24 汚部屋と御部屋
「付き合ってあげる、か。言うねぇ」
頭上から声が響いてきて、腕の力が少し強まった。
――く、苦しい……
だけど、言葉とは裏腹に暴れ気味の真吾の鼓動を聞いていると、爆発寸前だった私の脳みそも少し落ち着きを取り戻し始めた。
「……で、どうする?」
真吾が私を腕に閉じ込めたまま問う。
「寒いし、中入らない?」
そりゃあそうだ、この真冬にTシャツで寒くないわけがない。そう言うと、真吾は「貧乏系だからな」と言って笑った。
「あ、そうだ。ジャケット返さなきゃ」
真吾の言葉で、カーテンレールにかかったままの服の存在を思い出して腕からごそごそと抜け出した。あれを羽織れば少しは寒さもしのげるだろう。
「真吾さん、ここで待ってて。ジャケット取ってくるから」
「えっ」
真吾は驚いたような顔をする。
「えって何」
「俺、ここで待たされんの? 彼氏なのに? 今日、バレンタインなのに?」
「どういう意味よ」
「バレンタインにカップルでやることってひとつでしょ」
チョコレートくれってか。
「いや、もうお店閉まってるから。また今度ね」
「お店って何の」
「チョコ」
「はい?」
「チョコレート欲しいのはわかったから、今度にして。で、ジャケット取ってくるからここで待ってて」
――まったく、見た目に反してなかなか物分かりの悪い男だ。そんなことで本当にチャラ男業が成り立つのか。
オートロックの鍵穴に鍵を差し込んで右に回しながら考えた。
それにしてもこの人は、ぼろい服なのになんでこんなにかっこいいのか。チャラ男業の先行きよりも、そのことが気になった。
古着がヴィンテージものに見える。いや、本当にヴィンテージものの可能性もあるけれど。古着とヴィンテージの違いについては聞かないでほしい。ヴィンテージとアンティークの違いも問わないでほしい。知らないからだ。
グイーンと左右に開いたガラスドアの中に入ろうとすると、さも当たり前のように真吾がついてきた。
「ちょっと、なんで真吾さんまで入ろうとしてんの」
「ハルカの言いたいことはよーくわかったけど、外は寒いんだ。せめて一緒について行ってもいいだろ」
早速のハルカ呼びに顔が熱くなった。
そんな私を見てニヤリと笑って見せる辺り、この男はやはり慣れている。
「ほら、ほらほらほら。ジャケット取りに行くよ。早く」
私は追い立てられるように歩きつつも、体をよじって対抗する。
「ちょっと待って。ここに居て。取ってくるから」
私が1階のエレベーター前のホールに彼を押しとどめようとすると、真吾は本気でちょっと不機嫌な顔をした。
「何でそんなに入れたがらないんだよ。何があるんだ、部屋に」
「そ、それは……」
真吾はエレベーターに私を押し込み、後から自分も乗り込んでくる。これは本気で部屋までついてくる気だ。
背中を滝汗がつーと伝い、生唾をごくりと飲んだ。
すでにお察しのことと思うが、部屋がやばい。
風邪をひいて課長が来てくれた時もひどいものだったが、それから私の部屋はさらに進化を遂げていた。いや、この場合退化と言うべきか。
一か月前に美咲と真吾がやってくれた誕生日会のときのシャンパンの空のボトルとか、ケーキの箱とか、そんなものがすべて玄関に放置されている。いつか捨てようと思ってはいるが、朝から夜まで仕事をしているとゴミ出しのタイミングを逃すことも多いのだ。おまけにここのところ課長やら真吾やらのことで頭を悩ませていたせいで、部屋のことに気を配っている暇が全くなかった。
