27 春の訪れ
週明けの会社は、すべてが新鮮に見えた。
金曜の夜に課長にチョコを渡して断り、その後真吾から告白され、さらに真吾の家に行き、風呂場を覗かれ、次の日にはデートをし、その次の日には家族に会い、美咲と美咲のご家族と会い……
盛りだくさん過ぎた週末に、私の人生が大きく動きだしたような気がしていた。
「おう。月曜からご機嫌だな。何かいいことでもあったか」
デスクに荷物を置くなり横から声を掛けられ、そちらに顔を向けると課長がこっちを見て笑っている。それは前と同じ笑顔だった。
『月曜に会ったら、いつも通りだ』
あの言葉どおり、普通に接してくれているのだ。
それがとても嬉しくて、でも少しだけ胸が痛くて、「いつも通りですよ」と笑っておいた。
でも、そんな平和な朝は一瞬にして崩れ去ることになる。
出勤してきた先輩が一言、「嘉喜、あのイケメンと付き合うの?」と聞いて来たのだ。
突然のことに驚いて、手に持っていた書類をばらばらと床に落としてしまった。
あわてて机の下にもぐりこんで書類をかき集めたはいいが、どんな顔をして起き上ればいいのかわからない。課長には、すこし時間を置いて自分の口から話そうと思っていた。それなのにこんな形で知らせることになってしまった。その上、先輩の耳に入っているということはある程度社内で噂になっているのだろう。
でも、なぜ。
「デート現場の目撃情報があってな」
先輩の言葉が追い討ちをかける。
いよいよ立ち上がれなくなって、私は椅子にしがみついた。
どうしよう、どうしよう。
どんな顔をすればいいのだろう。
すっと誰かの手が残っていた一束の書類を差し出してくれる。少しだけ筋ばった、ごつごつとした手。
顔を上げると、手の主は課長だった。
「ほい。書類こぼしたくらいで泣くな」
声を出せなくて無言でうなずくと、課長が書類でぱさりと頭をはたいた。
「ほらよ」
課長の優しさに感謝しつつ、私は勢いよく立ち上がった。
「いやぁ、まぁ、色々ですよ!」
噂話を持ち込んだ先輩の肩をポンとひとつ叩いてデスクを離れ、すぐに女子トイレに逃げ込んだ。
始業時間まで1時間近くある。
その間に、少し気持ちを落ちつけたかったのだ。
だけど――
「嘉喜さん」
そこで声を掛けてきた人の表情に浮かんだ怒りの色を見て、私はここで気持ちを落ち着けることは無理そうだと悟った。
「あなた、津野課長のこと好きだったんじゃなかったの?」
仕事で関わったことはないが、顔を見知ってはいる秘書課のおねぇさまが私を見下ろしている。その脇に二人、しかめ面の人を従えて。
「いいえ。お付き合いをしている人がいます」
ちゃんと本当のことを言わなくては。
そう思ってはっきりと告げたら、その言葉を聞いた先輩社員は「信じられない」っていう表情になった。
「そんなっ! だって、あなた……津野課長の気持ちは? あんなに思わせぶりな態度を取っておいて、よくそんなひどいことが出来るわね! あなた、自分の行動がどれだけ津野課長を傷つけたかわかってるの? 津野課長をキープしといて、もっと条件のいい人を見つけたからそっちに流れたってわけ? 人を馬鹿にするのもいい加減にしなさいよっ! 津野課長があなたをどれだけ好きだったか知ってるの? バレンタインのチョコだって、皆のを断ってあなたのだけを受け取ってたのよ! そのくらいの気持ちだったの! あなた、わかってるの? 津野課長にチョコを受け取ってもらえなかった人の気持ちだって、わかってるの?」
そう言ってぜいぜいと肩で息をするその人の大きな瞳には、涙があふれていた。
毎年当たり前に渡していたチョコ。課長が自分のしか受け取っていないなんて、思ってもみなかった。
自分の無神経さにあきれて言葉が出てこなかった。課長を傷つけたことを自覚はしても、その陰で傷つくもっとたくさんの人の存在には、思いも至らなかった。
わたしは課長を傷つけただけじゃない。その向こう側にいるたくさんの人たちも、同じようにか、それ以上に傷つけたんだ。
「倉田さん、おはよう。まぁまぁ、そんなに熱くならないで。外まで聞こえてたわよ?」
後ろから涼しげな声が届く。
「あっ。吉井さん……」
