28 夏の嵐
春が近づくにつれ互いに仕事が忙しくなったせいもあって、真吾と会う頻度は少なくなりはしたものの、それでも週に1度か2度は夕食を共にし、時々真吾の家に泊まることもあった。
真吾の家で過ごしていると時折おどろくべき場所から女性の所持品らしきものが発見されて度肝を抜かれたけど、それ以外は至って平和な日々だった。
トイレの戸棚や食器棚の引き出し、ベッドの下、DVDケースの中。そういう場所に巧妙に置き去りにされたアクセサリーやハンカチはいかにも「女性もの」とわかるような代物ばかりで、そこに込められた怨念のような想いに少し呆れはしたものの、気にしないことにしていた。新しいものが増えてさえいなければ、過去のことなど気にするだけ無駄だから。
休日にはホームシアターで映画を見漁った。
真吾は気前よく合鍵を渡してくれて「いつでも来ていいよ」と言ってくれたので、真吾が仕事でいない間や出張の間にも映画を観たくなるとポップコーン片手に真吾の家へ通った。
そして夏を迎え、美咲の結婚式の準備も順調に進んでいた六月末、私は彼の部屋でぼんやりとカレンダーを見つめていて大切なことを思いだした。
七月六日、真吾さんの誕生日だ。ちょうど日曜だし、二人でお祝いができるだろうかと心を躍らせる。
料理は苦手だけど、事前に練習すれば何とか食べられるものは出来上がるだろう。
「真吾さん。今度の真吾さんの誕生日、当日にお祝いできそう?」
ソファーでくつろいでいた真吾に声を掛けると、微妙な表情が返って来た。
――あれ?
「あーごめん、できるけど……」
そう言うと、真吾は小さくため息をついた。
「毎年友達が集まって前日から当日にかけてパーティーを開いてくれるんだ。毎年恒例の行事みたいになってて、結構前々から準備してくれてるから断りづらくて……5日の夕方から一回そっちに顔出してもいい? たぶん6日の明け方には帰れると思うから。ハルカは寝ててくれていいし……6日の朝以降はずっと一緒に居られる」
いつも舌の滑らかな真吾には珍しく、口ごもっている。
「それ、私も参加してもよさそうなパーティーだったら私もそこに混ぜてもらえれば、一緒にお祝いできるけど。その方が真吾さんも方々に気を遣わなくて済むんじゃない?」
「あ……いや、それは別にしよう。せっかくだから二人きりで会いたい」
「そっか。六日に一緒にお祝いできるならいいよ。パーティー楽しんで来てね」
実藤家と倉持家の顔合わせのときに真吾のお母さんから、真吾が生まれたのは七月六日の午前零時過ぎ、日付が変わった直後だったと聞いていた。だから、欲を言えば六日を迎える瞬間に「おめでとう」と伝えたかった。でも私と付き合うようになってから飲み会の回数を減らしてくれていることには気づいていたし、昔からの友達も大切にして欲しいから、そのパーティーに真吾を送り出すことに全く不満はなかった。
五日の夕方から六日の明け方まで真吾がいないなら、その間に料理の準備や部屋の飾りつけなどをして真吾を驚かせよう。そう決意して、自宅で少しずつ準備を進めていた。
「じゃあ、零時すぎにプレゼントだけ渡しにパーティーに行ってみたら?」
そう言ったのは、真吾の家に飾るオーナメント作りを私の家で手伝ってくれていた美咲だった。
「でも、二人でお祝いしたいって言ってたし……」
「だから、おめでとうってだけ言って、プレゼントだけ渡して、先に真吾さんの家に帰って待ってたらいいんじゃない?」
「でも昔のお友達とかがたくさん集まってるのに私が突然行ったら空気が壊れちゃうんじゃないかと思って。お邪魔かなぁと」
