三つの序章
区車美咲の足が動かなくなった原因は、父親によるものだ。
美咲の父区車亀三は、妻にも幼い頃の美咲にも、すぐに暴力を振るった。亭主関白どころではない、傲慢で横柄で理不尽で短絡的な暴君だ。何か気に入らないことがあるとすぐに怒号を飛ばし、拳を振り下ろす父親に対し、美咲と母親はいつも顔色を伺っていた。
その一方で、亀三は機嫌がいい時にはすこぶる優しい。どちらかというと、その優しい時間の方が多い。威張り散らし、虚勢を張り、自慢話ばかりして、他人はけなすようなろくでもない言動ばかりだが、それでも娘や妻に優しく接する。休みの日はいつも遊びに連れて行ってくれた。
恐怖と愛情が、美咲の心を苦しめる。憎みきれず、愛しきれず、二つの感情に振り回される形が辛い。怒ったり殴ったりしてこなければいいのにと、あるいは本当に心底ただの屑だったらいいのにと、何度も思ったものだ。
ある日、亀三が妻と娘を車で遊びに連れて行った際、事故を起こした。
亀三は日頃から、無茶な追い越し運転を繰り返していた。トンネルでもカーブ地点でもお構いなくだ。追い越し車線をずっと走っていることもある。
トラックとの衝突事故により、美咲は母を失い、下半身不随になった。
「すまん……ごめん……全部俺のせいだ。俺が悪いんだ……」
泣きながら土下座をして謝る亀三であったが、この時美咲は生まれて初めて父親に反抗的な態度を取る。
「許さないよ……。父さんのこと、もう許せないよ。ずっと恨む。いや……私も死なせてよ。私も死ねばよかったのよ。こんな足になってまで生きていたくない」
怒りに満ちた目で睨みつける美咲に、亀三は震えていた。より悲しんでいた。
一方の美咲はそんな父親の顔を見て、落胆のような感情を抱いていた。こんな父親は見たくなかった。威張り散らして、暴力を振ってきて、悪態をつきまくって、他人のことをけなしてばかりのろくでなしだった父親が、ひどく弱々しい姿を見せている。どんなに酷い父親でも、そこに確かな父性を感じていた。強さがあった。頼っていた。
(許せないよ。こんなに弱いの……。こんなの父さんじゃない。もう父さんはいないんだ……)
美咲はそう強く意識し、これまでのように父の顔色を気遣うことは無くなった。ほとんど口をきくことなく、冷たい態度で接した。そんな美咲に対し、父親はますます怯えたような態度を取るようになり、美咲の苛立ちと嘆きを助長させる。
「父さんな、美咲の足を治してもらうお願いをしてきた。そして父さんが美咲に認めてもらうためにも、超常能力覚醒施設に行って生まれ変わってくる」
ある日、亀三は穏やかな顔で娘にそう告げた。
それ以来、父親は家には帰って来なかった。
父親の代わりに様々な人が訪れ、美咲のことを気にかけてくれた。生活の支援をしてくれた。美咲はそれらの人達に対して礼儀正しく接した。
足を治す手術もしてくれた。しかし美咲の足は動かない。立つことが出来ない。
「おかしいねー。骨も神経も異常の無い状態なのに、立てないってことは、精神的な問題なんだと思う。何かよほどショックなことがあって、立つのを拒んでいる感じかなあ」
ボーイッシュな服の上に白衣姿を纏った赤い瞳の少女が、美咲の前で言った。美咲と同じくらいの年に見えるが、彼女が美咲の足を治してくれたそうである。
「別にいいんです。一生このまま立てなくても」
ぼんやりと虚空を見つめながら、自虐的な微笑を零して、美咲は投げ槍に言った。
それが二ヵ月前の話。
***
区車美咲は心の療養という名目で、転烙幻獣パークに通うようになった。
転烙幻獣パークは、見たことも無い不思議な動物達と、直に触れ合うことが出来る場所だ。純子は精神療養の一環として、美咲に勧めたのである。
(この歳で動物園なんか……)
と、初めは気乗りしなかった美咲であったが、通い始め、愛らしい動物達と触れ合うようになって、すっかり考えは変わった。
毎日のようにパークを訪れ、動物達と触れ合い、白禍ホツミという少女と仲良くなった美咲は、元気を取り戻していったが、依然として立つことは叶わない。
母親を失った事より、父親が変わってしまった事が――あの粗暴で愚劣な父親が変わったしまった事が、大きな傷になっている。あんな弱々しい姿を見せたうえで、いなくなってしまった事が堪えている。しかも自分のせいだ。おそらくはもう死んだだろう。何しろ超常能力覚醒施設では最も死亡率の高い、超絶限界突破コースを受けたという話だ。
「えっとー……楽しんでいる所、いいかなあ? ちょっと悪いニュースがあるんだ」
