上げた途端にかばってしまう。
そうか、私は腹を立てていたわけじゃないんだ。傷ついただけで。
「……高垣さん、倉持真吾ってご存知ですか?」
「知ってるけど……え、もしかしてハルカちゃんの彼氏って倉持なの?」
高垣さんは目を丸くした。久美姉が「いっつも美人連れてパーティーに来る」と言っていたから、この人も当然真吾のそういう場面には何度も出くわしているはずだ。
「そうです」
「なるほどね……それで……」
「それで?」
「いや、こっちの話。彼のことは知ってるよ。というか、俺たちの世界で倉持家を知らない人はいないよ」
「そんなに……ですか」
「そうだね。あそこは桁違いだからね」
「そんなに……」
金持ちだということは知っていた。
でも、私は結局よくわかっていなかったのだ。
世界が遠すぎて。
本当はあのパーティーに足を踏み入れた瞬間から、心臓が奇妙な揺れ方をしていた。
バーを貸し切りにして、
部屋中に風船を浮かべて
きらびやかな服を着て
シャンパンを飲んで
大きなスクエアのケーキを囲んで。
三十一歳の誕生日をそんな風に祝う人なのだ。
私は階段の下に積まれたプレゼントの山を思い出した。
十二歳の女の子の誕生日でも、あんなに豪華には祝わない。
世界が違ったのだ。
どうして今頃気づくのだろう。
知っていたはずなのに。
美咲に手伝ってもらって私が作った飾りなんて、あれに比べたらただの子供だましだ。私のケーキなんて、プロのパティシエが作ったケーキに比べたら粘土細工みたいなものだ。真吾があれを目にする前に、全部くちゃくちゃに丸めて捨ててしまいたかった。あれで喜ばせようなんて思っていた自分が無性に恥ずかしくてみじめだった。
「ハルカちゃん」
大嫌いだったはずの御曹司、高垣さんに背中を撫でられながら私は子供みたいに泣いた。
声を上げて泣いたのなんて、いつぶりだろう。
どこをどう間違ったのだろう。
眞子さんを苦しめる高垣さんが嫌いで。
だから金持ちのボンボンって大嫌いで。
その上チャラ男なんて最低だと思っていて。
オレ様なんてムカつくだけだと思っていた。
それなのに、オレ様でチャラい御曹司と付き合って。
案の定傷ついて。
その私を慰めてくれるのは、私のボンボン嫌いの元凶の高垣さんで。
鳴り続ける携帯の着信音なんて、もうどこか違う世界から聞こえてくるみたいな気がした。
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それから「追う超絶イケメンと逃げ惑う凡人」が社内で再び噂の的となるまでに、ほとんど時間は要しなかった。
今日も今日とて受付嬢から内線が入るのだ。
「嘉喜さん……あの……」
「嘉喜さん……また、その……」
「嘉喜さん……今日も……」
遠慮がちにそう言うが、明らかに楽しんでいるのが声から伝わってくる。噂好きな社内では、どうせまた昼ドラも霞むような素敵なドロドロ恋物語が作り上げられているに違いない。
美咲からも電話がかかってきて「真吾さんと何かあったの?」と聞かれる始末だ。
ドレスの最終チェックで伊織さんのドレスサロンに行くのに真吾が車を出したらしく、その道中真吾はずっと浮かない顔をしていた上に、ドレスサロンで伊織さんと口喧嘩になったらしい。
「私が試着室に入ってる間に始まったから原因はわからないけど、スタッフの人が間に入るまで結構激しい喧嘩だったよ」と美咲は言っていた。
美咲は何も知らないのだから仕方ないが、伊織さんの名前を聞くと少し胸がちくりと痛んだ。あのきれいな人には、やっぱりどうしたってかなわないから。
妙な噂のせいで社食にも顔を出しにくくなったので席で軽食を食べつつ仕事を続け、終業時刻になってようやく一つ伸びをした。
課長がいぶかしげな視線を投げて寄越す。
「お前、倉持常務と付き合ってるんじゃなかったのか。何でまた逃げてるんだ」
「課長には関係ありませんよ。放っておいてください。吉井さんに怒られても知りませんよ」
「あいつはそんなことで怒るようなやつじゃない」
「あーはいはい、ごちそうさまでーす。じゃ、お先に失礼しまーす」
去年の秋にもらったたくさんの変装グッズがまだ会社のロッカーに詰め込まれていたので、ここぞとばかりに使わせていただいた。
今日は真っ黒のボブのウィッグだ。そして、誰からもらったのかも覚えていない黒縁のごつい眼鏡をかける。
その恰好で非常階段を駆け下り、非常口から颯爽と飛び出す。
私の逃げ方は日を追うごとに巧妙になっていくし、超絶イケメンの人気は日に日に増して真吾を取り囲む人垣は分厚くなっていくし、真吾はどうやら忙しいらしく毎日は来られないとあって、私の逃げ惑い大作戦は今のところ私の勝利だった。
「お前は本当に逃げの一手なんだな。子供じゃないんだからちゃんと向き合えよ」
ある日の始業前、課長に言われて私は無言であっかんべーをする。
去年の秋に戻りたかった。
あの時はもっと楽しかった。
私をなかなか捕まえられずにじりじりと苛立つ御曹司を見てほくそ笑んでいた。
でも、今はただひたすらに、胸が痛い。
私、もう結構傷ついたと思うんだもん。これ以上傷ついたら、やっぱり立ち直るのに時間がかかっちゃう気がするからさ。
だから、放っといてほしいのだ。話なんて、聞きたくないのだ。
その日の終業時刻すぎ、課長に一本の内線電話がかかってきた。
「あ、俺の客だ。通して」
それからほどなくして、背後から信じられないほど黒いオーラを感じて振り返ると、瘴気を漂わせている御曹司がそこに居た。
見たこともないほど真剣な眼差しで私をまっすぐに見つめ、閉じた口からは今にも唸り声が聞こえてきそうだった。
本能的に全身の毛が逆立つのを感じた。
――ああ、やば。これは逃げないと。
裏切り者の課長はそっと姿を消す。
叫びたくなった。
やだ! やめて! こんな怖い顔した人と二人ぼっちにしないでよ!!!