「毎年恒例のパーティーでしょう? 去年貴俊さんが言ってたんだけど、毎年同じ小さなバーを貸し切りにして、皆お洒落して集まってわいわい騒ぐんだって。人の出入りも激しいし、めいめい好きなように飲んで騒ぐだけだって。貴俊さんはそういう場が得意じゃないから、準備は手伝うけど参加はしたことないって言って笑ってたよ」
美咲は器用にオーナメントに紐を取り付けていく。不器用な私がやっと1つ完成させる間に、美咲は3つも作ってしまう。美咲がいなかったらとてもじゃないが間に合わなかったに違いない。
「だから大丈夫なんじゃない? ささっと行って、ささっと帰って来たら。真吾さんがハルカを邪魔だなんて、絶対に思わないよ?」
そう言って美咲は首を少し傾げる。
「そうかな」
「そうだよ。お祝い言いたいんでしょう? 真吾さんが産まれた時刻に」
「うん」
「じゃあ、パーティーに行く服を考えよう!」
美咲がいたずらっ子のような笑みを浮かべて身を乗り出す。
たしかにそれって何だか、すんごく楽しそう。
その後一週間は、ついつい眠りが浅くなってしまうほど浮かれていた。
だけど、眠りが浅かったせいだろうか。不穏な夢を見た。
朝には忘れてしまう夢。
微かに覚えているのは、少年が肩を揺らして泣いていたこと。
あれは誰だったのだろう。
そして迎えた7月5日の深夜、真吾さんからさりげなく聞き出しておいたパーティー会場の小さなバーに向かった。
地下にあるその店は、決して広くはないが地下という場所を生かして、中世ヨーロッパの醸造所を彷彿とさせるような雰囲気にまとめられていた。
木の扉をゆっくりと開き、中を覗きこむ。美咲が言っていた通り、皆手に手に酒を持ち談笑していて、私が入っても誰かに見とがめられるようなことはなかった。
「あのぅ、主役は?」
近くに居た人に尋ねると、「ああ、今たぶん地下2階にいると思うよ。そこの階段、降りたところ」と親切に教えてくれた。
その人が指さした石の階段を一歩一歩下りていく。
妙に鼓動が早かった。たぶん、少し緊張していた。
真吾さんは驚くだろうか。喜んでくれるだろうか。
すぐ頭上から聞こえてくる喧騒とは打って変わって、地下二階は静かな雰囲気だった。どうやらここは普段は店の倉庫として使われている場所らしく、貸切の時でもなければ立ち入り禁止なのだろうと思われた。
階段の真ん中あたりまで下りたところで、少し離れた場所から男性の声が聞こえた。
「何だよ、今日こそ噂の彼女に会えると思って期待してたのに。誕生日のパーティーくらい連れて来いよな」
からかうような男性の声。それに答えた真吾の声はいつも通り少しハスキーで、いつもより少し低かった。
「だからさ、恥ずかしいんだっての。見られたくねぇって前から言ってんだろうが」
それは本気で嫌そうな声だった。
真吾さんのそんな声は聞いたことがなかった。
「うわー、余計に見てみたくなるわ」
からかうような、バカにしたような笑いが男の人から漏れる。
「やだよ。物笑いの種にされるってわかってんのに、わざわざ連れて来るバカいねぇだろ」
「しかし……それなのに……付き合って5ヶ月だろ? よく我慢できるな。付き合う女はカオ・ムネ・ハラと言って憚らなかったお前が」
「ハラじゃねぇ、ケツだ。今お前が言ったのはアタマ・ムネ・ハラ。昆虫のからだの作りだ」
「間違えた」
こちらに背中を向ける真吾の表情は見えないが、その向かい側に立って面白がるような視線で真吾を見つめる友人らしき男の表情ははっきりと見えた。
「まぁ、正直もう我慢も限界に近づいてる。最近会う度にキツい」
「今日もこの後会うんだろ? 部屋で二人っきりとかね……くくく……ご愁傷様」
そう言って真吾の肩に手を置いた男の、笑いをかみ殺すような表情。忌々しげに揺れる真吾の肩。
私は動けなかった。本当に、指先ひとつ動かなかった。
恥ずかしい……って言った? いま。
彼女連れて来るの恥ずかしいって? 見られたくないって?
