26 顔合わせ
翌朝目を覚ますと、目の前には目を閉じた彫刻が横たわっていた。
そして、体に回された長い腕。
それに気づいた瞬間に、脳みそが沸騰した。
鼻血を噴かないうちに何とか抜け出そうとして足を動かすと、彫刻がゆっくりと目を開けた。
「おはよ」
眩しそうに目を細めたまま、掠れた声で言う。
が、眩しいのはこっちの方だ。
朝からこんなに爽やかなのは卑怯だ。
私は何も答えず、くるりと向きを変えて腕から抜け出した。
至近距離で寝起きの顔を見られるのはたまらない。毛穴事情も心配だし、顔の構造上朝はいつも顔がむくむのだ。その上寝そべっていると顔の肉が流れて間抜けになる。
……彫刻は例外みたいだけど。
「何でそっち向くんだよ」
ムッとしたような声が背後から聞こえたけど、答えずにベッドを抜け出した。
昨日真吾が風呂に入っている間に睡魔に抗えずにベッドに潜り込んだのだ。そして朝まで夢も見ずに熟睡した。
昨日は結構ドキドキしていたはずなのに、熟睡できてしまうこの図太さといったら。「嬉しくて眠れなかった」と困り顔で言えるデリケートさを、ほんの少しでいいから持ってみたかった。まぁ、おかげ様で生きていくのは楽だけど。
でも、ひとつ強調しておきたい。決して図太さだけが原因ではない。ベッドの寝心地が良すぎるのだ。体がずんと沈むような感覚があるが、柔らかすぎず、腰をぐっと支えてくれる。どうせどこぞの高級スプリングベッドだろう。
ぐぐっと両腕を上に持ち上げて伸びをする。
「んんっ」と出そうになる声を何とか押しとどめていたら、後ろから声がした。
「ハールカ?」
振り返った私の顔はたぶん、呆けていたと思う。
「今日どうする? 買い物でも行く?」
寝起きだというのに普段と何ら変わらない爽やかな顔をした人が言った。
でも、答えるどころじゃない。
寝起きの頭の処理能力を越える出来事が起こったからだ。
――なんですか、今の甘い声は。
痛い痛い、心臓痛い。朝から痛い。
「ちょ……なにそれ」
「え? なにが?」
真吾はすっとぼけた顔をしたけど、その口元は明らかに愉快そうに歪んでいる。
わざとだったらしい。何か術中にはまった感じが悔しくて、鼓動のバクバクが早く止まらないかと思うのに、これがなかなか止まらない。
私が言葉を発せずにいるうちに真吾がむくりと起き上がり、長いリーチで寄ってきた。
「ハルカ、体温高いな。抱きしめて寝たら暖かかったわ。さんきゅ」
耳元に口を寄せてそんなことを言うものだから、鼓動は加速の一途を辿る。寝起きの声はいつもにもましてハスキーで、異常にセクシーだった。
敗北感と息苦しさに、私は思わず床にしゃがみこんだ。
その頭に大きな手が乗っかって、髪をくしゃりと撫でる。
「腕から逃げ出した罰だ」
やはり、やはりこの男は。
三枚か四枚くらい上手なのだ。
わたしが太刀打ちできる相手じゃないのだ。
なんたって文字どおり桁違いの経験を重ねてきた人間だから。
「ほんぎゃあ」
口から意味のない言葉が飛び出して、真吾が私の頭上で噴き出した。
「何それ」
「悔しくてつい」
真吾はひとしきり笑ったあと、ようやく落ち着いて咳払いをしてから言った。
「天気いいから出掛けようか。せっかくバレンタインだったんだし、何かプレゼントでも」
プレゼントで思い出した。そういえば昨日は真吾の誕生日だった。
「あっプレゼント! 真吾さんの誕生日プレゼント買わないと! あと、チョコも」
「あー……」
真吾は頭の後ろをがしがしと掻く。
「いや、誕生日プレゼントはいらない。チョコも。俺甘いも食わないから」
「えっ昨日チョコ欲しいって言ってなかった?」
バレンタインの定番だとか何とかそんなことを言っていた気がするのだが。
「そうは言ってないんだけどね……まぁ、いいけど。とりあえず、いいから。むしろ俺としてはハルカに何かプレゼントしたい気分なんだけど」
「もらう理由がないよ」
「バレンタイン。日本だけだよ? 女性から男性へって決まってるの」
「ここは日本だからね。いいんです」
そんなインターナショナルな人間じゃないもんで。
バレンタインのお返しはホワイトデーにもらうものだ。
それがキャンディー業界の戦略だろうがなんだろうが、ジャパンではホワイトデーはれっきとした公認イヴェントなのだから。
「まぁいいや。とりあえず出かけよう。どこがいい? 買い物なら銀座か……」
銀座!
