アイリスの旅路
アイリスの目の前に立ちふさがる魔物。
闇夜に浮かぶ金色の瞳が、まっすぐにアイリスを見据えていた。
魔法使いと言えど、本職は杖屋である。数年前に学校で上級魔法もいくつか習ったはずだが、その詠唱の最初の文字すら思い出せない。
「あぁ! もうっ!」
アイリスは激しい閃光を杖先から放つと、一目散に来た道を戻った。日は沈みかけ、空はほの暗くなっていく。
もう少しで次の街だったのに。馬車代、ケチるんじゃなかった。
アイリスは過去の自分を責めながらも、必死に足を動かした。
背後から土を蹴る音が聞こえる。魔物が追いかけてきているらしい。目くらまし程度にはなったようだが、その身体能力はけた違いだ。明らかに距離が縮まっている。
「こんなことなら、飛行魔法の授業を取っておくんだった!」
幼いころから、自分には加護の力が備わっていることを知っていたアイリスは、当然、将来は杖屋になると決めていた。
ホウキに乗る技術は必要ない。あんな乗り心地の悪い乗り物に乗りたがるのは、アスターのような魔法警団志望か、はたまた魔物討伐をしてフリーランスで稼ぎたい、といった人たちくらいで、自らには関係のない話だと思っていた。
今考えれば、多少乗り心地が悪くても、馬車代も浮くし、歩くよりも断然、楽で安全。あの授業を選択しない手はなかったのだ。……今更後悔しても遅いのだが。
「フラッシュ!」
アイリスは再び後方に向けて、閃光を放つ。魔物も一度食らった攻撃には慣れてしまったのか、先ほどより時間は稼げなかった。
――しょうがない。
アイリスはくるりと体を翻し、向かってきた魔物に対峙する。本当は、むやみに命を奪うなど、いくら魔物相手とはいえしたくはなかったのだが。
「杖の材料にもならないのに……」
アイリスは苦い思いをこらえ、魔物へ杖を向ける。
「モウダウン!」
杖先から放たれた魔法が、魔物を押し上げるほどの風圧を生み出す。魔物はその圧に吹き飛ばされ、アイリスと距離を取った。
――戦闘開始。
それはいつも一瞬だ。魔物は着地と同時に、猛然とアイリスに向かって突き進む。大きく口を開け、アイリスにとびかかり――
「ヒット!」
アイリスの杖からは再び魔力が解き放たれた。
ドンッ! 体に鈍い衝撃を受けた魔物は後方へと吹き飛ぶも、その瞳には強い怒りの炎がたぎっている。
直後。
けたたましい咆哮。
「っ!」
アイリスは大きくバックステップを踏み切った。悲痛な叫び声とともに、一瞬にして目の前へと現れた魔物からアイリスは瞬間的に離れる。
「ショット!」
魔物の鼻先とぶつかるのでは。それほどの距離に杖先がある。
アイリスの声とともに放たれた魔法は、弾丸のように魔物を貫き……やがて魔物は動かなくなった。
アイリスは肩で息をする。乱れた呼吸を落ち着けるように深呼吸を繰り返し、魔物のもとへと足を向けた。
「……ごめんなさい」
アイリスは、目の前に横たわった魔物にそっと手を合わせた。話して和解できる相手ではないし、やらなければ、自分がやられていた。だが、決して後味の良いものではない。
平和に暮らしていたい。
いつだったかそんなことを望んでいたはずなのに、今のアイリスはまるで真逆だ。これも、ローレルのことを思えば、だが。
「魔物の動きが活発になっているとは聞いていたけれど……」
アイリスは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
魔物も、基本はおとなしいものだ。こちらから攻撃を仕掛けた場合はその限りではないが、今回は明らかに、アイリスと出会った時点で敵意をむき出しにしてきていたように思う。アスターが以前、妙に気が立っていると言っていたのも納得が出来る。
「ドラゴン……」
アイリスはぼそりと呟いた。空には夜が迫り、急がなければ街へとたどり着けなくなってしまう。アイリスは、考えすぎだと言わんばかりに頭を軽く振ると、魔物を丁寧に埋葬し、慌てて街へと急ぐのであった。
アイリスが街へとたどり着いたのは、ちょうど夕食時を過ぎ、多くの店が閉店準備を始めている頃だった。
宿屋の明かりに思わずホッとしてしまう。魔物と戦ったあとでは、どんな人間でも気が張ってしまうものだ。
「ごめんください。まだ、お部屋って空いてますか?」
「空いてるよ。嬢ちゃん一人かい?」
「はい。一泊でお願いします」
「はいよ。最近、ここらもずいぶんと魔物が増えてきてね。中には、妙に殺気立ってるやつもいるから、あんまり夜遅く出歩くもんじゃないよ」
「ありがとうございます」
まさか、今しがた戦ってきたばかりだ、と言うわけにもいかず、アイリスは愛想笑いを浮かべる。宿代と引き換えに部屋の鍵を渡され、アイリスは頭を下げた。
「それにしても、どうしてこんな時に一人旅を?」
宿台帳に名前を記入しているアイリスに、店主が声をかける。アイリスは手を止め、店主の方へと顔を上げた。ちょうど良い。もしかしたら、何か情報があるかもしれない。
「実は、人探しをしていまして……。グレーがかった髪に、エメラルドグリーンの瞳をもつ少年なんです。心当たりはありませんか?」
アイリスの質問に、店主はこめかみのあたりを押さえてうぅん、としばらくうなっていたが、記憶にないのか、さぁねぇ、と声を出した。
「役に立てなくてすまないね。明日の朝までに、他の客を見かけたら、聞いてみるよ」
「ありがとうございます。それじゃぁ」
アイリスは宿台帳を返し、出来る限りの笑みを向ける。
少しでも情報が欲しい。
アイリスは頭を下げ、用意された部屋へと向かった。




