25 百戦錬磨
風呂場で泡風呂の元を見つけて少し元気を取り戻した私は、もこもこの泡の中で陽気に鼻歌を歌っていた。
洗い場に出てシャンプーを少し手に取ると、ローズの香りがふんわりと漂う。
元来風呂好きだけど、自宅の小さなユニットバスではなかなかゆっくりお湯を張って体を伸ばすチャンスがなく、広い風呂に入れるのはとてもとても嬉しかった。
つまりご機嫌だった。
だから遅れたのだ。異変を察知するのが。
髪に泡を揉みこんで生え際をごしごししながら振り返ったドアの向こうにぼんやりと人影が見えたと思ったら、かちゃりとドアが開いて真吾が中を覗き込んだ。
「ただいま。風呂にいたのか。俺も入ろうかな」
そう言ってドアを開け放したまま、ためらうことなく上衣を脱ぎ捨てる。
上半身裸である。
もう一度言おう。上半身裸である。
鼻血を吹きそうになりながら、今しがた耳にした言葉を反芻する。
オレモ、ハイロウカナ……?
「うをぉあああああああ!」
大声が出た。シャンプーまみれの頭のまま風呂場を飛び出し、脱衣所に置いてあったバスタオルをひっつかんでそれをぐるぐる巻きにした。
勢いに任せてそのまま脱衣所を駆け出してみたは良いものの、リビングまで来てはたと振り返った。
自分の足元まで、風呂場から転々と水と泡の足跡が続いている。
「ああっ」
フローリングが傷む
賃貸
敷金
没収
嫌なワードが頭をチカチカして、あわてて何か拭くものはないかと部屋を見回した。まだ頭にシャンプーが乗っているせいで、動くたびに泡が床にふわりと落ちる。その上、今は2月。濡れて裸のままうろつくには寒い。
「何してんの」
後ろから声を掛けられて「ひぃっ」と声を上げたその瞬間、びしょぬれの私の足が磨き上げられたフローリングの上を盛大に滑った。
体が宙を舞う――
っていうのは比喩で、ただ足がツルーンと前に出て世界が反転した。
そして背中に鈍い痛みを感じたと同時に、床が揺れたのがわかった。
「おうおう、こんな時間に。下の階の人もびっくりだな」
真吾はそういいながら私を見下ろして鷹揚に笑う。
「なにそれ、新しい美容法? シャンプーそのままにしとくの」
「ちっがう! 勝手に入ってくるから!」
泡が頬をつーと伝うのを力いっぱい手で払いながらそう叫んだ。
「裸見られるの恥ずかしいってか? 二十六にもなって?」
「齢とか関係ないんだよ! 二十六になったら皆裸で街を歩く? 歩かないでしょ! 羞恥心ってのに年齢なんか関係ないんだから!」
「羞恥心ねぇ」
真吾はおかしそうに笑った。
「その姿で羞恥心とか言われてもね」
真吾様の言う通りである。なんたって、転んだまま死んだゴキブリみたいにひっくりかえっているのだから。
「とりあえず頭流して来なよ。床は俺が拭いとくから」
牙を抜かれておとなしく風呂に戻り、頭を洗い流した。
ほかにも色々洗い流して忘れたかったけど、無理だった。心に負った傷は洗い流されてはくれず、深いところに居座った。
スウェットを着込んで風呂場を出ると、真吾はソファに足を組んで座っていた。面白そうにこちらを見つめるが、何も言わない。
「あの、まず、これは何でしょうか……」
せっかくお風呂で元気を取り戻したのに再び盛り下がってしまった気持ちのまましょんぼりとうつむき、ランジェリーが入っていた袋を真吾に差し出した。
受け取って中を覗いた真吾はうんざりとしたような顔を見せた。
「これ、どこにあった?」
「あの引き出しの中」
箪笥を指し示す。黒くてつやっとしたその箪笥は、なんだか冷たく私を見下しているように見えてならなかった。
「そっか。ごめん。そんなのあるって知らなかったからさ」
「その……それは……元カノさんのでしょうか……」
I-65という記号がさっきから頭の中をぐるぐるとまわっている。
「誰のかわかんないけど、たぶん」
そう言ってから真吾はため息をついた。
