20 再・逃げ惑う私
週明けの月曜日から、私の戦争のような日々が始まった。
逃げ惑う生活が戻ってきたのだ。
倉持真吾の時は、会社帰りの待ち伏せを避け続ければよかった。でも今度は同じ部署の上司だ。業務上の連絡事項もあるし、同じフロアのすぐ近くの席にいる。
ただ課長は倉持真吾と違って私に無理に接触しようとはしてこなかった。その代わり、時折気遣わしげな目線を寄越して何か言いたげに口を開く。私はそのすべてをがっつり無視し、逃げた。仕事で必要なこと以外一切話さず、話しかけないでくださいオーラをずっと放ち続けたのだ。
同じ部署の人たちからは「何があったの」とちょくちょく聞かれたが、「告られて接吻をぶちかまされて混乱して逃げています」と言ったらお局から新人まで幅広い課長のファンに殺されそうなので言わないでおいた。
――どうしてこういうとき、私は逃げるという選択肢ばかりを取っちゃうんだろう。
そんな考えが何度も頭に浮かんだけど、私はその度に自分に言い訳した。
だって混乱していてよくわからないから。なんでこんなことになったのか、全然わからないんだもん。
倉持真吾から電話があったのは接吻事件から2週間後の週末。土曜から日曜へと日付が変わろうかという時刻だった。
『あ、ハルーカーちゃん?』
伸ばすところがおかしくて、外人の名前かと思った。
「どうしたの」
『どうもしなーい』
くすくすと笑う明らかに酔っぱらったその声には、いつものオレ様御曹司の影はない。呂律の回らなさからして相当飲んでいるのだろう。電話からアルコールの匂いがこぼれてきそうな気がするほどだ。
それにしても。
いつもムカつくほど紳士的でスマートなあの人が酔いつぶれるまで飲む姿なんて、想像もできなかった。
「いまどこにいるの?」
『どこだろーう。当ててみて?』
何を言っとるんだこの男は。
「……まわりに人は?」
『知ってる人はいなーい』
そう言った次の瞬間には電話は切れていた。子供みたいに語尾を伸ばして繰り返される言葉は、助けを求めているように聞こえた。
そういえばこの間、美咲と三人で顔合わせの日程を決めようとしているときに2月8日は予定があると言っていた。たしか「その日は夜パーティーがあって、叔父も俺も出席することになってるからダメだ」とか何とか言っていた気がする。
――『当ててみて?』
大嫌いだった。
語尾をはね上げてしゃべる、あのチャラ男独特のしゃべり方が。
それなのに、今は。
毛玉だらけの部屋着を脱ぎ散らかし、季節感がぐちゃぐちゃのクローゼットを開けて一番最初に目についたノースリーブのワンピースを掴み、頭からかぶるようにして着替え、前回使ってからちゃぶ台の上に置きっぱなしになっていたハンカチやらティッシュやらを引っ掴んでカバンにつっこみ、携帯と財布をその上に投げ入れて握りしめ、玄関にあったパンプスに足を押し込んで走り出した。
コートもマフラーも、何もかも忘れた。
2月の夜中の空気は身を切り裂くほど寒い。部屋を出た瞬間にそのことには気づいたけど、部屋の中にそれを取りに戻る時間すらもったいなくて、そのまま階段をかけ降りた。
走りながら携帯で番号を呼びだそうとするが、手がぶれてなかなか目的の名前にたどりつかない。やっとこさ見つけて、出てくれることを祈りながらコール音を聞いた。
『もしもし』
眠そうな声が聞こえてきた。
「あ、久美姉。よかった、出てくれて。あの、今日、今日都内のどこかでパーティーないかな? 倉持家の人が出てそうな」
『くらもち? ああ、麻布のホテルでやってるやつに倉持家みんな出てると思うよ。タカも招待されてて、行けない代わりに花出した。でももうパーティーはとっくに終わってるはずだよ。18時開場で、もうこの時間だから』
さすが、すらすらと答えが出てくる。
「いいの、ありがとう」
