三の巻
長政の一行が領地の米田に入ったのは、日も高く上った正午のことだった。
いくつかの村を通り過ぎ、三宅ヶ原へ出たとき、長政は胸騒ぎを覚えて供の一人に偵察を命じた。
偵察に向かった家臣が血相を変えて戻ってくる。
「申し上げます。佐々木、小野寺の両軍が兵を挙げ、この先の湯の川でわが軍と合戦になっております」
長政は手綱を握る怒りで手を震わせた。
無言で馬から下ると、それに続いて促すまでもなく双葉も降りてくる。
「こんなところまで連れてきて悪かったな。家臣をつけるゆえお前は峰山に戻れ」
馬に乗ろうとして、長政は思い出したように刀に手をやった。
三振りあるうちの一振りを抜いて、双葉に押し付ける。
「預かっておいてくれ。命があれば白砂の浜へ取りに行く。命無きときは、お前にくれてやる。金子にでも換えればよい」
「できません。お手持ちの刀が折れたときはどうなさるおつもりですか?」
今にも泣き出しそうな双葉を見ていると、長政の胸は熱くなる。
彼女の乱れた髪をくしゃくしゃと撫でると軽やかに騎乗した。
「心底惚れた名刀だが、折れていては邪魔にしかならぬ。ゆえにお前に預けるのだ」
長政は、目を細めて見守ってくれていた親友を振り返る。
「義之、俺の小百合を頼むぞ」
妙に羞恥を覚えて、素直に双葉と言えなかった。
それを見透かすように、義之が目を細めて笑みを浮かべて頭を垂れる。
「はっ」
別れを惜しんで長政は手を伸ばす。
双葉の頬に指先でふれる。
「双葉、必ずまた会おう」
預かった名刀を双葉はしっかりと胸に抱きしめている。
涙を堪えるように唇をかみしめ、何も答えない。
ただただ、長政を見つめるばかりだった。
募る思いを振り切るように手を離すと、長政は馬の腹を蹴る。
湯の川一帯は、赤と黄色の二色の旗が入り混じり、混戦となっていた。
入り乱れる兵士の中に、見知った鎧兜を見出そうとした。
しかしそれは困難を極め、襲いくる敵を次々と切りつけていくうちに、長政自身も混乱の渦の一点となっていた。
「名のある武将とお見受けいたす。我は小野寺一隆公が家臣吉住太一郎と申す者なり」
大男が槍を振り回して長政に襲いかかってくる。
巨漢の敵将が繰り出す攻撃は強烈だった。
刀で防げば手がしびれる。
これまで数々の戦を共に戦ってきた名刀が今はない。
優美な線を描いた長い刀身に思いをはせてしまう。
その小百合丸は先の合戦の時に、長政を助けると同時に敵の苛烈な一撃を受けて、その身を砕いてしまったのだ。
折れてもなお、長政は護り代わりに持ち続けていた。
本来、長政は理由もなく人を傷つけることをよしとはしない平和主義だ。
しかし武家の嫡男として生まれた以上、ひとたび戦となれば夜叉となって敵を切らねばならない。
長政は今でもよく覚えている。
元服して間もなくの初陣となる合戦直前のことだ。
同盟軍の総大将である藤川忠則が、緊張して顔を強張らせていた長政にこう言ったのだ。
「そなたは一人ではない。多くの家臣とお父上、そして我ら藤川軍がいるのだ。己を信じ、味方を信じよ。それでも不安なら、取っておきの用心棒をそなたにやろう」
忠則は脇に差していた一振りの刀を、長政に与えた。
それが名刀小百合丸だった。
長政はその激励で見事な初陣を飾り武功を挙げた。
以来、彼は忠則を父と同じぐらいに慕い武芸に励んできた。
小百合丸を持たぬ戦はこれが初めてとなり、心もとない。
一人討ち取るたびに、死が迫ってきているように思え、恐怖に囚われていく。
腕や頬を刃が掠めて血が流れていく。
それ以上に、敵を切るたび長政は返り血で全身を紅く染めていく。
不意に、燦然と輝く太陽とそれに勝るとも劣らぬほどの美しい輝きを放つ笑顔が脳裏に浮かぶ。
胸に火が灯る。
炎は瞬く間にうねりを上げて激しく燃え盛る。
もう一度あの細腰を抱きしめたくなった。
双葉に己の護りを持たせて、長政は今更ながら己の選択に満足した。
既に三人もの武将を討ち取った長政は、双葉を攫った福島敏郎を見つけた。
