魔法使いの杖
アイリスとローレルが体を離すと、周りを取り囲んでいた三人も、ようやく二人のもとへと駆け寄った。
「ローレル!」
「アスターさん!」
ローレルは目を見開いて、再び涙をこぼす。
「無事で良かった……」
アスターも目頭を押さえ、ローレルの肩を抱いた。今やローレルの身長はアスターとほとんど変わらない。会ったときはこんなに、とアスターもアイリスと同じような感想を抱いたのか、声を出して笑った。
「アスターさん、推薦状……書いてくれたのに、僕……」
「気にしなくていい。それより、黙ってこんなところで! 俺はそのほうが心配で!」
「すみません……」
アスターの怒鳴り声に、ローレルがその体を縮こめれば、後ろからガーベラとコルザがアスターの頭を軽くはらった。
「アスター。久しぶりの再会でしょう? もっと喜んだらどうなの?」
「怒るのは後からでも出来る。でも、ハグは、今だけだぞ」
「あぁ! もう!」
アスターはガシガシと頭をかくと、照れ隠しか、やや乱暴にローレルを強く抱きしめた。
ガーベラとコルザは、ローレルを置き去りにしたことを気にしていたらしい。アスターとは対照的に、ローレルにこれでもかと謝罪して、むしろローレルにたしなめられていた。
「僕が、この場所を望んで、ここまで来たんです。むしろ、お二人には魔物から助けていただいて」
ローレルはその日のことを思い出したのか、そっと視線を下げた。ゆっくりと、丁寧にお辞儀をするその姿は、昔と何ひとつ変わっていなかった。
「望んでって……こんなところにどうして」
ローレルの言い方に疑問を抱くのは当然だった。アイリスが尋ねると、ローレルは魔法学園でのことや、退学してからのことをポツポツと話し始めた。
誰にも迷惑をかけず、ただひっそりと生きていきたい。ローレルはそこまで言うと、アイリスの方を見つめた。
「どうか、お願いです。僕と一緒にいたら、いつか、僕は……アイリスさん達まで傷つけてしまう……。どうか……僕を一人にしてくれませんか」
ローレルの言葉に、アイリス達は誰一人として、うなずくことも、首を横に振ることも出来なかった。ローレルの魔法は、確かに危険だ。ローレルの気持ちも痛いほどわかる。
だが、心のどこかでは、ローレルをこんなところに一人放っておくことはできない、そう思っているのだ。ローレルとともに、一生を送る覚悟はない。でも……。
沈黙を破ったのはアイリスだった。
「それじゃぁ、せめて、杖だけでも受け取って欲しいの」
アイリスの淡いブルーの瞳に、いつもの穏やかな色はない。譲るつもりはないらしい。決めた意志を貫かんとする強い光が宿る。
「僕に、買い戻すお金はないよ……」
ローレルが小さな声で言うと、アイリスはブンブンと首を横に振った。
「ううん。あの杖は、やっぱりローレルのものだもん。お金なんて、関係ないの」
アイリスはゆっくりとローレルの手を握る。
「うまく魔法が使えなくても、何度杖を壊してしまっても、ローレルが、あの杖の持ち主なの」
「でも……」
「あの杖が、ローレルを呼んでるの。杖屋の私が言うんだから、間違いないわ」
優しく微笑んだアイリスに、ローレルの瞳が揺れる。アイリスはきゅっとローレルの手を引いて、トランクケースを置いてきた場所まで歩き出す。ローレルもそれ以上は何も言わず、アイリスの後ろをついて歩いた。アスターとコルザ、ガーベラもそれに続き、夕暮れの光が差し込む洞窟の入り口まで、誰も言葉を発しなかった。
ローレルは、アイリスのトランクケースに括りつけられた杖に、目を見開いた。三年もの間、一日たりとも忘れることのなかった『形見の杖』。まるで、その杖だけが時を止めたように、美しく、その存在感を放っていた。傷一つなく、埃もかぶっていない。初めて両親がローレルに渡した、あの時のまま。
「父さん……母さん……」
ローレルは引きずられるように、その杖へと足を踏み出す。アイリスが手を引かなくても、もう彼は自らの足で、その杖へと向かっていた。
「ローレル。その杖を握って」
アイリスが優しく語りかける。ローレルは少し逡巡したが、ゆっくりと、その杖に手を伸ばした。トランクケースに括りつけた紐を丁寧にほどき、震える手で杖に触れる。一度、アイリスを振り返ったが、アイリスはとても美しく微笑んでいた。
「大丈夫。怖くないわ」
アイリスの声が、ローレルの背を押す。
ローレルが杖を握りしめたその瞬間――ローレルの体を貫くように、電流のような、目に見えぬ光の粒のような、『何か』が内側を駆け巡った。
初めて両親から渡された時も、村から逃げた時も、そして、アイリスに杖を差し出した時も。
一度として、そんな感覚に陥ったことはなかったのに。
『ローレル。――選ばれし者、ローレルよ』
「……え?」
心の内側からささやく声に、ローレルは目を見開いた。アイリス達には何も聞こえなかったのか、ローレルが顔をあげ、目の前に立つ四人を見渡しても、嬉しそうな顔をするばかりで、不審がっている様子はなかった。
杖からも、先ほどのような強い力を感じることはなく、声ももはや聞こえぬ。ローレルは、あまりにも静かな周囲に、まるで幻か何かを見たのでは、ともう一度杖を見つめた。不思議と手に馴染む。成長したからだろうか。昔は、あんなに大きいと思っていた杖が……。
「これが……、僕の……杖……」
初めて、心の底からそう思えたような気がした。装飾品でも、ましてやただの杖でもない。
これこそが、魔法使いの杖。
ローレルの瞳に鮮やかな光が灯ったその時――
アイリスも、ローレルも、そして、残る三人も。
全身の血が逆流し、背筋を恐怖が駆け上がっていくのを感じた。
けたたましい、咆哮とも、怒号ともとれぬ、爆音。
体を焼くような熱。巻き上がる暴風。大地は揺れ、空は明滅した。
――そして、すべてを飲み込んでしまうような闇が、あたりを支配した。