最後にホテルの名だけ聞いて電話を切ると、わたしはタクシーを止めるために大通りに出た。タクシーは運よくすぐにつかまった。
乗り込みながら行き先を告げると運転手さんはバックミラー越しにこちらをチラ見して「姉ちゃんその恰好で寒くないの。若いね」と言う。よほど酔狂な人間に見えたのだろう。
「寒いですよ。ちょっと急いでてコートを置いてきちゃったんです」
そう言って笑うと、運転手さんは車内の温度を上げてくれた。
何ていい人なんだろう。
小さな気遣いに心が震える。
さりげなくて、あたたかくて。
その気遣いは、課長のことを思い出させた。
――それで関係が壊れるのが怖いんだよ。
課長はそう言っていた。私はいま現に課長から逃げ惑い、以前の関係なんてもうどこに消えてしまったのかわからない。
胸がいたくなった。
2週間課長から逃げ回った私は今、そこにいるかどうかもわからない人のために真冬に不釣り合いなノースリーブのワンピースでタクシーに飛び乗っている。行ったその場所にいなかったとしても、多分見つかるまで探し回るのだろう。一方から逃げながら、他方を探している。どちらを好きかなんて問われるまでもない。
何であんなに優しい課長じゃなく、私が望むのはあの人なのだろう。
認めた瞬間に失恋が決定だというのに。
あの男の心には伊織さんがいるというのに。
わたしが決して敵わず、真吾の思いが決して叶わない相手。
――私、脳みその構造が素晴らしく単純にできてるんで、彼女がいる男の人には興味を抱けないんです。
課長に言った自分の言葉がよみがえってくる。
そう、彼女がいる人を好きになったことはない。
じゃあ、絶対に叶わない恋をしている人は?
彼女がいる人よりずっとタチが悪いんじゃないだろうか。
「ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
なぜあの男が今酔っ払っていて、なぜ私に電話をかけて来たのかわかっている。わかっているのになぜ行くのだろう。行けば心を抉られるのに。
運転手さんの「着いたよ」という声が聞こえるなりお金を払って飛び出した。ホテルに入ると、すでにメインフロントはクローズしていて、夜間チェックインのゲストのための小さなカウンターにだけ明かりがついていた。そこに駆け寄り、パーティーの会場を尋ねる。
コンシェルジュの男性が怪訝な顔で「もう数時間前に終わりましたが」と言ったとき、後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
「あら? ハルカさん?」
振り向くと、伊織さんが背の高い男性と一緒に立っていて、優雅にこちらに歩いてくる。すらりとしたその体をシンプルなドレスで覆っているところからして、伊織さんもそのパーティーに出席していたのだろうか。ご主人と共に。
伊織さんは私の顔をうかがうように視線を動かした後、ゆっくりと首を傾げた。
「伊織さん……こんばんは」
「もしかして真吾、かしら?」
私は頷いた。
この頬を伝う一筋の涙に、気づかれただろうか。
ふっと、花がほころんだ。
「最上階のバーよ。いつもそこにいるの」
私はお礼の意味を込めて頭を下げた。
芍薬は百合になって優雅に歩み去っていく。
後ろ姿まで完璧な人になんて初めて会った。細く、それでいてしなやかな。
伊織さんが腕をからめた男性はこちらに穏やかな視線を投げ、うなずくように頭を下げた。
あれが伊織さんの旦那さん。真吾が敵わなかった相手。背は高くて立ち姿も素敵な人だったけど、顔立ちが真吾のようにずば抜けているわけでも、自信に満ち溢れたオーラがあるわけでもない。それでも伊織さんは真吾ではなくあの人を選んだのだ。そしてそのことが余計に伊織さんの本気を表しているような気がした。
どっちが素敵とかそう言う問題じゃないんだ。比べるようなことじゃない。