敏郎は川中で桐生兵を次々と切り捨てていた。
此度の策を弄したであろう張本人を討ち取るべく、長政は一歩も引かずに勇猛果敢に攻めて行く。
流れてくる矢が腕に突き刺さる。
刺さった矢を痛みを堪えて抜き取ると、敏郎に横から切りかかった。
敏郎の家臣が駆けつけてきて、長政は劣勢になる。
それでも怯まずに、将の家臣を切り捨てて形成を立て直す。
隙を与えず攻め続け、ついに福島敏郎の胸を突いた。
刹那、撃斬したはずの武士が起き上がって、執念の一振りを長政に見舞った。
切りつけた武士は事切れて川に沈み、左腿を切りつけられた長政は激痛にもだえた。
川中を泳ぐ馬の背に乗り続けることもままならず、水中へと落ちていく。
もがいても浮き上がれず、長政は力尽きる。
例え泳ぎが得意であったとしても、水を含んだ着物に具足をつけていては、それが枷となり浮き上がることは難しい。
見上げると、水面が光を放って揺らめいていた。
遠のく光華を見つめながら、思い出すのは双葉の笑顔ばかりだった。
湯の川の合戦において、桐生は藤川の援軍を受けて勝利を収めた。
合戦の跡地である湯の川には、男たちの屍が累々と転がり、あるいは川の水底に沈んでいる。
命拾いした数人の侍達が、死者の顔を一つ一つ確かめていた。
米田城の広間では、両家の武将が沈痛な面持ちで顔を連ねた。
正面に座した政隆と忠則両大将の前に、家臣らが膳を運んでくる。
五膳あるうちの四膳には、桐生長政が討ち取った敵将の首が乗せられている。
最後に運ばれてきた膳には、一振りの刀があり、それは政隆の脇に置かれた。
政隆は血の気の失せた土色の顔で全ての膳に目を移し、最後に運ばれてきた刀を見据えた。
鍔元の刀身には、『小百合丸』と刻印がされている。
愚息がまるで妻のように愛したものだ。
「政隆殿、わしを殴れ。わしが、千代など会わせたばかりにこのようなことになったのじゃ」
忠則が体ごと政隆に向けて、家臣の前で頭を垂れた。
政隆は緩慢な動作で小百合丸を手にした。
「忠則殿のせいではござらぬ。侵攻を許したは、我ら桐生の不徳のいたすところ。命を落としたは、あれが未熟であったゆえ。生きて帰ることこそ誠の手柄じゃというに、大馬鹿者じゃ」
苦しげに政隆は顔を歪めた。
藩主佐々木光秀の領地千里の山中に双葉はいた。
村の女に銭を渡して野菜に換えると、人里から離れた山へと入った。
川の水で野菜を丁寧に洗うと、山の斜面にぽっかりと空いた洞の中へ入っていく。
岩で囲まれた洞は、五畳ほどの広さで、そこに長政は眠っていた。
洞の外で、火をおこし、水を入れた鍋に野菜を切って入れていく。
煮込む間に双葉は横たわっている傷だらけの彼を窺う。
額に包帯を巻いたその顔は、血の気が失せて疲労が濃く滲んでいる。
静か過ぎる眠りに不安を覚える。
双葉は彼の胸に耳を当てて鼓動を確かめた。
弱々しいが、確かに呼吸はしている。
衰弱しきってもなお、彼の顔は精悍で凛々しかった。
双葉はその頬に手を当てると涙ながらに訴える。
「わたくしの命を差し上げますから、どうか、お目覚め下さい」
双葉の声は虚しく掻き消えていく。
長政が目覚めることはなかった。
湯の川の合戦前、三宅ヶ原で分かれた双葉だったが、言われるままに、峰山へ帰ることはできなかった。
長政がつけてくれた佐脇義之の訴えを退けて、双葉は湯の川へ向かったのだ。
敵の武将へと切り込んでいく長政の勇姿を、双葉は見つめ続けた。
義之が、主の危うさを見て取ると、援護に走った。
しかし義之は多くの敵に阻まれ足止めされる。
そうこうするうちに、長政が馬から落ちて川の濁流へと流されたのだ。
双葉は夢中で川に飛び込み、流されていく長政を捕まえた。
水から引き上げると、長身の長政を担いで目の前にあった洞に横たえたのだ。
金子を全く持ち合わせていなかった双葉は、長政から預かっていた刀を、売るしかなかった。