今朝も、寝間着代わりにしている部屋着は脱ぎ散らかしたままベッドの上に放り投げて来たし、シャワーを浴びた時に使ったバスタオルは洗濯機にでろんと掛けられたままだし、ちゃぶ台の上には化粧道具が散らかり、朝食のパンの袋が狙った通りにゴミ箱に入ってくれなくて手前にひらりと落ちたままだし、服を迷って結局着なかったカーディガンをぽいとテレビに引っ掛けた気がする。
つまり、汚い。
あれを見せるわけにはいかない。
そんなことを考えている内にエレベーターが3階に着き、私は真吾に押し出される。
いや、やはりここで待っていてもらわなくては。
「あの、ここ、ここならそんなに寒くないし、一瞬だから! 一瞬でジャケット取って戻ってくるからここに居て」
「なんで」
「ちょっと、まぁ、色々と事情が」
しどろもどろになってしまう。
「事情って何」
「色々あんのよ。いいから。取ってくるから」
「ちょっ」
まだ何か言っている真吾を残して私はそそくさと廊下を移動して部屋の鍵を開け、わずかな隙間からさっと部屋に入り込んで鍵をかけた。
「おっひょ」
あまりの汚さに自分でも驚いてしまった。さきほど脳内に描いた自分の部屋のイメージビジョンより現実の方がずっと厳しかった。足の踏み場がないほどではないが、付き合いたてほやほやの相手に見せられる部屋じゃないことだけは確かだ。
ふぅっとため息をつき、窓際にかけてあったジャケットを取る。
かろうじてこれをハンガーに掛けた私、本当にえらいと思う。
あとはジャケットを渡して早々にお引き取り願えば万事オーケーだ。
部屋の中をのぞかれないように巧妙にうすーくドアをあけてそこから体を出そうとした瞬間、ドアを外側にぐいと引かれた。
「うわっっ」
私はバランスを崩して廊下に転がり出た。
しまった。待ち伏せという手があったか。
「何を隠してるんだよ、何を」
「やめてーっ」
ドアをひっぱった犯人が部屋を覗き込もうとしているのがわかって、私は真吾の視線を遮るようにジャンプしながらその手をドアノブから引きはがし、渾身の力を込めてドアを閉めた。ドアに押された空気がぶんと隙間からこぼれ出るのが分かった。そのまま開けられないように急いで外から鍵をかける。
ふぅ。
危ないところだったが、私の素早いジャンピングブロックのおかげでたぶん部屋の中はほとんど見えていないに違いない。
額の汗をぬぐい、ジャケットを差し出した。
「はい、ジャケット。ありがとうございました」
さっきの離れ技のせいでちょっとくしゃっとなってしまったが、皺が残るほどではあるまいて。
パンパン、と手をはたき合わせ、部屋のことを誤魔化すようににっこりとほほ笑んで見せた。
が、そんな私をひと睨みして真吾は目を眇めた。
「怪しい」
えっ。
「そんなに必死に何を隠そうとしてんの。誰かいるの?」
想定外の質問だった。
あの汚い部屋に誰を匿うというのか。あり得るとしたら小虫ちゃんとかだけど、今のところ奴らに悩まされたことはない。散らかってるだけで不潔ではないからな。大事なことだからもう一度。散らかってはいるけど、不潔ではない。訂正。少しばかり不潔かもしれないが、健康を害するほどではない。
それにしても、真吾の顔が怖い。
このままダンマリを決め込んでも諦めてお引き取りくださる感じではなく、落ち着いていた滝汗がまた戻ってきてシャツが背中に張り付いた。
手からも、じわりと汗。
「ねぇ、何で部屋に上げてくれないの」
顔立ちの整った人が不機嫌な顔をするとものすごく怖いのだということを、私は初めて知った。
「ハルカ?」
くそう、これは、正直に話すしかなさそうだ。
これほど嫌がっているというのに察してくれないなんて、鈍い男だ。
「あのね、女の子が部屋に男の人を上げたくない理由なんてひとつでしょ! 私は真吾さんがこれまで付き合ってきたような女の人とは違うんだから!」