課長の方がやさしいとか、課長の方が大事にしてくれるだろうとか、私にとってそれが何の意味も持たないのと同じように、真吾の方がかっこいいとかそんなことは、伊織さんにとっては何の意味も持たなかったのだろう。
もう一度二人に会釈をしてからエレベーターに乗り、最上階に向かった。
「真吾さん」
その背中はすぐに見つかった。伊織さんのドレスサロンで見たのと同じ、小さな少年の背中。
「あれぇ、ハルカちゃーん。どしたー」
振り返った目は真っ赤に充血している。
「電話をもらったから迎えに来てあげたの」
「電話なんかしたっけぇ?」
「覚えてないだろうけど、したの」
「えぇそれで来てくれたのー?」
「そう」
「何で何でー?」
「抱きしめに。たぶんそれが必要なんだと思ったから」
この人が私に電話を寄越した理由。
真吾は目を見開き、それから少し笑った。
「よくわかったね」
「パーティーだって言ってたから。あのご夫婦に会ったの? それで辛かったの?」
迷子の小さな少年に語りかける。
「そんなのしょっちゅうだよ。そうじゃなくて……今日は伊織の結婚記念日だから」
この人にとっては、失恋記念日とでも言うべき日ということか。
「そっか」
オレ様御曹司がすっかり小さな少年になった姿は雲上人だった時よりはるかに近くにあるはずなのに、その心は手を伸ばしても届かない場所にいる。
「ほら、もう帰らない?」
見渡した店内のどこにも、客の姿は見当たらない。それどころか、間接照明のほとんどが落とされ、バーテンダーらしき人はカウンターの向こうでグラスを磨いていて、ボーイさんが床の掃除をしている。
こういったホテルのバーは「部屋に戻る前に一杯」という上質な客をメインのターゲットにしているから、深夜営業はしないのかもしれない。
片付け作業をしながらも真吾を追い立てる気配が無いところをみると、おそらく彼は常連なのだろう。
「かえろかな」
ゆらりとスツールから降り立った男はためらいもなく私に体重をかけてくる。酒で火照っているらしいその体温が冷え切った私の体に触れ、胸がぎりぎりと音を立てて軋んだ。
それをごまかすように、私は軽く言った。
「重いって」
「支えになるために来てくれたんじゃないのかよー」
「そうだけど」
「あと、だきしめてくれるんだろー」
ダメな男だ。
「そうだね。ほら、歩いて」
私の肩に顎をのせたまま目を閉じてしまった男に代わって会計をしようとすると、店員さんが笑って言った。
「請求書を直接倉持様宛てにお送りしますから、かまいません。女性に払わせるのを嫌がりそうですから」
たしかにね。
「この人、いつもここで飲んだくれてるんですか」
「うちには潰れたいときにいらっしゃるようです」
女性が迎えに来たのは初めてです、いつもは従兄の方がいらっしゃいますから、と言われて私は苦笑いを浮かべた。
伊織さんのことを知っているのが私と貴俊さんだけだから、それだけなのだ。そこに深い意味はないことを私はよくわかっている。
――最上階のバーよ。いつもそこにいるの。
芍薬の花の声が脳裏に響いた。
違うんですよ、伊織さん。いつもそこにいるんじゃない。きっとあなたと会った後、いつもここに来るんです。
「ほら、真吾さん。ちょっと、起きてる?」
引きずるようにエレベーターに乗せ、1階を押した。ところが後ろから急に手が伸びて、その手は迷うことなく7階のボタンを押す。
「えっちょ、ちょっと……」
部屋を取ってあるのだろうか。あそこで酔いつぶれたということはそういうことか。いかんいかん、この流れはヤバイ。7階についたらエレベーターからほっぽり出してとっとと帰らねば、と決意を固くした。
ところが、7階の階数表示のボタンの横に目をやると、「大ホール」と書かれている。
あれ、客室じゃないってこと?