それで得た金子で、布団に着物、布や茶碗に鍋といった必要なものをそろえたのだった。
長政の頬から手を離すと、血の滲んだ包帯を清潔な包帯に巻き替えた。
濡らした布で彼の体を清めながら、腕やわき腹の包帯も替えていく。
それは寒い冬のことだった。
六歳の長政は氷の張った池を眺めていた。
飼われている鯉が気になり覗き込んでいるうちに、長政は氷の上に踏み出してしまった。
張っていた氷は薄く、長政の重みであっという間に砕けた。
着物で、それも真冬の冷たい水に落ちた長政は、一人で上がることもできずに溺れた。
すぐに、長政を捜していた侍女がそれを見つけ、彼は九死に一生を得た。
以来、水が恐ろしくなった。
今でもそれは変わらない。
だが、恐ろしいからといって、水に入らないわけにもいかない。
それが戦のときであればなおのこと。
水が恐ろしいなどとは言ってはいられないのだ。
川に投げ出された長政は、息苦しさに必死でもがいた。
しかし、あっという間に水底へと沈められていった。
煌く水面から、巨大な魚がやってくる。
長政は藁にもすがる思いで手を伸ばし、そして掴んだ。
大きく見開くと、岩肌が目に飛び込んだ。
「長政様?」
名を呼ばれて振り返ろうとして、額に痛みが走る。
激痛は頭ばかりではなかった。
腕も足も、焼け付くような痛みを感じる。
目を閉じ、奥歯を噛締めて激痛をやり過ごした。
布越しに、傷を優しく撫でられる。
「急に動いてはなりません。傷口が開いてしまいます」
耳に馴染んだ声に、薄く目を開くと双葉が覗き込んでいた。
目を赤くさせて涙を溢れさせている。
双葉の涙を拭おうとして、彼女の手を握っていたことに気づく。
朦朧とする頭で、湯の川で溺れたことを思い出した。
長政は苦笑せずにはいられない。
「また、俺はお前に助けられたのか?」
双葉は長政の手を大切そうに胸に押し当てた。
「きっと、あなた様が御仏の加護を受けておられるからに違いありません」
「……礼を言う。この借りは……いつか、必ず……」
襲いくる睡魔に耐えられず、長政は重くなる瞼に視界を塞がれた。
痛みと燃えるような体の熱さに、長政は苦しめられた。
苦しさで目覚めると、いつも傍らには双葉がいた。
上がり続けていた熱が引いたのは、三日ほど後のことだった。
喉を通らなかった粥が、ようやく飲めた。
粥をすする長政を、双葉が嬉しげに見つめて、こう切り出した。
「長政様、米田城ではあなた様の身をお殿様以下家臣の方々が、さぞ案じられていることでしょう。私でよろしければ、お城へ行って参りますが、いかがなさいますか?」
長政は、のんびりと答えた。
「そうだな。亡きものと思われているだろう。だが、かまわぬ。俺はまだ動けぬし、お前を一人で行かせることもできぬ」
食事の用意はおろか、長政の傷の手当など身の回りの世話を、双葉はそつなくこなしていた。
そんな双葉のことが知りたくなる。
「双葉はどこで育った? やはり海辺か」
「はい、小さな漁村にございます。母は、幼きときに亡くなり、村の子のない家に引き取られました」
「さぞ、苦労をしてきたのだろうな」
長政が見つめていると双葉が頬を染めて視線をそらす。
「いいえ」
「……早く、峰山へ戻りたいか?」
「……長政様が、お元気になられるまでは、お傍にいとうございます」
「すまないな。俺の世話ばかりさせて」
「いいえ」
「礼がしたい。望みを教えてくれぬか。俺にできることなら、どんなことでもしよう」
双葉は逡巡するような仕草を見せた後、居住まいを正す。
「では、申し上げます。千代姫様のことは、どうかお忘れ下さいませ」
指をつくと、双葉が頭を垂れた。
長政は苦笑する。
「よほど俺は嫌われているようだな」
「いいえ、そのようなことではございませぬ」
双葉はそれ以上語ろうとしなかった。
彼女の頑なな姿は、二人の間に目に見えぬ隔たりを長政に感じさせた。
「顔を上げてくれ」
面を上げた美しい顔には、もう先ほどの愛らしいはにかみはなかった。