この人が付き合ってきた女性たちはきっと綺麗なマンションに住み、部屋でも綺麗な服を着て、きちんと整頓された清潔なキッチンで料理を作る、そんな人たちだったに違いない。いつでもどこでも完璧な美しい人たちだ。
冷蔵庫の中にネギのミイラが入っているような女とは人種が違うのだ。ついでに言うと、熱を出した時に課長が枕元から回収して冷凍庫に放りこんでくれたうどんは一度解けたせいでぐちゃぐちゃに絡まって、脳みそのような形で凍っていた。おぞましくて食欲が失せるのでまだ食べていない。
「どういう意味だよ」
余計に機嫌が悪くなった声で言われる。
「俺さっき告ってOKされた気がするんだけど、気のせいだった?」
「気のせいじゃないよ! でも、だからって汚い部屋を見せていいってことにはならないでしょうが! いや、むしろ付き合ってるからこそ見られたくないでしょ! 汚部屋! 自慢じゃないけどね、今の私の部屋はね、百年の恋も冷めるやつよ!」
つい力が入ってしまった。
「はい?」
真吾はジャケットを持ったまま固まっている。マンションの共用廊下でバレンタインデーに汚部屋自慢をしている女なんて世界中を探しても私だけに違いない。
「……俺を部屋に上げたくない理由は、部屋が汚いから?」
「そうだよ! それ以外に何があるっての!」
乙女心を理解しないにもほどがあるだろうが!
チャラ男ならそれくらい押さえておけ! 基礎の基礎だ!
「……なるほど」
そう言ってから真吾はふーっと息を吐いた。
「それが……女が部屋に男を上げたくない理由ね……うん、今、津野さんの苦労がよっっくわかった。うん。なるほどね」
うん、うん、と真吾は何度かうなずく。
「女が男を部屋に上げたくない理由……ひとつだと思ってたけど、違ったってこともよくわかった」
「どういう意味?」
「いや、こっちの話。まぁとりあえず攻め方を変えないとね」
そう言ってふーともう一度ため息をつく。
どこかで聞いたようなセリフだ。
「わかった。ハルカの部屋が汚くて俺に見られたくないんだね? でもさ、俺、せっかく両想いになったんだから今日はもうちょっと一緒にいたいんだよね。でも、ハルカは部屋には俺を入れてくれないと」
そう言って言葉を切り、少し身を屈めて私の顔を覗き込む。子犬みたいにキラキラした目でこっちを見ながら、「それなら、今から俺の部屋に来ない?」と言われた。
『両想いになったんだから…』
いい響きだ。
素晴らしい響きだ。
なんだ、このドキドキ感は。
ハスキーボイスがざらりと耳の内壁を掠めて、私の脳みそに突き刺さる。
「いいよね? ハルカ?」
私の背には廊下の手すり。
前方には目をキラキラさせた男。
絶対にわかっていてやっているのだ。
この人にこんな風に頼まれたら、大抵の女性は断れないだろう。
この男は絶対に、あらゆる意味で確信犯だ。
「で、でも、もう、夜遅いし……」
真吾がため息を吐いた。
「あのさ、俺、今日誕生日なんだよ。せっかくハルカと両想いになれたのに、そんな誕生日を一人で過ごすなんて寂しい。だから、一緒に来てほしい。遅くなっても車で必ず送るから」
時計を見ると、時刻は二十二時を回ったところ。
ううむ。遅い。遅いが、まだあと二時間ある。私の誕生日は祝ってもらったのに、誕生日を一人で過ごさせるなんて、寂しすぎる。
「来てくれる?」
彫刻みたいな顔を切なげにゆがめるので、私は思わずうなずいてしまった。
「よし。じゃあ車停めてあるから、行こう」
マンション近くのコインパーキングに停めてあった車の助手席に乗せられて夜道を進む。
知らなかったんだから仕方ないとはいえ、プレゼントひとつ用意していないことが気にかかった。