「ときどきいるんだよ、何かしら置いて行く奴。忘れ物したからっていう口実にまたここに来るためとか、あとは自分の存在感をここに残しておきたいとか、ほかの女に対する牽制の意味とかで。すぐには見つからないようなところにこっそり隠していくんだ」
うひゃあ。生霊にでもなりそうな女性たちだな。くわばら、くわばら。
いや、でも、切ない女心と言われればそんな気もしないでもない、か。
「ソファーの下にピアスとか洗面所のコップの中に指輪とか、ラグの下にネックレスとか、そんなのはザラだからそういう場所はいつも気を付けてチェックするようにしてるんだけど、まさかそんなところに下着を詰め込んでる女がいたとは」
「下着はさすがにね……」
「そりゃあそうだよな」
コンプレックスを相当に突かれて、こちらはもう瀕死なんですよ。その上まさか風呂で裸を見られるとは。胸の大きさ、ばれただろうか。
そんなことを考えていたせいだろう、私は無意識に自分の胸を隠そうとしていたらしい。
「もしかして大きさ、気にしてる?」
「うがあ!」
「なにそれ、肯定? 否定?」
真吾はくっくっと笑った。
「こ、肯定です。だ、だだだって、まさか見られるとは思っていませんで、その、しばらくは上げ底で誤魔化せる予定でして……」
「何その言葉づかい」
真吾はさらに笑う。
「あのね、俺、服の上からでも大体わかるから。別に胸の大きさ期待してない」
なんと、服の上からでも胸のサイズを当てられるらしい。やはり只者ではない。
そう思ってから、感心するような話ではないのだと気づいた。それはたぶん女性経験の多さを物語っているのだから。服の上から胸の大きさがわかってしまうほどの経験値って、いったいどれくらいなんだろうか。
「あの……あのさ……つかぬことを伺いますが……元カノって何人くらいいるの?」
Iカップのアンダーバスト65というサイズを誇る人物がその中にいることはわかっている。
大体、Iってアルファベットで何番目だ。九番目か。
真吾は一瞬眉根を寄せた。
「ごじゅうにんくらいかな」
かるーく言われたその言葉を脳内で数字に変換するのに少し時間を要した。
「ご、五十人……? それは、えっと、正式に付き合った人の数?」
「正式に付き合うが何を意味するかよくわかんないけど、付き合ってくれって言われた相手が大体五十人ってこと。俺は基本的に来るもの拒まずだし」
なるほど。じゃあ一応、付き合ってもないのにちょめちょめするほどチャラくはなかったということか。と少し安堵したけど、次に続いた言葉に奈落の底に突き落とされた。
「ワンナイトも含めるとその倍くらいだと思う」
「ごじゅうのばいって、ひゃくですか」
「うん。大体ね」
「むしろ、よくそこまでカウントしたね」
「友達が面白がって数えてたから」
眩暈がした。女性の数をカウントするというとんでもなさにも、数字のとんでもなさにも。
「ワンナイトっていうのは、一夜限りの恋というやつでしょうか」
「うん」
「なるほど」
「あー、ワンナイトで終わんないこともあったりはするけど」
「ツーナイツラブってことですか」
「まぁ、うん」
つーかそれを恋っていうんですかね。
アバンチュールってやつですか。
あれ、アバンチュールだっけアバンギャルドだっけ。
もうどっちでもいいや。
頭が痛くなってきた。
間違いない、早まった。
付き合う相手を完全に間違えた。
というか、この人が間違えたのだ。なぜ私と付き合おうなんて思ったのだ。
「でも俺、浮気はしたことないよ」
さも大事なことみたいな顔で、真吾は言った。
「時期が重なったことはないんだ。彼女がいるときにほかの人としたことはない。一緒に飯食ったりとかは普通にあるけど」
あー、ありがちありがち。浮気のラインをどこに設定するかって難しいよねー。ふたりでデートしたら浮気って人もいれば、一夜のアバンチュールは浮気じゃないとかいう人もいるって、ネットの恋愛掲示板に書いてあった。人様の恋愛話を覗くのってちょっと楽しくて、暇なときにぼんやり眺めたりするんだよねー。掲示板とかだと、そういうのよく話題になってるんだよねー。どこからが浮気か、みたいなー?