長政は沸きあがる思いを喉元で押し留めた。
口にすれば双葉を苦しめかねないと思えて、躊躇った。
日が経つにつれて長政は起き上がれるまでに回復し、双葉の肩を借りて外へ出ることができるようになっていた。
「川へ魚を取りに行ってまいります。長政様はゆるりとお過ごしくださいませ」
長政を褥に横たえると、双葉は外へ向かった。
双葉は拾い集めた木の枝を手に、着物の裾をまくって、川の浅瀬に立っていた。
川岸には捉えられた三匹の魚がもがいている。
新たな獲物を追って双葉は川面を凝視していた。
何も気づかぬ魚が、双葉の足をすり抜ける。
逃すまいと、彼女は即席の銛を放った。
貫いた魚を手に川辺に上がる。
「見事じゃ」
耳に届いた声は、雷鳴のごとき衝撃を双葉に与えた。
「相も変わらず、そなたは|女子≪おなご≫の癖にそんなことばかりが得意じゃな」
家臣を従えて突如現れたのは、騎乗の藤川忠則だった。
とっさに双葉は後じさり、逃げ道を探した。
しかし既に、周囲は忠則の家臣らに囲まれている。
「そなたを選んだわしの誤りであったわ。おかげで桐生長政をうしのうた。もはや生かしておくわけにはゆかぬ。そこへなおれ。わしの手で母の元へ送ってやろうぞ」
双葉は足元に取ったばかりの魚をそっと置くと、自ら忠則の前へ歩み出た。
両膝を折ると、突き出すように頭をたれた。
馬から下りた忠則が刀を鞘走らせる。
白刃が高く振りあがる。
刹那。
「お待ちくださいっ、忠則様!」
その場にいた一同は、一瞬にしてその叫び声のした方へ目を向けた。
「長政殿ではないかっ! 生きておったか!」
「助けられたのです、そこの女子に」
足を引きずりながら、苦しげに顔をゆがめて長政がやってくる。
忠則が顔を戻したとき、双葉が、長政が来た方向とは逆の方向へと逃げた。
長政に気を取られている家臣から、すり抜け様に刀を奪い取った。
双葉は抜き身の刀身を家臣らに向けて牽制する。
「愚かな。指南も受けぬそなたに何ができる」
忠則が吐き捨てる間に、長政がまろぶように駆け出す。
双葉は腕を引く。
家臣ではなく翻した刃を己に向けた。
柄を握る手に力を込める。
一思いに振り下ろそうとして、長政に右手首を掴まれた。
鬼のような恐ろしい形相で、双葉の腕をねじり上げる。
その力は、昨日まで寝たきりだった怪我人とは思えぬほどの強さだった。
「……うっ」
痛みに呻いて双葉が刀を落とすと、長政は容赦なく彼女の頬を平手打った。
その衝撃で双葉は倒れる。
「あの海で、俺が言ったことを忘れたのか」
殴られた頬を押さえて双葉が顔を上げると、長政が悔しげに眉根を歪めていた。
その顔が悲しげで、今にも泣き出しそうだ。
長政にそんな顔をさせてしまった後悔が押し寄せる。
どうしてこんなことになってしまったのか。
どうすれば、良かったのだろうか。
双葉は唇を噛締めた。
溢れる涙を止めることができない。
「忘れたことなど一度もございませぬ。なれど、わたくしは、生きていてはならぬのです!」
悲痛に叫ぶ双葉の心が、長政には分からない。
倒れこむように膝をつくと、彼は双葉を掻き抱いた。
「何を言う。お前がおらねば、俺はとうに死んでいたではないか」
「それは……」
「もう良い。何も言うな」
長政は双葉の髪に頬を押し当てて、彼女の温もりに酔いしれる。
そこへ無粋な忠則の忍び笑いが聞こえてくる。
それはやがて高笑いへと変わった。
「刀を伴侶にしていたような朴念仁を手玉に取るとは、やはりお凛の娘じゃな。千代」
忠則の笑いを何事かと振り返った長政は、最後の一言に耳を疑った。
「千代?」
「うむ、わしの娘じゃ」
そういうと、すっかり陽気になった忠則は、家臣に担架を用意させた。
腕の中の双葉が身を縮こめている。
「どういうことだ?」
「積もる話は城でいたせ。その無事な姿を、はよう政隆殿にお見せせねばな」
長政は家臣らに双葉と引き離され、用意された簡易的な担架に乗せられた。