ここはいっちょ手料理か何かを振る舞えばいいのだろうが、私の手料理は自身ですら食べたくないものが出来上がることがしばしばだ。自慢じゃないが、高校時代に作った餃子で一番上の姉を病院送りにして以来、嘉喜家では「地震雷火事餃子」が標語として掲げられているくらいだ。付き合って早々に相手の腹をぶち壊すのは本望ではない。
うんうん唸りながら考えているうちに、彼のマンションに着いてしまった。
何度見ても腹が立つほど高級そうなマンションだ。
エントランスにとてつもなく大きな花瓶が置いてあって、そこに生花が飾られている。そして一つ目のオートロックの扉を抜けても、あと二つある。
さらにその中にはコンシェルジュだか管理人だかが立っていて「倉持様、おかえりなさいませ」なぞと言ってくるのだ。初老の男性だが、これがまた、ダンディである。
これまで二度訪れた時は、「ひゃーマジでこんなとこに住んじゃってんのねー」なテンションできょろきょろしたりしたが、今日はそういう気分にはまったくなれなかった。
「はいどうぞ」
ドアを押さえてそう言われ、おじゃましまーすと小さな声で言いながら部屋に入った。玄関にセンサーがついているらしく、人の気配を察知するとパッと部屋の明かりがついた。センサーて。見張られてる感がやばいんですが。ポルターガイストのピーブスが家にいる方がまだセンサーより寛げる気がするのは私だけですか。
「まぁ、ソファーにでも座って。飲み物用意する」
真吾の言葉にうなずきながらリビングに向かった。
憎たらしいほど整頓された美しい部屋だ。
フローリングにも埃ひとつ落ちていない。私のあの汚部屋との差と言ったら。こっちは御部屋と呼ぶべきか。
ソファーに腰掛け、それから目だけを動かして部屋中を眺めた。
モノトーンを基調に揃えられた家具たちはモデルルームの中を覗いてるみたいな非日常感を醸し出しているし、その中で時計のフレームだけが赤いという小馴れ感もまた、私を落ち着かなくさせる。
この部屋に来るのは三度目だ。
三度目なのだ。
三度目! つまり、緊張するようなことはないはずなのだ!
なのになぜこんなに手汗をかくのか。
ぶっちゃけると、脇汗もかいている。
とてもじゃないがソファーでくつろげるような精神状態ではない。
「さて」
ガラスのコップに入れた飲み物を運んできた男が真正面に座って足をくつろがせ、ひねた笑いを浮かべてそう呟いた。
いつ見ても長い足だ。
「あの、誕生日おめでとう。プレゼントとか何にもなくてごめんなさい。近いうちにちゃんと用意するから」
「いや、そんなの気を遣わなくていいよ。ただ……」
「ただ……?」
「欲しいものがあるんだよな」
「何?」
私でも買えるようなものだろうか。
通帳に印字された貯金残高が脳のはじっこを掠め飛んでいく。元来ひきこもり体質で買い物に出かけたりもほとんどしないので、手取りの割には少なくはないと思う。しかし、ボンボンの基準はわからない。ブランドものの腕時計なんかを指定されたらリサイクルショップ巡りをしないといけなくなるかもしれない。それこそ、古着とヴィンテージものの違いのわからない女の腕の見せ所である。古着をヴィンテージを押し切ってプレゼントすればよい。
「あのね……」
そう言って真吾が立ち上がったその時、ローテーブルに投げ出された携帯がけたたましい音を鳴らして着信を知らせた。
真吾は動きを止めたまま、私を見ている。
「あの、携帯、なってる」
「わかってる」
「出なくていいの?」
「こっちは仕事用だから、出なきゃダメだと思う」
「出たら? 私は気にしないし、ここで空気になってるから。気にせず話して」