チン、と音がしてエレベーターの扉が開くと、その向こうには暗闇が広がっていた。
「ちょっと、ここ、客室の階じゃないよ。間違ってるってば」
「んーん。違ぅくねぇんだよ。ここでいーのいーの」
一人で満足に歩けもしないくせに「あっちあっち」と私を誘導する。
「ほらこれぇ、ここに電気のパネルあるから電気点けれるんだよぅ」
「あのね、ちょっと、そういうのを非常識って言うの。ほら、帰るよ。酔っ払い」
「いーんだって。ここ伊織の旦那のホテルだもーん。そんくらい許してくれるよぉ。物壊したりしないし」
真吾はずるずると歩いて行き、ホールの扉を開けた。
鍵、掛かってないんだ。
ぼんやりとそんなことを考えていたら、のし掛かってきていた体重がふわりと軽くなった。
「ここだけ開けといてってホテルの人にたのんだんだ」
真吾がいたずらっ子みたいに瞳を輝かせた。ホールの中はすでに片づけられ、たたまれたテーブルや重ねられた椅子が隅に積み上げられていた。
この酔っぱらいは、ここに何をしに来たのだろう。
「ほら、あった」
真吾がそれを指さして、カバーをバサッと剥いた。中から現れたのは、黒い大きなスタインウェイ。こんなところにこんなに高級なピアノがあるなんて。広い空間の中でも圧倒的な存在感だ。
「よいしょ」
周りに積み上げられた椅子を少しずらしてピアノの椅子に腰かけると、真吾は嬉しそうにその蓋を開けた。
あー、こんなシーン見たことある。
あれだ。リチャード・ギアとジュリア・ロバーツだ。
映画『プリティーウーマン』の一場面。心を通わせつつあるのにもどかしい二人が織り成す静かなラブシーンは美しくて切なくて。
真吾がそっと鍵盤に手を載せてすーっと息を吸った。最初の手の位置で、何を弾くかわかってしまった。
エチュード.Op.10,No.12
またの名を『革命』
ショパンの代表的な練習曲だ。難易度はそれほど高くないが聞き映えがするし、左手の練習に最適なことから、中学・高校生くらいの子どもの発表会でよく弾かれる。
華やかな力強い和音から始まるその曲は、ロシアのワルシャワへの侵攻とほぼ同時期に発表された憤りのこもった作品で、力強いイメージがある。
だけど真吾の紡ぐ音は胸に迫るほど切なくて、左手の奏でる繊細な音階に心臓を掴まれる。
あまり長くないその曲を、真吾は最後まで一気に弾ききった。こんなに酔った状態でよくこの曲を弾けるものだ。
「本当に、何でもできるんだね」
「……惚れた?」
そこにはさっきまでの少年はいなくて、元に戻ったらしい真吾の姿。
目は相変わらず充血しているけど、口もとのひねた笑いが「オレ様」だった。
「酔い覚ましなんだ。この曲、感情のままに弾くの好きなんだよ」
「そう」
感情のままに、ね。
「ねぇ、ちょっとこっちに座って」
重ねられた椅子を一つ持ち上げて床におろし、そこに座るように促した。
「なに?」
真吾は少しよろけながらもおとなしく腰掛ける。
私は真吾と入れ替わりにピアノの前に腰を落とした。久しぶりのピアノ。実家に帰った時くらいしか触ることのなくなってしまった私の相棒。
ゆっくりと鍵盤に手を載せ、目を閉じて大きく息を吸い込む。誰かに聴かせるためにピアノを弾くなんてどれくらいぶりだろうか。
目を開き、指を動かし始める。
ああ、鍵盤が軽い。
音がキレイ。
演奏会用のピアノに触れたのは久しぶりで、軽い緊張と興奮から指先をわずかな震えが襲った。
それを落ち着けるように目を閉じる。
選んだのは、静かで、難しいテクニックのいらない曲。日本人の現代作曲家が星をモチーフに作ったその曲たちは、きらきらと輝く音がこぼれるように美しい音色を奏でる。
革命もいいが、心を鎮めるときにはこの曲だ。
辛いとき、悲しいとき、私はいつもこの曲を弾いていた。音が少なくテクニックを要しない分、一音一音の輝きが静かに語りかけてくる。ペダルで伸ばした音も、このピアノならではの澄んだ輝きを聴かせてくれる。
きらきら、きらきら。