秘書課の先輩は倉田さんと言うらしい。その彼女に吉井さんと呼ばれた女性は、ショートカットですっきりとした印象の美人だった。
「ほらほら、トイレは集会所じゃないから。行きなさい」
そう言って三人をトイレから追い立て、そのショートカットの女性は私に向き直った。
「あなたが嘉喜さんね?」
「はい」
「気にしなくていいのよ。言いたい人には言わせておけば」
そう言って鏡に向かい、髪型を直す。
髪はちっとも乱れていない。
この人は、髪を直しに来たのではない。私を助けるために来てくれたのだ。
「わざわざ来てくださったんですね。ありがとうございます」
そう言って頭を下げた。
「ふふ。通りがかったら声が聞こえたから。自己紹介もしてなかったわね。私、営業二課の吉井理紗です。津野課長が企画に行く前に、お世話になってたのよ。あなたが入社する前にね」
「そうだったんですか」
言いながら、視線を落とした。
「あら、落ち込んでるの? あんなのいちいち気にしてたら、噂のイケメンとは付き合えないんじゃない? 妬まれたりして敵意を向けられることも多いでしょうに」
おかしそうに笑う吉井さんのその表情を見ながら、私はかぶりを振った。
「いいえ。その……正しいなぁと思って。さっきの……倉田さんのおっしゃったことが」
「あら、あなた、津野課長をキープにしてたの?」
「いいえ。それは違います。課長の気持ちに気づいていなかっただけで……でも、結果的に課長を傷つけてしまったのも、そのせいでほかの人を傷つけてしまったのも本当ですから。それに倉田さんのは、気にしなくていいって流していいお話じゃなかったです。たとえば津野課長が私のことを好きだっていうのを理由に私を攻撃するのはただの妬みだと思って流せばいいですけど……彼女のは、そうじゃないので」
「どういうこと?」
「自分が大切に想う相手を傷つけた私に、純粋に腹が立ったんだと思うんです。だから、あれは、無視しちゃいけないものだと思います。私がきちんと受け止めて、これからちゃんと噛みしめていかないといけない言葉だと」
吉井さんは私の顔をじっと見つめる。
「……なるほどね。津野課長があなたを好きになった気持ち、わかった気がするわ」
「あの……もしかして、吉井さんも?」
恐る恐る尋ねる。
「あら。随分鈍感な子だって聞いてたけど、よく気づいたわね」
吉井さんはひょいと肩をすくめてみせる。気取っているわけではなく、気楽な仕草なのにどこか大人っぽくて女性的だ。これはそう、余裕があるのだ。
「私、自分のこと以外は鋭いんです。あの……私が鈍感って言うのは……」
「津野課長から聞いたのよ。随分苦労させられたって笑ってたわ」
そう言っておかしそうに目を細めた。
「吉井さんは、私に腹が立たないんですか?」
「どうして? だって、あなたが振ってくれたおかげで私にも可能性が巡って来たのよ。感謝こそすれ、恨むなんてありえないわ。そういう意味では、きっと倉田さんたちより私の方がよっぽど性格が悪いわね」
「自分でそうおっしゃる方で本当に性格の悪い人にお会いしたことはありませんよ」
「あら、そう?」
軽く触れるような声がそっと耳をくすぐる。
優しそうだけど、芯の強そうな女性。
素敵だな、ただただそう思った。
二人で連れだってトイレを出ると、「噂が広まってるからしばらく大変かもしれないわよ」と言って、フロアまでついて来てくれた。
「また変なこと言われたら、相談してくれたら私が蹴散らしてあげるわよ。私、結構怖がられてるの」
口元に手を当てて楽しそうに笑う仕草が素敵で、大口を開けて笑う自分を反省する。
「あなたを送って行くのは津野課長に会うための口実だから、そんなに恐縮しなくていいのよ」
吉井さんはさらりとそう言ってのけた。
課長にも、どうか、どうか、春が訪れますように。
そして時が流れ、窓越しに見える景色が少しずつ明るい色彩を帯び始めた頃、廊下ですれ違った吉井さんがほころぶような笑顔で「ゲット」と囁いたのを聞いて、私の心は躍りあがったのだった。
吉井さんサイドの、課長とくっつくまでをさらっと番外編で書いてみました。
『春を待つ。』という短編です。
シリーズから飛べます。
すごくさらっとです。さらっとさらっと。