動揺しすぎて心の声が全部棒読みになった。
というか、そんなにコロコロ彼女が変わってたら時期が重なる暇なんてないだろうって気もするけど。
「付き合った最短期間と最長期間は?」
彼氏に対する質問と言うよりも一般的な興味関心の対象として、目の前の男性のこれまでの女性遍歴を知りたくなってしまった。それでつい、そんな質問を投げた。
今度美咲に教えてあげよう。
そして二人で「うそーありえなーいチャラーい!」と騒ぐのだ。いつものあのテンションで。いつもと少しだけ違うのは、それが自分の彼氏だということだ。
「最短は四時間くらいかな。で、最長が……10か月くらい?」
「ちょい待ち。四時間って何」
「付き合おうって言われていいよって言って、四時間後にやっぱりさっきの無しでって言われて、無くなった」
なんだそのピザの注文より手軽なキャンセルシステムは。
「最長の十カ月は学生時代。彼女の方が海外留学行く前日に告られて、十カ月会えなくて。戻って来てすぐに振られた。だから実質一日しか一緒にいなかった」
意味がわからない。それを最長でカウントしている君はもっとわからない。彼女側からしたらそれはきっと最短新記録に違いない。
「よくそんなにとっかえひっかえできるね」
「別にそれを望んでるわけじゃない」
「じゃあ、どうしてもっと長く一人の人と付き合わないの」
「大抵ふられるんだから仕方ない」
「え、なんで?」
「誰に対しても態度変わんないから物足りないって言われたこともあるし、本当に私のこと好きなのかわからないって言われたこともあるし、あとはもっといい男を見つけたからって言われたこともあるし、俺の気持ちを試したくて別れようって言っただけだって後から泣いて縋られたこともあるし……それぞれかな。まぁ、あまりにも束縛きつくて俺から別れようって言ったこともないわけじゃないけど」
恋愛経験の少ない私にはもはや想像すらできない世界だ。気持ちを試したくて別れを切り出すって、どういう心境なんだろう。
「それにもちろん、性格が合わないこともある。あとはまぁ、社会人になってからはお決まりのすれ違いが多かった。仕事が忙しくてあんまデートとかできないし、出張も多いし、転勤もあるし。海外転勤から帰ってきたらもう別の男と付き合ってたとかな。自然消滅も割とあるよ。連絡来なくなったのを別にわざわざ追っかけたりはしないし」
「へぇぇえーい」
何か変な声出た。
真吾は笑ってるが、色々笑い事じゃない。
一番笑い事じゃないのは私の脳の沸騰具合だ。
そう思っていたら、真吾が急に真顔になった。
「でも俺、初めてだよ」
「へ?」
「自分から告って誰かと付き合うの、初めてなんだ」
「うっうそだっ! 向こうから五十人も寄ってくるわけ……ありそうですね……」
頭の毛穴から空気が抜けていくような気がした。
かくいう私だって、寄って行っちゃったわけだし。
普段だったら傍観者として「あんな男に寄りつくなんてよっぽど自分に自信あるのねぇ」みたいなちょっと意地悪な気持ちで見つめていたに違いないのに。
なんだって、自分がこんな立場に。
元カノが五十人いる人なんて、聞いたことない。一昔前に一世を風靡したイケメン俳優がテレビに出てきて「いやぁあの頃はモテましたね」とか言いながら暴露する話の中でなら一度くらい聞いたことがあったかもしれないけど、それすらも「大袈裟な」と鼻で笑っていたくらいで。
百人切りなんて冗談か比喩かだと思っていた。
それなのに、本物の百戦錬磨の男が目の前に座っている。
信じられない。
涙が出そう。