動物達と遊んでいる美咲とホツミの前に純子が現れ、躊躇いがちに声をかける。
「私は外れた方がいい?」
「一緒にいて……」
ホツミが遠慮して離れようとしたが、美咲は止めた。猛烈に嫌な予感がしたのだ。
美咲とホツミは会って日が浅いが、無邪気で明るいホツミのことを、美咲はすぐに好きになった。彼女と共にいることも癒しの一つとなっていた。
「君のお父さん、区車亀三さんね。超常能力覚醒施設から脱走したんだよ。美咲ちゃんの手術が終わったすぐ後にね」
純子から聞かされた話は、不安に対して身構えていた美咲の心を、お構いなしに大きくえぐる衝撃があった。
元々父親の生死は伝えられていない。聞いてもいない。何も言われない時点で、死んだに違いないと、勝手に決めつけていた。そう覚悟していた。
「亀三さんのこと、言おうかどうか迷っていたんだ。一番キツい、超絶限界突破コースを受けた人が脱走したケースなんて初めてだし、その後のことも……ね」
「その後のことって?」
さらの猛烈な不安を覚える美咲。相当ろくでもないことだからこそ、純子は今まで自分に秘密にしていたのだろうと、察しがつく。
「亀三さん、すっかりモンスターになっちゃってさあ、手あたり次第に人殺しまくってるみたいなんだよねえ。能力者の追っ手が何人も差し向けられたけど、全部返り討ちだし、この都市の最新テクノロジーによる監視網にも中々引っかからない」
これは美咲が真達と出会って会話してから、約一時間後の話。
***
転烙市に入った勇気と鈴音は、その風景に圧倒されつつも、既視感を覚えていた。
「空の川といい、あの植物の色といい、見覚えがあるな」
電車の中から外の風景を見やりながら、勇気が言う。
「政馬や史愉と一緒に行った、他の惑星だよ。クラブビュー」
「グラス・デューだ。馬鹿鈴音。あっさり忘れる鳥頭め。罰だ」
「痛い。痛いよ勇気」
「少しはこれで脳みそが活性化するだろ」
片手の拳を鈴音のこめかみに強く押し付けて回転させる一方で、勇気はずっと窓の外の風景を見続けている。
「あの時と同じだな。俺の魂が懐かしさを覚えている。あの星をこっちに持ってきたのか? 繋げたのか? それとも再現しているのか?」
誰とはなく問いかける勇気。いや、誰とはなくではない。この都市をこのように作り替えた者を意識している。
転烙市のグラス・デュー化。誰が成したものかはわかっている。こんなことをやろうと思いつく者など、そしてそれが出来てしまう者など、一人しかない。
「純子は何を考えてこんなことをしているんだと思う?」
「私にわかるはずないよ、そんなこと」
勇気の問いかけに、鈴音はきょとんとする。
「足出しエロ女同士でシンパシー無いのか? それとも俺に反抗して、脳みそを働かせようとする気が無いのか?」
「痛い、痛いよ勇気」
今度は鈴音の太股の皮を思いっきりつねる勇気。
「あー、見てー、眼鏡のおにーちゃんが痴漢してるーっ」
五歳か六歳くらいの女の子が、勇気と鈴音を指して声をあげた。乗客達の視線が勇気と鈴音に注目する。
「ち、違うっ。ふざけるなっ」
慌てて声を荒げる勇気。
「違うわよー。さっちゃん。あれはいちゃついてるっていうの」
「そっかー、二人はらぶらぶふぁいあーなんだー」
母親が笑顔で我が子の頭を撫でながら告げると、女の子は勇気達の方を見て、嬉しそうな声をあげる。
「いちゃついるんじゃないぞ。ふざけるなっ」
「えー? らぶらぶふぁいあーでいいじゃない」
勇気が女の子と母親に聞こえるように吐き捨てるが、親子はくすくすと笑ったままだ。鈴音も上機嫌になっている。
「何かこんなやり取り、前にもなかったか?」
「そうだった?」
勇気が鈴音に伺うが、鈴音は覚えがない。
「あれって……葛鬼勇気じゃないか?」
「現国家元首の? まさかだろ。こんな所にいるはずがない」
「でも凄く似てるぞ……瓜二つ」
「いや、本人でしょ」
電車内がざわつく。注目の視線を浴びるが、勇気は気にしない。
「勇気目立っちゃったよ。やっぱり変装してくればよかったよ」
「世界の中心であり、主人公であり、王の中の王であるこの俺が、人目を気にしてこの俺にこそこそしろってのか? ふざけるなよ」
鈴音の言葉にむっとして、また折檻しようとした勇気であったが、その動きが止まる。
「また鬼の泣き声だね」
勇気の表情の変化を見て鈴音が言い当てる。声が聞こえた時の勇気の表情の変化を、これまで何度も目にしてきた鈴音には、すぐにわかる。
「しかもかなり大きい。やることが増えたな」
勇気が気怠そうな口調で言った。
それは一週間前の話。




