第38話 霧
南の街道を外れ、道なき道を進んで5日が過ぎた。
「わ、また川ですね……」
「渡れる浅さでまだマシだったな」
糸を括り付けた屍喰い蝶の後を追いかけているのだが、その道程に人間への配慮など当然ない。獣道すらない深い草むらをかき分け、ちょっとした崖をよじ登り、そして今回のようにざぶざぶと川を渡ったりしてきた。
「くそ、腰まで濡れちまったな」
「さすがに水が冷たいですね……」
ようやく川を渡りきったところで、アイラから「くちゅん」とくしゃみが出る。サイラスもわずかに身体を震わせながら、ブーツを脱いで溜まった水を捨てていた。
「風邪を引いたら洒落にならん。火を起こして服を乾かすぞ」
「はい!」
幸い、川原には乾いた流木がいくつも転がっていた。薪にできそうなものを手分けして拾い集め、焚付用に枯れ草も回収する。石を積んで簡単な竈門を組み、火打ち石で着火した。ぱちぱちと爆ぜる火が濡れた身体を温める。
「ついでだ。少し早いが晩飯にしちまおう」
「今日はここで野営ですかね」
「もう少し進んでおきたい気はするが……ま、服の乾き具合と相談だな」
川の水を鍋に汲み、焚き火にかける。干し肉や干し野菜を固めた保存食を放り込み即席のスープが出来上がった。先日、道化師の迷宮を探索中に食べたのと同じものだ。旅の準備は十分に整えたつもりだったが、糧食の残りも心許なくなってきていた。
アイラは出来上がったスープを一口すする。温かさが食道を通り抜け、腹の芯からぽかぽかしてくる。
「はあ、生き返りますねえ」
「だがさすがに飽きてきたな。ゴゴロガから調味料を分けてもらえばよかったか」
スープの味は塩ばかり強くて単調だった。道化師の迷宮では酒場の主人でもあるゴゴロガが味を整えてくれたので絶品に仕上がっていたが、アイラにもサイラスにもそんな料理の心得はない。
食事を終える頃には辺りはすっかり暗くなっていた。南東の山脈に近づいたせいで日没が早いのだ。ほのかな橙と紫のグラデーションとなった空に、山々のシルエットが浮かび上がる。ぎざぎざと尖った山並みは猛獣の牙を連想させた。
「ちっ、霧が出てきたか」
「せっかく服が乾きかけたのに……」
どこからか立ち込めてきた霧が二人の身体を湿らせる。湿気で焚き火の勢いも弱まっていた。薪を追加しながら、焚き火の周りに残りの薪を積んでいく。薪を湿らせないためだ。
「結構冷えますね」
「山の冷気が降りてきてるんだろう」
サイラスの言う通り、山の方から冷たい風が吹いてきていた。南東に連なる山々は『龍の顎』と呼ばれており、真夏でも山頂に雪が残る急峻な高山が連続している。いまは春先だが、川の水がやけに冷たかったのも雪解け水のせいだったのかもしれない。
「こりゃ、野営確定だな」
サイラスは糸を引いて屍喰い蝶を手繰り寄せ、籐籠に閉じ込める。
「そういえば、この子ってご飯あげなくて大丈夫なんですかね?」
「この子ってなあ。情が移ってるんじゃないか? こいつは魔物だぞ」
「そうですけど、直接人間を襲ったりするわけじゃないですし」
この大陸において魔物と通常の動植物の区別は曖昧だ。エッセレシア聖王国では教会がその認定をする。熊や狼などの普通の動物であっても、人肉の味をおぼえてしまった凶暴な個体が個別に魔物認定されることもある。
屍喰い蝶の場合は、死骸に群がる習性とそれが疫病を媒介することから魔物とされていた。人間の髑髏に見える羽の模様が不気味だという素朴な理由もある。
「ま、飢え死にされても困るか。しかし、餌に出来そうなものなんてあるか?」
サイラスはパイプを吹かしながらぼりぼりと頭をかく。動物の死骸など、右から左にぽんと用意できるものではない。
「うーん、こういうのはどうですかね?」
アイラは行動食として持っていた干し葡萄を皿に入れ、潰して水に溶く。それを籐籠の中に入れると、屍喰い蝶は口吻を伸ばしてさっそく飲み始めた。
「よかった。こういうのでも大丈夫なんですね」
「おいおい、こんなんでもいいのかよ。それなら大人しく花の蜜でも吸ってりゃ魔物認定なんてされなかったろうにな」
マントに包まったサイラスが呟いた。マントには蜜蝋を塗って防水加工がしてある。せっかく温まってきたのに、霧で体温が奪われてしまってはたまらない。
アイラもサイラスに習ってマントの前を閉じた。
「これで野営も5回目ですか。エンバーさんに追いつけていればいいんですが……」
「あいつは眠らずに動けるからな。何かに足止めされていない限り、追いつくのは無理だろう」
アイラはエンバーを足止めできる存在について想像を巡らせる。道化師の迷宮では巨大な樹脂のようなものに囚われていたが、結局自力で出てきてしまった。エンバーなら例え山崩れに巻き込まれても自力で這い出してきそうな気がする。
「私たちが探してる間にメイズに戻ってたりして……」
「それもあり得る。というか、その可能性が高いと思ってる」
「え、じゃあ何で探してるんですか!?」
サイラスの言葉に、アイラは目を丸くした。最初から追いつけないと考えているのなら、なぜこんな追跡行をしているのか。
「帰り道で捕まえるのを狙ってるんだよ。いまの状況でエンバーがメイズに帰ったらどうなると思う?」
「あっ……」
メイズにはエンバー討伐の戦力が続々と集結している真っ最中だ。そんなところにのこのこと現れたら、衝突は避けられないだろう。教会は討伐強硬派の意見に傾いているし、エンバーが釈明のために言葉を割く姿は想像もつかない。
そして一度戦端が開かれてしまえば、人類対最強の不死者の全面戦争へまっしぐらだ。そしてその勝敗は……正直、エンバーに軍配が上がる気がしてならない。
「なんとしてもエンバーさんを見つけないとですね……」
「だろ? 幸い、エンバーは回り道をしない。目的から目的に最短距離で行動するだけだ。屍喰い蝶が一直線に黒幕の元に向かっているんだとすれば、道中で出会う可能性は充分にある」
あくまでもエンバーがメイズに戻る気があるのならだが、という言葉をサイラスは飲み込む。あまり悲観的なことばかり言っても仕方がない。
「おーい。あんたら、旅のお人かい?」
二人が話し込んでいると誰かの声がした。咄嗟に武器の柄を掴んで音の方向に向き直ると、暗い霧の向こうから毛皮を身にまとった老人が姿を現した。
「誰だ?」
「おお、剣呑剣呑。わしはこの近くの村の猟師ですじゃ。焚き火の明かりが見えたでのう。誰ぞおるのかと声をかけただけじゃ。お邪魔だったかの?」
老人はひらひらと両手を見せながら歩み寄ってくる。
「しかし、この霧では難儀じゃろう。夜を明かすのならわしらの村に来なさらんか? このあたりには、霧に紛れて襲ってくる魔物もおるでの」
にこにこと満面の笑みを浮かべる老人に害意は見られない。
そして、濃密な霧に困らされていたのも事実だ。サイラスとアイラは互いに目配せをした後、老人の申し出を受けて村を訪れることにした。
作品がお気に召しましたら、画面下部の評価(☆☆☆☆☆)やブックマーク、感想などで応援いただけると幸いです。