「まぁ、ワンナイトは自分から誘うこともあるけど」
淡々と話すその言葉を聞いていたら頭どころじゃなく、全身の毛穴から空気が漏れ出していった。
これってつまり、私はあっけなく五十一人目になるということなのだろうか。ワンナイトと通算すると百一人目。百人一首と空見しそうな百一人目。101。ワンオーワン。でもダルメシアンじゃないんですよ人なんですよ笑い事でも夢でもないんですよどうしよう。
「聞いてる? 俺が自分から告って付き合うの、初めてなんだよ。俺だってこんな話はしたくない。軽蔑もされたくないし。でも、嘘とか秘密とかは嫌だから、聞かれたら正直に話すって決めてたんだ。一応俺の誠意なんだ」
「ヘェ、サイデスカ……」
誠意という言葉がうすら寒ーく聞こえるのは、私だけではあるまい。誠意を持ってワンナイトラブをするバカがどこにいる。
「さすがに呆れた?」
組んでいた長い脚をほどいて身を乗り出すようにしながら、御曹司が私の顔を覗き込んだ。
「いや……呆れるっていうか……」
予想していなかったわけではない。そういうタイプの人だろうということは、初対面の時から感じていた。そして、正直言って知ったこっちゃなかった。別にこの人がどんなにチャラかろうと、自分に関係なければそれでよかったのだ。
つまり、自分がそんな人と付き合うということを想定したことがなかったから、思考が追いつかない。
「付き合いたくなくなった?」
不安げな顔でそう聞かれる。
この人のこの表情は、演技なのだろうか。
そんな考えが頭をよぎったけれど、それでも私はあっさりとそれに騙されてしまうのだ。
「そういうわけじゃないけど」
「けど?」
「なんで私……?」
ためらいがちな質問に、真吾はあっさりと答えた。
「一緒にいたいと思ったから」
何てシンプルな答えなんだ。そして不覚にもちょっとドキドキしたぞ。
「なんで、一緒に?」
「知りたくなった」
「なにを?」
「全部を。ハルカが普段どんなことを考えて、どんな風に生活してるのか」
「普段は特に何も考えずに、仕事に行って帰ってきて、あんまり綺麗じゃない部屋で寝ておりますがね」
「まぁ、そうなんだろうろうけど。あの土下座の日にさ」
「ああ、あの土下座」
「うん。あの日、ハルカの会社から喫茶店まで二人で歩いてただろ? そんときに」
「うん?」
何か惚れられるようなことをしただろうか。そんな覚えは全くないが。
「ティッシュ」
「は?」
「道で配ってるティッシュ、全部もらってた」
「そうだっけ」
会社から少し離れた喫茶店までの道には繁華街もあって、たしかにそこではよくティッシュを配っているけど、あの日受け取ったかどうかは覚えていなかった。
「四つめを受け取ってるときに、この子よっぽどティッシュ欲しいんだなと思って」
――惚れポイントの話をしていたはずなんだけど、どうしてちり紙の話になってるんですかね。
「でも、その後差し出されたチラシも受け取ってるの見て、ティッシュが欲しいんじゃなくて断れないんだって気づいた」
「……それだけでよくわかったね」
「まぁ、まさに俺の話を断りきれなかったところだったし」
真吾はものすごく楽しそうな表情だけど、私にはまるでわからない。何がそんなに愉しいんだ。
「えーっと、それのどの辺が私を知りたいってとこにつながるんですかね?」
「だって、そんな人会ったことなかったから。受け取ったティッシュとチラシをしまおうとして開けたカバンから他にもティッシュが覗いてるのが見えたとき、まじで笑いそうになった」
