アイリスと形見の杖
まさか。そんなことがあるわけがない。
それにもし、もしも仮にあの杖が伝説の杖なのだとしたら、ドラゴンも存在してしまうことになる。
それに……。ドラゴンを静める者についてはどう考える? あの杖はもともと、ローレルが持っていた。だとすると、ローレルがドラゴンを静める者だったとしてもおかしくはない。あの魔力量……。ありえない話ではない。
「まぁ、その杖も、ただの木の棒に見えるせいで、どこにあるかもわからない。今は国中をさまよっているだろうって話だ。実際に見たことがあるって人がいるわけでもないし、結局は伝承ってことだろうな。……アイリス?」
「い、いえ! なんでもありません」
考え事をしていたせいで、アスターの話をほとんど聞いていなかったアイリスは、名前を呼ばれて愛想笑いを浮かべた。アスターは不思議そうな顔をしたが、アイリスはティーカップに口をつけて誤魔化す。
「とにかく、なんにしてもドラゴンの話は、噂だといいですね」
「あぁ、そうだな。まぁ、十中八九そうだろう。過去にもいろんな自然災害や魔物の暴走が発生するたびに言われてきたことだ。今回も今まで通りだな」
「そう、ですよね……」
アイリスは曖昧に言葉を濁して、力なくうなずく。
もちろん、ドラゴンなんてものは、伝説だ。噂は、あくまでも噂。そうは思っているものの、どうにも胸がざわついた。
ティーカップも空になり、アスターはそろそろ帰る、と席を立った。
「あ、そうだ。アスターさん、魔物用の杖は初めてですよね」
「あぁ、そうだが」
アイリスは大事なことを伝え忘れていた、と店の扉を開けながら、アスターに念を押す。
「大丈夫だとは思いますけど、魔物用の杖は、人相手にはあまり使わないほうがいいですよ。人相手にする杖が魔物相手に扱いづらいように、その逆も同じですから」
アイリスの言葉に、アスターはうなずく。
「あぁ、どうやらそうらしいな。しばらくは、いつもの杖と今日買った杖を持ち歩くようにするよ」
杖が見分けられるために、杖に塗装するオプションもある。アイリスがそう伝えると、アスターは声を上げて笑った。
「商売上手だと言いたいところだが、今回は遠慮しておく。使い慣れてる杖は、目を瞑っていてもわかるからな」
「それは残念です」
冗談めかしてアイリスが言うと、アスターはクツクツと肩を揺らして体を翻した。
「それじゃぁ、そろそろ。お茶もうまかった、ご馳走様」
「いえ。またのご来店をお待ちしております」
アスターを見送り、アイリスはティーカップを片付けるため、再び店の奥へと戻った。リビングに飾られた『形見の杖』がやけに目につく。先ほどの伝承が、やはりどうにも頭から離れない。
「ただの木の棒が、ドラゴンを静めるための杖……?」
アイリスはキッチンにティーカップを置いて、『形見の杖』に手を伸ばした。リビングに飾って以来、そういえばずっと触っていなかったな、と思い出す。
一度加護はかけたが、たまには拭き掃除くらいすべきだったかもしれない。部屋の掃除は毎日しているが、それでも多少なりとも埃はたまってしまうものだ。アイリスは手早く布巾で杖の埃をふき取ると、改めて杖を持ちなおした。
杖が大きい分、ズシリとした重さがある。だが、無駄なものは全くない。杖そのものの洗練された形。杖の先端につけられた金メッキの台座と、そこに鎮座する淡いブルーの宝石。魔力こそないが、どれをとっても一級品だ。珍しいデザインも、この国に一つしかない『伝説の杖』だ、と言われれば納得できる。見れば見るほど美しい。
やはり、ただの木の棒にしては、あまりにもよく出来すぎていた。
「それに……」
きちんと持ってみればわかる。
この杖はやはり、ローレルに返さなくてはならない。杖が、ローレルを求めている、とでも言えば良いだろうか。実際にそんなことはないのだが、なんとなく、そう訴えかけているような、そんな気がする。
ローレルも、アイリスが出会った時はまだ幼い少年だったが、今はもう少し成長しているはずだ。もともとすさまじい魔力量を持っていたのだから、成長してさらに増えているはず。
いくらコントロールできるようになったとて、普通の杖では、すぐに杖がダメになってしまっているはずだ。これくらいの大きな杖でちょうど良いかもしれない。あの時はまだ魔法の扱いが下手だったために、この杖でさえ壊してしまう可能性があったが、コントロールできるようになっているのなら、この杖も扱えるのではないか。
そう。これが伝説の杖でなくても、ローレルの大切な『形見の杖』であることに間違いはないのだ。ずっと預かってきたが、もうあれから年月も経っている。ローレルは買い戻しに来ると言ったが、今のアイリスには金も必要ない。もし、ローレルが納得しないようなら、ツケにしたっていいのだ。
ローレルの居場所はわかっている。この大変な時期に一日、二日店を閉めるのは客にとっては迷惑な話かもしれないが、何故かアイリスには、この杖をローレルに今すぐ返さなければならないような気がしていた。