我慢って? 付き合って5ヶ月、私と我慢して付き合ってたの?
会うの、辛かったの?
私、物笑いの種にされるくらいダメ?
――これ、夢かな。
たった今目にしたこと耳にしたことをどうしても信じたくなくて、そんなことを思った。
夢であってほしい。
だけど、足が震えはじめた感覚はまぎれもなく現実のものだった。
だって、二人で会いたいって。
嫌がるそぶりなんて全然。
仲良くやっているつもりだった。
それはすべて、課長に言わせると鈍感すぎるという私の勘違いだったのだろうか。
そう思ったら、なんだか納得がいった。
おかしいなぁとは思ったんだ。
真吾の家に泊まりに行っても二人で映画見ておしゃべりして寝るだけで、妖しい雰囲気になんか全然ならなくて。それっぽいことを仄めかされたのはバレンタインの日だけで、本当にそれ以降真吾がそういうことを匂わせてくることはなかった。
――なぁんだ。
カオ・ムネ・ケツを基準に付き合ってきた人が気まぐれに伸ばしてみた触手は、とっくに縮んでいたのか。だから今日、来なくていいって言われたのか。二人で祝いたいなんて、体のいい嘘か。
さっき真吾の家に飾りつけてきたオーナメントや、冷蔵庫とオーブンの中で出番を待つたくさんの料理が頭をかすめていく。
下唇を噛みしめた。
頭の芯がじんと痺れていた。
わたしはここで黙って踵を返して一人でこっそり泣いたりするほど可愛くできてはいないのだ。
震える足を前に出す。
つかんだ地面の感覚は、いつもより柔らかい気がした。そんなはずはないのに、私の足元が揺らいでいる。
ヒールのけたたましい足音を立てて階段を駆け下りると、物音で真吾が振り返った。ああ、この足音。いつだったか非常階段を下っていた時と、同じだ。
「えっハルカ……」
驚いて一瞬目が見開かれたけど、私の表情を見てすぐに顔がこわばる。
私は手に持っていたプレゼントを投げつけようとして手を止めた。
ダメだ。物に罪はない。
こんなでも、一応一生懸命選んだプレゼントなのだ。
センスもお金もある相手へのプレゼント選びは思ったよりもずっと難しくて、ひとりで街をぶらぶらしたりネットサーフィンをしたりして、ようやくひねり出したアイデアだった。喜んでもらえるかな、とか、どんな顔をするかな、とか。そんな不安と期待は全部、もう色あせていた。
「ばっ馬鹿たれ!」
「えっ……ちょ、なに」
真吾が一歩私の方に踏み出した。だけど私が威嚇するように睨みつけると、真吾はぐっと立ち止まって眉根を寄せた。
何を言ってるのかわからないとでも言いたげなその表情を見ていたら、無性に腹が立った。
さっきの会話を聞かれたとわかっていてこんな表情ができるなんて、私が何をされても傷つかないとでも思っているのだろうか。
「雑草だから踏みつけても大丈夫だと思った?」
真吾の間抜け面にむかって叫んだ。いや、間抜けな表情をしてもなおこの男は美しい。それが私の胸を余計に締め付ける。
「おい、ハル……」
「雑草だって、ちぎられたら痛むんだよ! 根っこが強いからまた生えてくるかもしれないけど、直るのに時間はかかるの! 花なんて、当分咲かないんだから! 咲かないからね!」
「おい」
「大事に愛でてくれなんて言わないから、せめて踏まないでよ! ぐちゃぐちゃに踏み潰すなんて……ひ、ひ、ひどいよ……」
最後の言葉は、声が震えてうまく言葉が紡げなかった。涙を押し込めようとしたら口元がわなわなしたから。
黙って踵を返し、一人でこっそり泣くほど可愛くはない。
だけど、堂々と文句を言った後で踵を返し、結局は一人で泣くのだ。