そんなことで笑っていただけるとは。カバンの中の整頓をちょっと怠っているとすぐにティッシュ天国になるもんでね。
「それに、知ってる? 男と二人でレストランに行った時の、女性の優秀な対応」
「ん?」
「一旦財布を取り出して払うそぶりを見せつつ、男が『いいよ、俺が出すから』って言ったら、『いいの? ありがとう。ごちそうさま』って言って優雅に笑うんだ」
ほぉー。
「もちろん、男が払うのが当たり前って感じの女性よりもその方がいいのは確かだし、そういう女性は大抵男の評判もいいよ。だから優秀な回答とされているわけで」
ふむ、ふむ。
「でも、もう見飽きた。みんな揃いも揃って同じセリフに同じ仕草。一応取り出してみせる財布のブランドまで同じなら、翌日に送られてくるお礼のメールの文面も似たり寄ったり。誰と行っても楽しい時間を過ごせるけど、逆にいえば誰と行っても同じなんだ」
ふぅん。
そんなもんかねぇ。
「でもハルカはさ」
そう言って真吾は何か思い出したように笑った。
「覚えてる? 何て言ったか」
「ううん」
「レストランに入ろうとしたら、店構えを見るなり『こんなレストラン、お金足りるわけなかろーが! 却下! 却下!』って言ったんだよ」
「……いつだっけ、それ」
「結婚情報誌読んだ日」
「ああ、あの日」
「そう、あの日。あれを聞いて、ああこの子はマジで払う気があるんだなぁと思って。別に払わせる気なんてなかったけど、あんまりまっすぐなんで、ちょっと面白いなって思ったんだ」
「面白い……」
褒められてるのか、けなされてるのか。
レストランが見るからにラグジュアリー感を醸し出していて、とてもじゃないけど仕事帰りの格好で入れるような雰囲気じゃなかったから、勘弁してくれと頼んだのだ。結果的に連れていかれたプランBのレストランだって私からすれば贅沢すぎだったし、そこでの代金はどうしても受け取ってもらえなかったけど。
「いろんな顔を持ってるなって思ってさ。クールなのかと思ったらすぐ凹んだり、キスひとつで泣いてみたり、怒ったり、笑ったり。素直なのかと思ったら、下手な嘘をついたり。鈍感なのかと思ったら、意外と鋭かったり。一生懸命生きてる感じがして」
「ええまぁ、必死こいて生きてますよ」
私は小さいころから、思ったことが全部顔に出ちゃう子供だった。そのせいで人とトラブルになったこともある。
でもそれをこんな風に評価してくれる人がいるなんて。
それだけで、私は丸ごと報われてしまうのだ。
「そういう嘘がないとこが好きだ。俺はさ、いくらでも嘘つける。大嫌いな人にも笑顔を見せられるし、頼まれれば嘘でも『好き』って囁ける。そうやって生きてきた。楽だから。自分がそうだから、相手の言葉もあんま信じてない。人は嘘をつけるって知ってるから。でも、ハルカはきっと嘘つかない。嫌いなものを好きとはいえないし、ダメなものを良いとは言えない。絶対に生きにくいに違いないのに、そうやって生きてるのを、ただすごいと思った」
――あー、やっぱりこの人、反則だよ。
「さっきのあれも。シャンプーの泡をつけたまま風呂場を飛び出した奴なんて、見たことない」
真吾があんまり楽しそうに笑うので、私もつられて笑ってしまった。
でも、これってもしかして、今だけ物珍しくて新鮮なやつじゃないかな。
そう思ったら、例の女性芸能人の声が脳裏に響いた。
『物珍しさなんて1カ月で消えるんでぇ』
風呂場から飛び出すなんて、見慣れてしまえばただの奇想天外だ。珍獣だって、珍がなければただの獣なのだ。オカピがその辺の道端で群れていたら、わざわざ動物園にオカピを見に行くひとはいなくなるだろう。