期待を裏切らない男だ。
思わずフンと鼻をならしてしまった。
「ザギンもギロッポンもダメ!」
「何それ、呪文?」
「銀座も六本木もダメ! そんなとこ行っても買う物ないから。普通に、フッツーに、ショッピングモールに行く」
そんな高級な街に連れていかれて一体何を買うというのだ。汗水たらして働いた一月分のお給料がたったひとつのバッグに姿を変えてしまうあの街で。だいたい、そんなバッグを持っていても使う機会というものがまるでない。
結局、近場のショッピングモールでウインドウショッピングを楽しみ、昼はファストフード、夜はファミレスという王道庶民デートをすることになった。
意外にも真吾はファストフードにもファミレスにも文句をつけず、おいしそうに完食する。
「真吾さん、舌肥えてそうだけど、平気なんだね」
「俺は何でも食うよ。中学高校時代は部活の帰りにみんなでファミレス寄ったりしてたしな」
「でも甘いものはダメなんでしょ?」
「甘いものも食えるよ。食わないって言ったのは、体型がゆるむから食べないようにしてるってだけだよ。ボディラインが崩れたら嫌だからな」
デザートのいちごパフェを頬張りながら、私はふんふんとうなずいた。
いいのだ。私には崩れて困るようなボディラインなんてもともと存在しないし。ほら、すでに、ユニクロのレギンスパンツのウエストラインの上にはうっすらとお肉が乗っかって。
だけど、おいしいものの誘惑にはなかなか勝てないから、体に負担のない範囲内に収まっていれば別にいいんじゃないかと思っている。
「ひへへんほひほひほはいへんはんはね!」
「何だって?」
ごくん。
「イケメンも色々大変なんだね」
ボディーラインて。
思春期の女の子が気にするものだとばかり思っていたが。
「そりゃどうも。口の端っこにチョコついてるぞ」
真吾はちょっと呆れた様子で言った。
初デートだと言うのに、この色気のなさと言ったら。
これだからいけないのかもしれない、とふと思う。
もっとこう、最初は猫をかぶってだなぁ。フェロモンとかをダダ漏れな感じにしてみたら……
フェロモン。
ダダ漏れとかいう前に、私の中にまず存在しているのか怪しい物質。
そして、その言葉に記憶を刺激された。
I‐65という驚異のサイズを誇るランジェリーだ。Iカップでアンダーが65ということは、バストサイズは驚異の95センチである。私の少し控えめなバストと比べると、その差20センチ。詰め物で対抗できるレベルはとうに超えている。
この日は家に帰ると言ったのに、真吾は頑として首を縦に振らず、のらりくらりと躱され続けた挙句に結局真吾の部屋に連れて行かれた。
「着替え持ってないのに……」と呟いた私に「そう言うと思った」と真吾がにやりと笑って差し出したのは、ショッピングモールで私が「これかわいい」と呟いた洋服一式と、憎たらしいほど私にぴったりのサイズの下着だった。
***************
翌日、私は再び真吾の車に乗せられていた。
どこへ行くのか聞いても教えてくれず、むっとしたまま窓の外を眺めていた私は見覚えのある景色に気付いて蒼褪めた。
「ちょっと……ここって……」
「そう。言ったでしょ。今日、美咲ちゃんのご両親と貴俊のご両親の顔合わせなんだよ。貴俊の実家でね。で、俺も同席してほしいって頼まれてるから」
「貴俊さんの実家って、早い話があんたの実家の隣でしょうが! なんで私まで!」
「どうせうちの両親とじいさんばあさんも乱入してくるだろうから、せっかくの機会だしハルカを紹介しとこうと思って」
さらりと言いながら、真吾は車から降りる。そして助手席に回り込み、ドアを開けてくれる。
「どうぞ」
とりあえず車からは降りたものの、頭の中では嵐が吹き荒れていた。
――いや、どうぞじゃないから! 付き合って三日目で家族に紹介って、何なのこれ!
