選ばれし者
アイリスとガーベラを空へとふわりと巻き上げたそれは、ローレルの放った魔法によって起こされたものだった。空を浮くアイリスの目に映ったローレルの顔面は蒼白で、緊張のせいか手が震えているのが見えた。
二人の手から離れた杖が遠く、地面へと向かって小さく消えていき、ガーベラの体はコルザのもとへ、アイリスの体はアスターのホウキ後方へと回収される。アイリスの鼓動はバクバクとうるさく、激しく体内を血が巡っていた。
まだ……生きてる……。
アイリスは目の前のローレルを見つめる。あの、魔法を使うことをひどく恐れていたローレルが、自らの意思で魔法を放ったのだ。それも、大切な、形見の杖を使って。
呼吸を整えたローレルが、意を決したように杖を握る。グレーがかった髪が舞い上がると、そのうちに秘められた美しいエメラルドグリーンが、激しく燃えていた。
「アスターさん! もっと火口に近づけますか?!」
ローレルの鋭い口調に、アスターはホウキを強く握りしめた。
「っ! やってみる!」
三人を乗せたホウキは、迫りくる火のムチをかいくぐり、右へ、左へ、上へ、下へ。ゴウゴウと熱に取り込まれた岩が弾丸のようにまき散らされれば、前へ、後ろへ、宙返りしてみせる。もはや、天と地もわからない。激しく脳が揺れ、体の中がひっくり返りそうだった。
「まだ!」
無意識にスピードを落としたアスターに、ローレルの怒号が飛ぶ。
「これ以上は!」
「いけます!」
全てを飲み込むような赤き海が目前に迫り、フツフツと泡を立てている。沸騰して、暴発するマグマが激しく飛び散り、行く手を遮っている。それでも――
「っ! 死んでも、俺のせいにするなよ!」
アスターは再びホウキのスピードを上げ、もはや死を覚悟した。目の前に灼熱が広がり、まばゆいばかりの輝きが怪しく、鈍く、誘っている。思わず瞼を閉じ、暗闇が包み……
「死なせません! 絶対に!」
――誰一人として、これ以上、僕は失いたくないんだ!
ローレルの声がこだました。
瞬間、アイリス達の視界を青き光が貫く。
ローレルが、杖をかまえているのが、その逆光に浮かびあがった。
――神様みたい。
真の魔法使い。選ばれし者、ローレル。アイリスの頬に一筋の涙が伝う。
彼の魔法は、今までにみたどんなものよりも美しく、そして、まっすぐだった。
杖の先端に付けられた宝石が純然たる青き炎を灯し、やがて、世界の全てを飲み込むように光り輝いた。
「世界を破壊せし、命の女神よ。我、ここに汝の運命を司らんとする者なりて、その命よ、眠りたまえ!」
美しい響きだった。
まるで唄うかのように、空いっぱいに満ちるテノール。
力強く、大地を育むように、降り注ぐ光の雨。
胸を締め付けるこの轟音は、ドラゴンの悲痛な叫びだろうか。
それとも、この世界を守り抜くと決めた、ローレルの覚悟だろうか……。
静寂が、世界を支配する。
時計の針はピタリと動きを止め。
音もなく、姿もなく、ただ、ただそこに、沈黙が横たわっている。
ピシッ――
ローレルの手もとから、音が生まれる。
「杖が……!」
続いて、アイリスの口から。
「折れる……」
アスターの口から。
パキッ――
ローレルの杖から。
美しい青の宝石が台座から零れ落ち、はるか下へと降り注いだ。
やがて、金メッキの施された台座もハラハラと光の粒となって大気へ散乱し、真っ二つに折れた杖の胴体だけが、ローレルの右手と左手にそれぞれおさまった。そして、ただの木の棒へと姿を変えた。
「ローレルの杖が!」
アイリスが思わず声を上げると、ローレルはその杖をじっと見つめて、それから優しくアイリスに微笑みかける。ローレルの細く、しなやかな手は震えていた。
「良かった……」
「良くない! 大切な、ご両親の形見なのに!」
「良いんです!」
アイリスを咎めるように、けれど、優しく。ローレルは穏やかに笑う。
「アイリスさんを……大切な人たちを守れたんですから」
――僕は誇らしいんです。
ローレルの笑みは、美しく、雲の隙間から射した光に反射して、輝いていた。