「いや、今、俺、出たくない」
何を子供みたいなことを言うておるのだ。
「でも出なきゃいけないんでしょ」
「くそっ」
真吾は頭をがしがしと掻きながら、諦めたように携帯を手に取った。そして画面を見つめ、一発舌打ちをしてからそれを耳にあてた。
最初に飛び出した言葉は“Hello?”だ。
ジャパニーズオンリーなわたしにもさすがにわかる。これは英語だ。
英語はまったくわからないが、真吾が苛立ってることはわかった。
真吾は続けて何やら英語でやり取りをしているが、なかなか切らないでジリジリと赤い時計を睨んでいるところを見ると、どうやら緊急の用事らしい。
しばらく話している間私は存分に真吾の英語を堪能し、真吾が電話を切るなり声をかけた。
「真吾さん、行っていいよ? 緊急でしょ?」
真吾は黙って何か悔しそうに下唇を噛んでいる。
「何もこんな日に……」
「でも、今日中に対処した方がいい問題なんじゃないの?」
「ハルカ、英語わかるの?」
「いや、全然。でも緊急でしょ? 空気感でわかった」
「そうだけど……」
「いいよ、私タクシーで帰るし」
そう言ったら真吾は首をふった。
「いや、帰んないでよ。俺、今晩この家に一人で帰って来るの嫌だよ。明日俺も仕事休みだし、一緒に出掛けよう? 明後日は実藤家と倉持家の顔合わせだから色々忙しいし」
「いや、でも……」
「待ってなくていいから。先に寝てて。でも、帰らないでほしい。テレビとか好きに見てくれていいし、風呂も入っていいから。腹減ってたら、冷蔵庫のものテキトーに食べて。あと、来客用の服が黒いチェストの引き出しの一番下に入ってるから使って」
「あの、でも……」
「お願い。ハルカ」
ああ、またその顔。ミケランジェロもびっくりの美しさで懇願されては、うなずく以外に選択肢はない。
「わかった。わかったから、いってらっしゃい」
「ああ、何でよりによって今日なんだ。なんでこのタイミングなんだ! くそっ」
そう言い捨てて、真吾は出て行った。
プレゼントがよほど欲しかったんだなぁ。
やれやれ、あんなに大きいくせに。子供みたいな奴だ。
物欲があんまり強い人じゃないといいなぁ。一緒にいて疲れそうだし。
そんなことを考えながらぽつんと一人取り残され、暇なのでテレビをつけてみた。一人暮らしの部屋に60型のテレビって、何を考えているのか。
テキトーにチャンネルを変えていると、「深夜のぶっちゃけトーク!」というお題の芸能人赤裸々話をやっていた。別にそれほど興味があったわけじゃないけど、適度な騒がしさのおかげで寂しさがまぎれるし、暇なのでぼーっと画面を眺めていた。
耳に流れ込んできたのは、最近ドロ沼の離婚劇になった女性芸能人の激白だった。彼女の元夫はたしか売れないミュージシャンだ。女性芸能人の方は幼いころからキッズモデルとして活躍し、子役デビューしてからアイドルタレントを経て女優に転身という華麗な経歴の持ち主だったため、結婚当初は「格差婚」と言われて随分話題になった。しかし結局一年足らずで離婚。
幸せそうな結婚会見の映像が流れる。
『小さい時からこういう世界で生きてると、あんまり叱ってくれる人とかいなかったんですよね。でも、彼は私が非常識なことをすると叱ってくれて。それがすごく新鮮だったんです』
それから画面が切り替わり、女性芸能人が過去の映像を見て苦笑しながら語り出した。
『最初はよかったんですよ。何かすっごい珍しくて。だから一時的にすごくのぼせちゃって。物珍しさみたいな感覚を好きと勘違いしてただけっていうかぁ。でも、価値観の差はやっぱり埋められないし、物珍しさなんて一カ月で消えるんで、結婚三カ月目くらいで無理って感じになったんですよぉ……』