額に手を当てたまま、しばらく立ち尽くす。
私が身に纏っているのはショッピングモールで何気なく「これかわいい」と呟いただけの服で、「カレのご家族に挨拶するときのテッパンLOOK12の掟!」とかいう雑誌の記事を大きく無視したカジュアルスタイルだ。ジーパンじゃないだけマシかもしれないが、それにしたって――
「服装とか気にしなくていいよ。俺もこれだし」
そう肩をすくめた真吾はシンプルなセーターにスラックスだ。
確かに、確かにカジュアルだけど。
モデルみたいな人が何を着てもきちんと見えてしまう不思議である。しかも、賭けてもいい。この人の着ている服は上質だ。
「あの……本当に、行くんですか?」
「うん」
強引で、これと決めたら絶対に譲らない。
昨日真吾の家に引っ張って行かれた時点でそれはもうわかっていた。
「俺はハルカをちゃんと家族に紹介したいんだよ。ハルカは俺の彼女として家族に紹介されるのが嫌なの? 何で?」
この男、うまいのだ。強引といっても無理矢理でなく、相手をその気にさせて結局は自分の思い通りに物事を運んでしまう。
ふーっとため息をつき、全身の力を抜いた。
とたんに真吾はこぼれるような笑みを見せる。
「よかった」
「断らないってわかってたくせに」
私がつぶやくと、真吾は楽しそうに笑って私の腰に手を当てた。
その手に促されて歩きながら、気になったことを尋ねる。
「貴俊さんは?」
「あいつは今出張中だよ。顔合わせの時にうっかり帰って来たりしたら面倒だから、福岡に飛ばしてある」
笑顔でとんでもないことを言う常務だ。
貴俊さんの家に入ると、そこにはすでに倉持家の皆さんが勢ぞろいしていた。
「やあ、君は確かハルカさんだね」
玄関を入ったところで倉持家の面々に出迎えられ、すっかり恐縮した私が真吾の陰に隠れるようにして縮こまっていると、貴俊さんのお父さんが声をかけてくれた。
「あ、はい。ご無沙汰しております。大切な日に私までお邪魔してしまって申し訳ありません。その……私は今日伺う予定ではなかったのですが……」
私はそう言って真吾に視線を流した。
「あんたのせいよ」という思いをたっぷりとこめて。
「ああ、俺が頼んで来てもらったんだ。せっかく皆揃ってるし。俺、ハルカと付き合うことになったからさ。その報告も兼ねて」
こんなにあっさりと話すとは思っておらず、わたしはオタオタしてしまった。
「わあ! 真兄に彼女? うそっっ」
天使もとい貴俊さんの妹が声を上げた。
いやいや、この人に彼女がいるのはちっとも珍しいことじゃないでしょうに。
なんたって五十人ですよ。
「あらあらあらあらあら、まぁまぁまぁまぁまぁまぁまぁまぁまぁ」
貴俊さんのお母さんのあらあらもまぁまぁも健在のようで何よりだ。
「ええっ。ハルカさん、真吾の毒牙にかかっちゃったの?」
誰よりもデカい声でそう言ったのは真吾さんのお母さんだった。
そして、これにはさすがの真吾も不満そうな声をあげた。
「おい、自分の息子を何だと思ってんだ」
「「「「「「「「遊び人」」」」」」」」
そこにいた7人の声が全部重なって、私は笑い出してしまった。
家族の認識が正しくてよかった。
「あの……よろしくお願いします」
私がぺこりと頭を下げると、7人全員が盛大な拍手をくれた。
恐縮したし、なぜ拍手なのかよくわからなかったけど、歓迎してもらえたことにほっとした。
「真吾が彼女を紹介してくれる日が来るなんて……」
真吾のお父さんなど、涙ぐんでいるほどだ。
「やっと……やっと……」
お父さんの言葉の先につながる言葉が何か分かった気がして、私は微笑んだ。
――やっと、伊織さんを忘れられたのか。
お父さんは真吾さんの気持ちを知っているから、そう言いたかったのだろう。真吾さんは忘れたわけじゃなくて、今でも伊織さんを想ってるけど。
「美咲ちゃんたちは? もうちょっとで来るの?」
「あと10分くらいかな。たぶん」
貴俊さんのお母さんはそわそわと部屋全体を見回して動き回っていた。