足元にプレゼントを置き、駆け出した。
言ったでしょう。
脚力には自信があるんだから。
「おい!」
声が追いかけてきたけど、そんなの知ったことではない。走りにくいヒールを脱ぎ捨てて人ごみを縫うように抜けた。体が小さいのはこういうときに便利だ。
階段を上りきって地上に出ると、雨が降っていた。
さきほどまでの華やかな異世界とは一転、暗くて冷たい雨の中、道行く人は傘を手に手に足早に通り過ぎていく。夜の帳がすっかり下りたその世界は、色彩を失ってどこもかしこも黒かった。
本当に、シンデレラみたい。
靴は両方とも失って、セットしてもらった髪はぐちゃぐちゃ。
ドレスは水浸し。
――ごめんね、眞子さん。借り物なのに。
片手をあげ、タクシーを止めて乗り込んだ。
わかっていたことだ。
わかっていたのに期待したからこんなことになったんだ。
バカハルカ。
たしかに私は美人じゃないし、釣り合わないと思っていた。
でも、好きだっていってくれたから。
それならその言葉を信じようと思って。
一緒にいることを望まれる内は一緒にいようと思って。
自分の気持ちに背いて彼を拒むよりも自分の気持ちに正直に受け入れて、傷ついたら泣こうと決めていたのだ。
――そっか、今がその時なんだ。
なぁんだ、覚悟していたとおりになっただけ。
いつかいなくなるかもって思ってたんだ。
伊織さんを忘れられないか、私に飽きるか、他に良い人が現れるか。
理由はどれだかわからなかったけど、いつかこうなるかもしれないと思っていた。
だけど辛いと思ってしまうのは、きっと彼を信じ始めていたからだ。彼を、というよりも、自分を。よくわからないけど、もしかしたら自分にも何かいいところがあるのかもしれないと。
自信なんかもう、
「粉々ですよ」
私が呟いたら、タクシーの運転手さんがゆったりと言った。
「職業柄いろんなお客さんを乗せるからね。粉々になった人もたくさんいるけど。それでも街に粉々の人が溢れてないってことは、粉々さんたちも皆ちゃんと元気になってるってことだろうね」
「なるほど」
粉々さんたち。
そうだよね。
「車のフロントガラスってね、粉々に割れるようにできてるんだよ。どうしてだと思う?」
「どうして……でしょう」
運転手さんの謎かけに答えている余裕は全くなかった。
「割れたときにね、刺さらないように。事故が起きたときに、普通のガラスみたいにトゲトゲに割れちゃったら乗ってる人に刺さるでしょう? だから粉々になるんだ。傷ついたときにね、トゲトゲになって相手やほかの人のことも突き刺してしまうよりも、粉々になったほうがいいよ」
おっちゃんの穏やかな言葉は、なんとなく胸に残った。
一生懸命ラッピングしたプレゼントも、眞子さんに借りたこのドレスも、久美姉がセットしてくれた髪の毛も、部屋の飾りつけも、料理も。全部全部無駄になってしまった。
「お客さん、この辺かな?」
「あ、その道を右で」
私は馬鹿だから、心の奥の奥の方で、もしかしたら真吾が家まで追いかけて来るんじゃないかって思ってるのだ。
それは期待だろうか。
それとも、恐れているのだろうか。
わからない。
だけどとにかく、家にはいられなかった。
追いかけてくるかもしれないと期待して家で待ち、絶望するのが嫌だったのかもしれない。
「あ、ここです。ありがとうございました」
お金を払ってタクシーを下りた。
***************
「ハルカです。夜遅くにごめんなさい」
インターホンの向こう側で息をのむ声が聞こえた。