妙に間延びした声が、耳ではなく心に突き刺さった。
続きが全然聞こえない。
――これだ。
物珍しさ。
倉持真吾が私と付き合おうと思った理由、これに違いない。というか、これしか考えられない。
倉持真吾はこれまでに、自分を嫌う女になんて会ったことがなかったに違いない。そこに現れた私が「オレ様御曹司は理想の真逆だ」とか何とか言ったので、物珍しさから狩猟本能に火がついたのだろう。
――物珍しさなんて一カ月で消えるんでぇ。
一カ月。
一カ月か。
短い。
テレビを消し、ゆらりと立ち上がった。
お風呂にでも入ろう。そして真吾が帰って来たらなんで私と付き合おうと思ったのか聞いてみよう。もしかしたら、私に何か特別なものを感じたのかもしれない。
前向きに考えてみようと思ったものの、自分を一番よく知る自分ですら何も特別なことを思いつかないこの悲しさと言ったら。
人並みでも十分幸せだと思ってきた私にとってそれはちっとも嘆くようなことではなかったはずなのに、今は何か特別なことが欲しくて仕方なかった。
何でもいい。
ずば抜けて可愛いでも、ずば抜けて脚が長いでも、ずば抜けて顔が小さいでも、それが贅沢過ぎるというならもっと細かくずば抜けて睫毛が長いとかでもいい。
何か……………………無い。
平均身長より少しだけ低い背に平均的な体重、顔立ちは高校時代の男友達いわく「許容範囲」で、類稀な短足遺伝子を両親双方から受け継いだ日本人体型に、大きくも小さくもない頭が乗っている。顔で唯一の自慢ポイントは黒目が人より大きいことと、まつ毛が長いこと。シャープペンの芯が4本は乗る。だけど目が大きいわけではない。むしろどちらかといえば小さい。横幅が狭い。
勉強面についていえば、通信簿には3と4が並び、音楽と体育だけが5というなんとも言えないレベル。走るのだけは昔から早かったけど、運動部に入っていたわけではない。小さい頃からピアノを習っていたので、突き指などの怪我に繋がる可能性の高いスポーツは意識的に避けてきた。
――ピアノ、か。
思わずふぅとため息がでた。
あれは人並み以上と言えるのだろうか。音大に通っただけで、普通のOLをしている身で。上を見ればわたしより上手な人などごまんといる。「あなたの音って何か紫色」と同級生から言われて「何言ってんだコイツ」と思ったわたしは、つまるところ凡才なのだ。
考えれば考えるほど暗い方向に進んだので一旦考えるのをやめ、ぐんと伸びをした。こうすれば大概の嫌なことは、飛んでいく。
来客用の着替えが入っていると言っていた引き出しをのろりと引っ張ると、むぎゅっと何かが奥に詰まるような感触があった。少し力を入れて引っ張り、奥に手を入れた。そこに引っ掛かっている柔らかいものを掴んで取り出す。袋のようなそれを開けて、思わず手を止めた。
「こ、これは……」
何が来客用だ。この世界のどこの馬鹿が、元カノのものを彼女に着せようとするのだ。それともアレか、チャラ男界ではそれがスタンダードなのか。
袋のなかに詰まっていたのは、下着と呼んではいけない代物だった。パンツとブラとか言ってもいけない。下履きと胸当てでもない。ランジェリーと呼ばないといけないやつだ。
黒やら赤やら、攻撃的でギッラギラのセクシーなランジェリー達があふれている。
布地の少ないレースのランジェリーと、見てるだけで恥ずかしくなるデザインのビスチェ。ほとんどレースで構成されたそれらは、「隠す気ありますか」と問うてみたいほど、下着としての機能を放棄していた。
「I‐65……」
思わずブラのサイズをチェックして、気を失うかと思った。
物珍しさはもしかして、貧乳のせいか……!