「美咲さん、美咲さんのお兄さん、お父さん、お母さん……スリッパは4足で足りるはずよね? うんうん。あと、ティーセットが……あ、一つ追加よね。ハルカさんの分。それから……あら、マットがちょっとずれてるわよ。茜、それまっすぐにして」
「え? まっすぐだよ」
「ほら、フローリングのラインと少しずれてるでしょう?」
「そんなの誰も気にしないよ」
「私が気になるのよ!」
この人、意外とめんどくさい姑になるんじゃなかろうか。
目を三角形にした貴俊さんのお母さんを見ながらそんなことを思ってしまったときだった。
「大丈夫だよ。叔母さん、実はものすごくテキトーなんだ。今日はそれがバレないために必死なだけだから。いつもこの家をキレイに保ってんのは叔父さんの力」
真吾がそっと耳打ちをしてきた。
この男はなぜ私の心が読めるのだ。
マットよりも三角目の姑よりも、そのことの方がよほど気になった。
「あっ真兄がハルカさんに何か囁いてる! やだ、内緒話ぃ?」
天使は前回会った時よりも随分と砕けた口調で楽しそうに笑う。
「別に内緒にしなくたっていいんだぜ。午前中から濃厚な愛の言葉を聞く覚悟があったらな」
真吾がそう言い放つと、天使が顔を赤らめた。ひやかしてみたものの、カウンターパンチを食らった図だ。
「こら真吾!」
すかさず真吾のお母さんから檄が飛ぶ。
「嘘だよ。ハルカにそんなこと呟いたら顔から火噴きそうだからな。普通の話してただけ」
私はどう反応してよいかわからず、曖昧に微笑んでおいた。
ひとつわかったのは、どうやら真吾は家族の前ではあまりジェントルマンではないらしいということだった。
伊織さんの前でだけ言葉づかいが荒れるのだと思っていたが、むしろあれは家族とか近しい人間の前で見せる素顔といったところだったのだろうか。
最近私に対しても言葉づかいが緩くなっているのは心を開いている証拠なのかと思うと、些細なことだけど嬉しい。
「あ! 車の音が聞こえたよ! いらっしゃったんじゃない?」
天使が目を輝かせる。
「ほら! 皆! 玄関よ! 玄関!」
どやどやと皆で玄関に向かい、美咲の家族を出迎える。
自分が出迎える側にいることが不思議でならなかったけど、ひとり応接間に残って「やぁいらっしゃい」と美咲を出迎えるわけにもいかず、わたしもひかえめに顔をだした。
美咲は私がいることに一瞬驚いた表情を見せ、私と真吾を交互に見つめてからニヤリと笑った。
「はぁーん。ハルカ。聞いてないわよぉ? 後で詳しく教えなさい」
「へーい」
会合は終始穏やかなムードで進んだ。
美咲のご家族は貴俊さんが結婚式について何も知らないことをすっかり受け入れているらしく、美咲のお兄さんに至っては「いやぁ、こんな結婚式に参列するなんてきっともう二度とないよ! ドラマみたいなことが目の前で起こるんだよ! ちゃんと写真撮らなきゃと思ってデジタル一眼レフ買っちゃったよ!」とはしゃいでいるくらいだった。
当たり前だ。一生に二度もこんな結婚式があったら恐ろしい。
そう思ってから、貴俊さんのことに思い至ってついつい笑ってしまう。
いた、いた。一生に二度もドラマみたいな結婚式を経験する人。
一度目は花嫁を奪われ、二度目は花嫁を奪いに来る。
これでつい笑ってしまう私は、きっとちょっと、真吾に毒されているのだ。
「年下の貴俊君に先を越されちゃうわねぇ。真吾も早く結婚すればいいのに」
真吾さんのお母さんがわざとらしく口を尖らせて軽く視線を寄越す。
「年下?」
あれ、真吾さんと貴俊さんって同学年じゃなかったっけ。
「やべ」
隣でつぶやく声が聞こえた。
「そうよ。真吾と貴俊くん、誕生月まで同じなんだけど、真吾のほうが5日早いのよね。7月の6日なの」
しちがつの、むいか?
「……………………おい、誰がバレンタインデーに生まれたって?」
ドスの利いた声で囁くと、隣に座っていた真吾は身を縮めた。
「だってそうでも言わないとうちに来てくれなそうだったから」
やっぱりとんでもないヤツと付き合ってしまったんじゃないだろうか。
何とも楽しそうな実藤家と倉持家を見渡した後、隣に座って不安そうにこちらを見つめる彫刻を頭のてっぺんからつま先まで眺めて私はそっとため息をついた。