空っぽのホールに響いた音が戻ってきて、今出したばかりの音と絡み合う。
たしかこの曲は、カンタービレ。
こっちは、ドルチェ。
エスプレッシーボに、スケルツァンドに、レッジェーロ。
緊張のせいか、ミスタッチもいくつかあったけど、こんなに楽しくピアノを弾いたのは久しぶりだった。
たくさんの星座をめぐって夜空を一巡りしてから、そっと手を離した。
最後の一音が響き、その音が消えてなくなるまで耳を澄ましてからふうと息をついた。
夢中で、弾いていた。
私が息を吐きだした瞬間、倉持真吾がはじけるような拍手をくれた。ホールにたった一人分のパチパチという音が響き渡る。
真吾は笑っていた。その頬に光るものをこぼしながら。それだけで、私はおなか一杯になった。
「そういえば、音大って言ってたね」
「うん」
音大を卒業しても、ピアニストになれる人は一握り。有名になる人など、そのうちのほんのわずかな上澄みだけ。才能とチャンスに恵まれた人だけがそこに行けるのだ。
私はピアノが大好きだったけど、残念ながら特別なものは持っていなかった。コンクールに出る度、決して敵わない才能を目の当たりにした。彼ら彼女らの紡ぎだす音楽は、最初の一音から違っている。わたしの音には彼らのような、大勢の心を突き動かし、感動を与えるような特別はなかった。だから、必死で就活をして普通に就職した。そのことに後悔はなく、趣味として続けていくピアノが大好きだった。
だけど、こんな風に。
誰か一人でもいい、こうして涙を流してくれる人がいることは、演奏者としてこの上なく幸福なことだ。コンサートホールを埋め尽くす割れんばかりの拍手でなくてもいい。わたしの音を、特別に感じてくれる人がいる。
それがよりにもよってどうしてこの人なのだろうと、泣きたい気持ちもあるけれど。
「感情を叩きつけるように弾くのもいいけど、落ち着くためにはこういうのも悪くないでしょ?」
「すげぇな、まじで。感動して泣いちったわ」
いつもより少し乱暴な言葉でそう言う真吾に、いつもの仕返しで「惚れた?」と言ってやった。
形のよい目が見開かれる。
どうだ、驚いたか。してやったり。
そう思ったのに。
驚いた表情は一瞬で消え、次の瞬間には倉持真吾は余裕の表情で微笑んでいた。いつものひねたような笑いではなくて、左右対称のきれいな笑顔。小さな顔にきちんと配置された各パーツが、完璧なバランスを保って動く。
「うん、って言ったらどうする? ハルカ」
予想だにしなかった反撃に、私は弾かれたように立ち上がった。椅子の立てた大きな音にピアノの弦が共鳴して、ふぁああんっというかすかな音が響いた。
――この人いま、私のことハルカって呼んだ?
「どうしたの?」
左右対称の笑みが消え、またいたずらっ子みたいな顔が戻っていた。
「も、もう、大丈夫みたいだし、夜だし、わたし帰らないといけない時間だし」
わけがわからなくなる。
「帰らないといけない時間ってなんだよ。とっくに夜も更けてから家を出たくせに」
至極もっともなツッコミをいただき、もうこっちはタジッタジだ。そのくせこいつは全くもって平気な顔でいつもの通りににやりと笑う。口の片方だけを少し上げた、あの笑い。
「部屋、取ってるんだけど」
長い指が胸ポケットからカードキーを引っ張り出し、その顔にたたえた笑みが深くなった。
「え、で、だ、だからつまり、もう、一人で平気だろうし、私は失礼して、ここで、その、帰りますので。あの、どうも、ありがとうございました」
なぜか礼を言って踵を返し、走り出す。
その私の背に、何か温かいものがぱさりとぶつかった。
「また風邪ひくよ。それ、羽織って帰れ」
投げられたのは、倉持真吾のジャケットだった。
礼も言わずそれを握りしめ、エレベーターのボタンに飛びついて連打した。
ホテルを出てからも鼓動は収まらず、肩に羽織ったジャケットに残る微かな香りが私の思考を吹き飛ばした。
そんで、私はなんでまた倉持真吾からも逃げているんだろう。




