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accelerando  作者: 奏多悠香


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23 バレンタインデー(2)

 ずたぼろの服を着た男は、倉持真吾だった。


「真吾さん、何してんの」

「ハルカちゃんに会いに来たんだよ。日曜の朝に電話ぶっち切られて以降、メールも電話もシカトされてたから」


 そう言った真吾はちょっと不機嫌そうだった。

 シカトしていたというか、あれ以降携帯を見ていないのだ。久美姉の車で出かけるときにベッドの上にぽいと投げた携帯は、帰ってきたときにはバッテリー切れの状態で転がっていて、それを充電することなく放置してあった。

 理由は、見たくなかったからだ。

 課長から逃げ回ったのは、傷つけるのが怖かったから。

 真吾から逃げ回ったのは、傷つくのが怖かったから。

 そしてどうやら今日、恐れていた事態をダブルパンチで受け止めなくてはならないようだ。人を傷つけた日に傷つくことになるなんて、「因果応報」という言葉が身に染みる夜になりそうだ。

 せっかく課長と行ったバーでほろ酔いになったのに、酔いなんて一瞬でぶっ飛んでしまった。


「その服、どうしたの」


 まさか「あー今日来ちゃったかぁその話はせめて明日以降にしてくれませんかねぇ」とは言えないので、とりあえず当たり障りのない話を振ってみた。

 近くで見ると、倉持真吾の着ているTシャツは色落ち感が半端なく、ジーパンもあちこちこすれて穴があいている。一瞬倉持グループの破たんを心配したが、そんなことになったら日本の経済がどエライことになるので、街では号外がまき散らされるはずだ。そんな気配は街のどこにもなかった。


「だから、ハルカちゃんに話があるんだってば」


 なおも不機嫌な声が返ってくる。

 が、不機嫌になりたいのはこっちだ。

 私に話があるからってぼろい服を選ぶって何だ。新手の嫌がらせなのか。


「津野さん、どうしたの?」


 唐突な質問に面食らいながら、嘘をつく理由もないので正直に答えた。


「送ってもらったの。飲みに行った帰りに」

「付き合うの?」


 何の感情も読み取れない目でそう問われる。それが余計に人間離れした美しさを湛えていて、ちょっと恐ろしいくらいだった。


「なんで?」

「なんでって。ただ、付き合うのかなぁと思って。今日はバレンタインだし」

「言ったでしょ。課長のことは人として好きだけど付き合えないって。義理チョコ渡して断って来た」


 言った途端、自分はつくづくバカなやつだと思った。


「そっか」


 それでもどうしてか、目の前にいるこの人に、私の心は吸い寄せられる。


「俺さ、どうしてこの服で来たと思う?」


 唐突だなオイ。さっきから私はそれをあなたに尋ねていたんだ。それにしても、見れば見るほどぼろい服だ。


「さぁ……着替えるのが面倒だった?」

「いや、こんな服持ってないから。わざわざ古着屋に行ってこの服を買って、着替えて来たんだよ」


 確かにいつも王道セレブカジュアルな装いのこの御仁がボロボロの服を持っているとは思えなかった。何だ、やっぱり新手の嫌がらせか。


「どういうことよ。私に会うのにぼろい服で来るって。失礼な」


 私はちょっと本気でイライラしていた。からかうのもバカにするのも、もういい加減にしてほしい。いちいち振り回される方は、そのたびに心をすり減らすのだから。


「だって、卑屈系ビンボーだろ?」


 倉持真吾は涼しい顔でそう言ってニヤリと笑って見せたけど、なぜかそのひねた笑いがいつもと少し違って見えた。どこかこわばっていて、その表情を作り出すのに苦労しているような。


「何が?」

「ハルカちゃんの理想、卑屈系ビンボーなんでしょ?」


 そう言ってこちらを見た真吾の顔はしかめっ面で、肩を丸めて穴あきジーンズのポケットに手を突っ込んだその姿からは、たしかに似非卑屈系ビンボーの匂いが漂っていた。


「ハルカちゃんがそう言ったから、この格好で会いに来たんだ」


 一連の言葉にしばらく思考力を奪われ、ワンテンポ遅れて降ってきた可能性に脳みそが煮えたぎった。

 心音はもう、タップダンスを踊れそうなほどエライことになっている。


「これ一応、告白だよ」


 真吾は相変わらずしかめっ面だし、脳内で花火大会中の私の頭は働くはずもない。聞こえた言葉はただの音として私の耳を右から左に突っ切ってどこかへ飛んで行った。仏頂面の男と呆けた顔の女なんて、傍からみたらさぞかし滑稽だろう。


「聞いてる? ハルカちゃんのことが好きだって言ってるんだけど」


 ハルカチャンノコトガスキダッテイッテルンダケド


 音を変換し、脳内辞書を検索し、ようやくセリフが組みあがった。


 ――『ハルカちゃんのことが好きだって言ってるんだけど』……?