「ていうかさ、もしかして今まで彼氏と風呂一緒に入ったことない?」
真吾の言葉に、忘却の彼方に押しやろうとしていた記憶が引きずり戻されてきて、返事の代わりに頷いた。
真吾は驚いたような表情を見せたあと、何か言い出そうとして口を開けたまま私の表情をつぶさに観察する。そして、目を眇めてゆっくりと問いかけてきた。
「あのさ。もしかして……もしかしてだけど……経験、ない?」
私は縮こまってソファーに正座した。
「ない……です」
「それってつまり……」
「正真正銘の生娘でございやす」
真吾は長い脚をくつろがせているが、こちらはちっともくつろぐような気分ではない。
なんだ、この気まずさは。
中学の保健体育の授業もこんなには気まずくなかったぞ。
「彼氏、いたんじゃないの?」
真吾は軽く首を振りながら目をしばたかせた。よほど信じがたいらしい。
「いたよ。五十人もはいないけど」
「何人?」
「三人」
別に多い方ではないかもしれないが、ひどく少なく聞こえるのは私のせいではないはずだ。
「なのに?」
「一人目と二人目は高校生のときで、イマドキの高校生みたいに進んでなかったから清いお付き合いをしてたの。学校から一緒に帰ったりとか。それで三人目は、相手の人が敬虔なクリスチャンか何かで……ちょっと宗教忘れちゃったけど、宗教上の理由からそういうことできない人だったの。婚前交渉の禁止っていうのか」
「うそだろ……」
真吾が顔をしかめた。
「うそじゃないよ! だから、ごめんなさいね! お子様で! ビギナーなの! 風呂場覗かれたことなんてあるわけないの!」
「嘘だと言ってくれ……」
「残念ながら、紛れもない事実だから」
そう言った後、ふいに小さな不安に襲われた。どう見たって経験豊富じゃないことはわかっていただろうが、ここまでとは思っていなかったようだから……
「がっかりした?」
下唇を噛みしめた。
がっかりしたとか言われようものなら、蹴り飛ばして帰ってやろうという決意を込めて。
だけど強気な考えとは裏腹に、どうやら私の表情は不安げだったらしい。
真吾はしばらく私の顔を眺めてから、ふっと笑みをもらした。そして向かい側のソファーから私の横に来て腰を落とす。
「そんな顔するな。そんなことにこだわるほど小さい人間だと思われてるなら、心外だな」
「そっか」
ほっと胸をなでおろした。
「あ、そういえばさっき出かける前に言ってた、欲しいものっていうのは?」
「ああ……いや、もういいんだけど」
真吾は苦笑した。
「ハルカが欲しいって言いたかったんだけど、やっぱなしで。もう時間も遅いし、今日は寝よう。俺、風呂入ってくるから。先に寝てていいよ」
ぽかんとしてしまう。
さっき仕事の電話が入らなかったら、そんな艶めかしいシーンが繰り広げられていたかもしれなかったのか。
やっぱし百戦錬磨は一味違う。
「意味わかってる?」
私の間抜けな表情を見て不安になったのか、真吾が畳み掛けるように言った。
「わかってるよ! つまりあれでしょう! 私を手籠めにしようというんでしょう! つまり契りをかわそうと!」
そんな私のセリフに、真吾は声を上げて笑った。
「接吻に引き続き生娘に手籠めに契りか。もう、いっそ楽しみだよ。そのボキャブラリー」
「あの……その辺は……いずれってことで」
「うん。わかってる。別に焦るつもりはないよ」
そう言った真吾の目には優しさが灯っていた。
余計なことを考えても仕方ないから、その灯にすがることにした。
いつまでもその灯が消えないことを、ただただ願って。