 いやいやいや、騙されるな! 嘉喜ハルカ! この男はまたお前をからかっているんだ! この後に続く言葉は「友達として」だ! だまされちゃだめだ! 心臓のタップダンス止まれ!

 脳みそにかーっと血液が集まっているのが自分でもわかるほどで、また視界が狭くなってきて思わずよろりと傾いだ私の肩を、遠慮がちに伸びた倉持真吾の右手がそっと支える。


「ど、どどどどどどういう意味で?」


 触れられた肩が爆発するんじゃないかと思うほど熱い。そして久美姉の話が本当だとしたら、私の寿命はたった今確実に縮まっている。


「ど、多いな」


 真吾はくすりと笑う。


「彼女になって欲しい。接吻をぶちかましたい。っていう意味で。あ、気を失うのはやめてほしい。いま俺真剣だから。俺のなけなしの理性を擦りきりたいなら別だけど。あと、逃げても無駄だから。この格好だから存分に走れるし、言っとくけど俺足めちゃくちゃ速いから」


 とりあえず、逃げても無駄だということだけは分かった。


「で、ハルカちゃんは? 俺のこと好きじゃないの?」


 好きでしょ? とでも言いたげな形の良い瞳が私の目をじっと見つめる。


「たっ……」

「た?」

「たったてっ……」

「たて?」

「立てばタンポポ座ればヨモギ眠る姿はハエトリソウ!」


 真吾はゆっくりと目を見開き、少し首を前に出した。


「何を言ってるのか全くわからない」

「つっつまり、わわわたしは、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花じゃないってこと!」


 どもりすぎた。


「なんだそれ」


 そう言ってから真吾は小さくため息をつく。


「俺が聞いてるのは、ハルカちゃんが俺のことを好きかどうかってことなんだけど」


 そんなことは心に問うまでもない。

 心臓も、全身の毛穴も、体の細胞が全部この人を好きだって叫んでる。

 だけどたったひとつ、脳みそだけがブレーキをかける。

 この人はムカつくほど自信満々だし

 チャラいし遊び人で

 その上なんかすごい金持ちだし

 私の嫌いな要素をあれこれ兼ね備えているわけで


「お、オレ様って嫌いなんだよね」


 ほら、脳みその命令で口がそうしゃべる。


「でも、俺のことは好きでしょ?」


 ずどん、と心臓を射抜かれたような気がした。


「で、でもっ」


 この人は伊織さんのことが好きで。

 いいんじゃないの、二番目でも。好きだって言ってくれてるんなら。

 いや、だめだめだめだめ。後で傷つくのは自分なんだから。

 断るの? せっかく来てくれたのに?

 天使と悪魔の囁き合戦。

 どちらが天使かはわからない。


「漏れてるよ。心の声」


 ハスキーな低い声が耳に届いたときには、私は真吾の腕の中にいた。


「俺のこと、好きでしょ?」


 耳からというより、それは振動となって私の体に直接伝わってきた。


「でも、わたし自分の三倍くらい睫毛がある人とはちょっと……」

「付き合えないって? なら、振りほどけば?」


 絶対に振りほどくはずがないとわかっている口調だった。天邪鬼としては、振りほどいてしまいたいところだ。それなのに、ちっとも体が動かない。


「振りほどかないの? それ、俺のこと好きだって解釈するけど」


 何だ、この、ムカつくのに抗えない感じは。

 バカたれハルカ、久美姉にあれほど言われたのに。

 でも、だって。

 迷っていた私の体が一層強く抱き締められて、身長差のせいで私の頭がちょうど真吾の胸に押しつけられた。途端に耳に入り込んで来たのは、真吾の心音だった。

 あれ、この人の鼓動もタップダンスみたい。

 そう気づいて私は頭を反らし、真吾の顔を見た。

 私を見下ろすその顔は真剣そのもので、余裕のある笑みを浮かべようという企みに失敗しているらしかった。

 そっか、この人も緊張してるんだな。

 そして、緊張させているのは私なんだ。

 そのことが私の背中を押す。


「いいよ、付き合ってあげる」


 腕の中でそう言った。




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